餓鬼仏の夜

 

僕のじいちゃんが94歳で亡くなった。

ここ5年ほどは認知症でほんの5分前のことすら覚えていないありさまだった。

ただ、家族の顔だけはしっかりと覚えていてくれたのは嬉しかった。

通夜の晩、棺桶の中のじいちゃんを見ながら何を思ったか、ばあちゃんが古い思い出を語り始めた。

それは横にいる僕にというよりは、独り言のようなつぶやきだった。

 

今年卒寿を迎えるばあちゃんが、じいちゃんと夫婦になってまだ間もない頃。

ふたりは、当時一般家庭に普及し始めたプロパンガスを扱う店の2階に間借りしていた。

戦後民法が改正されて、新婚旅行も少しずつ増えてきた時代。

戦前からテニスを楽しむなど流行りを先取りしていたひいじいちゃんの影響か、ふたりは6月に結婚式を挙げてジューンブライドを気取った。

旅行から帰って新居に落ち着き、ご近所や職場、親戚に式のお礼がてらお土産を配っていると、梅雨が明けて夏が来た。

 

さて、お盆になると先祖の霊が各家々に帰って来る。

家々では祖霊を供養するための準備に余念がない。

だが、ご先祖の霊たちは行く当てのない無縁仏を大勢伴って帰って来るのだそうだ。

供養してもらえる家の無いこうした無縁仏を別名餓鬼仏という。

先祖の霊をお迎えする家々では、この餓鬼仏をも併せてお迎えする。

これを施餓鬼といって、わずかながら米や餅、団子などの菓子、あるいは水などを縁先に供えてその飢えや渇きを癒していただくのだ。

餓鬼仏を我が家までいざなった先祖の霊も、これで面目が保たれるというものではないだろうか。

だからお盆には大勢の餓鬼仏が町を徘徊している。

「お盆の夜はちゃんと窓を閉めとかんといかんよ。餓鬼仏さんが入ってくるでよ」

ばあちゃんはひいばあちゃんからそう聞かされたことがあるらしい。

ある夜、若かりしばあちゃんは若かりしじいちゃんの職場の制服のほころびを縫っていた。

じいちゃんは国鉄に勤めていて、濃紺の制服には機関車の車輪を模した金色の釦が並んでいた。

じいちゃんの持ち場は専ら気動車のバッテリー液を補充したりこびりついた油汚れを洗浄するところで、作業の途中で強い薬剤が制服にはねて濃紺の制服がはぜて白い穴があちらこちらに開いていた。

当時は空調なんてまだ無いし、かといって扇風機もなかなか買えなかったらしく、蚊帳をつって窓を開け風を入れて涼を取っていた。

その日、先に布団に潜り込んだじいちゃんの横で、ばあちゃんは夜遅くまで繕い物をしていたそうだ。

窓から入る夜風が蚊取り線香の煙を揺らしている。

ようやく針仕事が終わって制服をきれいに畳んだ後、疲れからかばあちゃんも蚊帳の中で眠りこけてしまったのだそうだ。

 

深夜、ばあちゃんは蒸し暑さで目が覚めた。

隣で寝ているじいちゃんもじっとりと寝汗をかいている。

水を飲もうと蚊帳から出てばあちゃんは気がついた。

―――風がやんでいる?

そう思って開けていたはずの窓に目をやると、そこには。。。

「ひっ!」

顔だ。

おびただしい数の顔。

人ではない。

亡者!

皮膚がはがれた赤黒い顔。

瞼が無くむき出しになった眼球。

毛髪がほんのわずかに付着しているだけの頭部。

そうした無数の異様な顔が四角い窓枠に殺到している。

皆、窓枠の中に我先に顔を突っ込もうとして押し合いへし合いしながら目だけはばあちゃんを見ていた。

むき出しの大きな血走った眼球が、自分を見ている。

唇の無い口が開いて歯をむいている。

「餓鬼仏!」

次の瞬間。

大勢の餓鬼仏が押し合う圧に窓ガラスが耐え切れず、ついにバリンと割れた。

まるで穴が開いた船底から海水が流れ込むように、餓鬼仏の群れが塊になって室内になだれ込んだ。

「ひぃあああ!」

 

そこで目が覚めた。

ばあちゃんは両手を天井に向けて伸ばし、虚空を掴もうとしている。

首から胸にかけて冷たい汗でぐっしょり濡れていた。

はぁはぁはぁ。

夢だった。。。

その時、引き寄せられるように視線が動いた。

窓が開いたままだ。

「!」

背筋に冷水を流し込まれたような気がしてばあちゃんは跳び起きた。

蚊帳を跳ね上げてあえぐように窓に駆け寄るとピシャリ!と閉めた。

胸の激しい鼓動が収まるまで、その夜は寝つけなかった。

それから送り火を焚くまでの何日か、夜になると息苦しかったそうだ。

まるで大勢の人たちにのしかかられているように。。。

<完>