仮面ライダー響鬼外伝  鈴の蒼鬼2

兇乱の魔怒鬼 〜きょうらんのまどき〜 前篇


(序ノ一)猛雨の激闘

叩きつけるような横殴りの雨が降っている。

今日までかろうじて枝にしがみついていた残りわずかな桜の花びらも、容赦ない天の仕打ちの前に次々と力尽きて散ってゆく。

分厚い黒雲に支配されたその山中では、ぬかるんだ土の上で壮絶な戦いがくりひろげられていた。

人同士による決闘などといった、尋常なる戦いではない。

片や上背が2メートル以上もある大男、もう一方は10メートル近くもある空飛ぶ化け物である。この両者がどしゃ降りの中で正面から組み合っている。

空飛ぶ化け物は巨大な太刀魚のごとき銀色の細長い形をしている。頭部には巨大な丸い目と大きく裂けた口があり、そこからのぞくおぞましい乱杭歯が雨の中で怪しく光っている。ウブメという魔化魍である。湖沼地帯に巣食い、成長した暁には空から飛来し人を襲って喰らうのだ。

片や大男も常人の姿ではない。体表は、薄墨色の全身をさらに濃い墨が幾筋も流れてできたような迷彩模様である。巨大な魔化魍の頭を両手で掴み、大地にねじ伏せている。両肩の筋肉が大きく膨れ上がり、底知れぬパワーを生み出している。何より異様なのは大男の額の中央からにょっきりと太い角が突き出していることだ。ねじくれながら伸びている。まさしくオニである。顔面には目も鼻も口も無く、泣いているかのごとき夜叉を思わせる朱の隈取が浮かびあがっている。

ぐおおおおおおおおお!

オニが吼えた。

メリメリメリメリ。

ギョギョエエエエ。

とてつもない怪力で押さえつけられたウブメの頭部がふたつに裂けはじめた。皮が裂かれ肉が裂かれ、骨までもが力まかせに粉砕されてゆく。鼻先から白い体液を盛大に吹き出しながら、ウブメの体は少しずつ縦に引き裂かれてゆく。

ウブメは全身をビチビチと激しくのたうたせて何とか逃れようとするが、オニは意に介せずひたすら相手の体を裂いてゆく。ついにウブメはぴくりとも動かなくなった。

ゴオオオオオオオオ!

オニは両の拳を空に突き上げ、まるで天上の神々に己の力を誇示するかのように勝どきの咆哮をあげた。その足元には白濁した体液のたまりができ、それを激しい雨が大地にしみこませてゆく。

その時―――。

オニの周囲の茂みから一斉にいくつもの影がとびだしてきた。

「見つけたぞ!」

「もう逃がさん!」

とびだした影は6つ。人間の言葉を話してはいるが、彼らもやはり鬼の姿をしている。皆、頭部にそれぞれ異なった形状の角が生え、体の色彩も、黒や青や緑など独特のものである。

手には音撃棒やら音撃弦やら音撃管を持っている。いずれも秘密組織猛士に所属する音撃戦士たちなのだ。体の一部のように扱える得物を構え、ウブメを屠ったばかりのオニを取り囲んだ。姿は似ていても彼らは敵味方、その本質はまるで違う。

ぐるるるるるる。

新たな敵の出現に、灰色のオニは益々戦闘意欲をみなぎらせ、両端に鬼石のついた3メートルほどもある棍を構えた。

山全体が水没するのではないかと思えるほどの激しい雨の中、戦いの第二ラウンドが開始された。

「てやあ!」

「とおりゃああ!」

裂ぱくの気合とともにオニめがけて得物をふるう6人の鬼たち。しかし、その攻撃のことごとくをオニの音撃棍は受け止め、跳ね返した。

オニが音撃棍を頭上で回転させると、両端の鬼石が赤く発光しはじめた。光は熱を呼び、やがて高速回転する音撃棍は灼熱の炎をまとって降り注ぐ雨を蒸発させた。

赤い鬼が繰り出した音撃棒が棍にはじかれて根元からへし折れた。

緑色の鬼が振り下ろした音撃弦は粉々に粉砕されて飛び散った。

猛士が誇る鬼の攻撃はオニには通用しない。その力量の差は歴然としていた。

「だめだ」

「ならば押さえつけろ」

「あの腕の鬼弦を奪うのだ!」

自分たちの技量ではこのオニを倒せぬと悟った6人の鬼たちは、オニの命の源である変身鬼弦を奪い取ってその力を削ごうと考えたのだ。

敵の動きを封じ込めんと、体のあちらこちらに鬼たちが飛びかかった。

最初に近づいた黒い鬼が左肩に音撃棍の痛烈な一撃を受けた。たまらず両膝を地面につきながらも、黒い鬼は肩に打ち込まれた音撃棍を両手で掴み、その動きを封じた。その隙に、他の5人が次々にオニの体へしがみついていった。

右手にとりついた青い鬼が振り払われて数メートル飛ばされた。そこへ別の鬼がとりつき、さらにもうひとりがとびついた。振り払われ、後方へ放り投げられた鬼もふたたびオニのもとへ駆け寄ってしがみつく。オニの体は6人の鬼たちの姿に埋もれて見えなくなった。

「鬼弦を奪え!」

「鬼弦を早く!」

「ダメだ!!取れない」

焦燥と悲壮感の入り混じった声があがった。オニも鬼たちも地面を転がって泥だらけだ。全身に泥をまとい、その泥を豪雨が洗い落とす。

いくつもの手が鬼弦にかかり、オニの腕から引き剥がそうとするのだが、鬼弦はまるで肉体の一部であるかのようにはりついて、いっこうに剥がれようとしないのだ。

「早く!早く奪え!俺は・・・もう持ちこたえられん・・・」

音撃棍を肩にめりこませた黒い鬼が呻いた。これ以上このままの態勢で音撃棍を封じているのは無理だ。

ぐるあああああああ!

その時オニが吼えた。四肢を激しく震わせて両腕をぶるんと振り回すと、まるで人形のように鬼たちが四方へ転がった。

黒い鬼の捨て身の行動の甲斐もなく、オニを倒すことも、その腕から変身鬼弦を奪うこともかなわなかった。

鬼たちは焦燥と絶望にくじけそうになった。

ごおおおおおああああああ!

オニが再び雄たけびをあげた。何者も自分を倒すことは出来ないのだということを万物に知らしめんがごとき大音量の叫びだ。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ―――。

その時、地の底から不気味な唸り声が響いた。鬼たちのぬかるんだ足元が小刻みに震えている。

「地震か?」

「山が・・・鳴っている」

背後の急斜面からばらばらと大小さまざまな石が転がり落ちてくる。

魔化魍との戦いのため普段山中にいることが多い猛士の鬼にとって、わずかな兆候から大きな異変を嗅ぎわける能力は必要不可欠なものだ。

斜面の木々が同じリズムで動いている。まるで踊っているようにも思える。風雨による揺れとは明らかに違う。

「いかん、これは!」

「みんなさがれ!崩れるぞ!!」

リーダー格である銀色の鬼の号令に従って、動けぬ黒い鬼を緑と青の鬼が両脇から抱えあげた。

山鳴りは一層大きく強く響いている。音撃棍を振りあげて戦いの続行を訴えるオニを残して6人の鬼たちが後方へ大きく退いた瞬間、頭上の山が動いた。

轟音は横殴りの雨音と混じって耳をつんざくほどだ。続けさまに爆撃されているような錯覚すらおぼえる。

斜面の森がオニめがけて滑り落ちてきた。激しい雨に斜面の土が浮き上がり、踏ん張りきれなくなって樹木ごと斜面にそって川のように流れ始めたのだ。

ごらあああああああ!

覆いかぶさるように滑り落ちてくる膨大な土砂と大木に向かってオニは威嚇の咆哮をあげたが、無表情で無慈悲な自然の鉄槌は、時速数十キロのスピードで灰色の小さな人影を一気に呑みこんだ。

 

山崩れがおさまっておよそ20分経った。狂ったように降り続いた雨もやみ、厚い雨雲の隙間からは、おぼろげに日の光がさし始めている。

山の斜面にあった土砂は扇状に広がり、巨大な落石やへし折れた大木がそこらじゅうの地面から突き刺さったように顔を出している。先ほどまでの景色とは、まったくさま変わりしてしまった。

「危ないところだったな」

「うむ」

「しかしものすごいありさまだぞ、こりゃ」

山崩れの直前に後退した鬼たちがふたたび戦場へ集まってきた。

「ヤツめ、死んじまったかな?」

ぬかるんで歩きにくいことこのうえない土石流のうえを、鬼たちは探しはじめた。鬼たちは危険地帯から脱出する寸前、オニがあっけなく土砂の中に埋没するのを目撃していた。いかに怪力無双の魔化魍とはいえ、これだけの土砂に押し寄せられてはひとたまりもあるまい。とは言え、皆、どこか胸の内にある一抹の不安をぬぐいきれずにいた。

「いないな・・・?」

本来ならこの土石流の中からヤツの姿を発見するには数日はかかるところだ。

さしもの魔化魍もやはり助からなかったようだと皆が思いはじめた時―――。

ボシュッ!

引きちぎれた根を天に向けて泥に埋没していた巨大な杉の大木が、突然ロケットのように空へ舞いあがった。放物線の頂上で反転した巨木は、集まっていた鬼たちの頭上へ落下して、溜まっていた泥を盛大に跳ねあげた。

「うわっ!」

「なんだ、いったい!?」

ひと跳びで数十メートルもジャンプできる跳躍力を誇る鬼たちにとって、この難を逃れることなど造作もなかったが、それよりも先ほどまで杉の巨木が埋まっていた場所に、驚きの視線が集中した。

ぼっこりと開いた泥の穴から太い腕が一本のぞいている。まるで泥の海から生まれ出たかのように、肩から先の腕一本がまっすぐ伸びて虚空を掴んでいるのだ。さきほどの杉の木は、この腕一本によって天高く放りあげられたというのだろうか?純粋に腕一本だけであのような芸当が可能であろうか?いかに鬼といえども容易にできることではない。もしできるとすればそれは―――。

「やつだ!」

泥にまみれてはいても、常人男性の太ももすら凌駕するほどの太い腕である。見紛うはずもない。何よりその腕には、あの変身鬼弦がしっかりと巻かれている。

かがんでその腕を観察していた青い鬼が銀色の鬼を振り返った。

「音撃弦でこの腕を切り落とす。腕ごと鬼弦を回収しよう」

「承知」

銀色の鬼は愛用の音撃弦をふりかざした。

その時、みずからの危機を本能的に察知したのか、オニの腕がぴくりと動いた。

「む、こやつやはり生きているぞ」

「信じられぬ。この膨大な土砂の下で」

驚く鬼たちが見守る中、オニの腕が突然傍らの青い鬼の首をむんずと掴んで地面に引き倒した。

「ぐ、ぐわあ」

青い鬼は泥の地面に頭の左半分をめりこませてもがいている。つかまれた喉笛が押しつぶされそうだ。

「は、早く切れ・・・切り落とせ」

「とおりゃあああ!」

苦悶の声をあげる仲間を救おうと、銀色の鬼が気合もろとも音撃弦を振り下ろし、オニの腕は肩からざっくりと切断されて青い鬼ごとぬかるみの中へ転がった。

おおおおおおおおおおおおおおん―――。

その瞬間、解き放たれた怨念の塊が山全体に染みわたったような不気味な山鳴りがとどろき、一陣の冷たい風が鬼たちを包んだ。

「おお、ヤツが!」

ひとりの鬼が指差した。切られたオニの肩がみるみる石になってゆくではないか。頭を含めて体のほとんどが泥の中に埋没しているが、おそらく泥の中でも同様の変化がおこっているのであろう。力の源たる音錠を切り離され、無敵の魔化魍もついにその命を絶たれたにちがいない。

ようやく手に入れた凶悪なオニの腕を、緊張の面持ちで見つめる銀色の鬼の周囲に、他の鬼たちもそろそろと集まってきた。

「とうとう、やりましたな」

「うむ。手ごわいヤツでした」

「誠に・・・」

困難な任務を遂にやり遂げて感極まった銀色の鬼は、切り取ったオニの腕を頭上へかざし、他の鬼たちもそれにあわせて歓声をあげた。

 

「あ〜あ、結局取られちゃったわね。苦労してこしらえたのに」

崩れ落ちた斜面のいただきに浴衣姿の若い女が現れた。淡いピンクの可愛らしい小花模様の浴衣だ。日本髪こそ結ってはいないが、最近出回っている麦酒の広告の美女画を彷彿させる。それにしても豪雨の直後の山奥に浴衣とは、かなり妙な取り合わせである。

切り取ったオニの腕を嬉々として持ち帰ってゆく鬼たちを高みから見下ろしてため息をついた。

「でもま、いいか。また造ればね?」

女は背後に向かって声をかけた。

そこには背の高い男性が腕組みをして立っていた。こけた頬に鋭く尖った鼻、薄い唇。女に比べると冷淡な印象を受けるが、陽光を反射している縁なしの丸いメガネが、鋭いまなざしを隠しているのが救いである。

女と同じように紺地の浴衣を粋に着こなしている。声をかけたものの、女は無言で脇へどいた。男の全身から明らかに怒りの気が発せられていることに気づいたからだ。

「いいわけがあるものか」

男は歯をむいて唸った。この男がこれほど怒るのは珍しいのか、女の声もいつもより小さくなっている。

「よほど気に入っていたのね」

「それだけではない。あのオニを造るのにどれだけの手間がかかったと思う?ようやく手に入れた鬼どもの変身鬼弦を解析し、その律を少しずつ少しずつ変えて、最も邪まなる音律を組みあげたのだ。音撃棍の鬼石も、私なりに何度も工夫を重ねてこしらえたものだ。どれほど細かくどれほど時間を費やす作業であったか、お前も見ていて知っているだろう」

「うん、まあ」

男の剣幕に気圧されて、女はさらに後ろへあとじさった。

「あれこそは至高の魔化魍なのだ。必ず取り返してみせる。私の可愛い魔化魍のオニ。何年、何十年、何百年かかろうとも。必ずだ!」

ぎりりと歯がみの音をさせながら、男はきびすを返して森の中へと姿を消し、女も小走りでそれに続いた。

(序ノ二)絶海に死す

クリアブルーというのだろう。

天空をたゆたう海鳥たちの高度から見下ろしても、海底の岩礁や魚の群れなどがはっきりと見て取れるほどの透明な海である。

その海を切り分けるようにひとすじの細く白い航跡が一直線に走ってゆく。

航跡のもとは真白いクルーザーであった。船首に「りゅうぐう」と書かれている。

全長約60フィート、一見高級クルーザーのような優雅な流線型のシルエットを持ってはいるが、外洋の決して穏やかとはいえぬ海面を、60ノットもの超高速で切り裂きながら進むさまは、獲物めがけて突き進むホホジロザメを思わせる。

操縦しているのは30歳半ばの男である。日に焼け、潮に焼かれて浅黒い肌とは逆に、短く刈った頭髪は白く色褪せていた。こけた頬が高い鼻梁を際立たせ、前方の水平線を睨む瞳が、窪んだ眼窩の奥で光っている。

男の名は煉鬼<れんき>という。

日本全国に潜む魔化魍と戦い、人間の平和を人知れず守る組織「猛士」の九州支部、八重山分署所属の鬼だ。といっても、八重山分署には彼ひとりしかいない。

石垣島・西表島・与那国島はじめいくつもの島々をパトロールして魔化魍を探し出し、作戦を立て、倒し、支部へ報告する。何から何まで彼ひとりでやらねばならなかったのだ。強い使命感に裏打ちされた不屈の精神力は、不眠不休の戦いの日々にある彼を、死に物狂いで支え続けてきた。

GPSで進行方向に誤りがないのを確認した煉鬼は、傍らに置かれた2通の手紙に目をやった。どちらも吉野の猛士本部からのものである。

1通は、魔化魍退治のレポート提出が遅れがちであることを注意する叱責の手紙である。そしてもう1通は、ここ数ヶ月まったく休みをとっていないことへの抗議文である。同じ本部でも異なった部署から出されたこれらの手紙に、煉鬼はどうしようもない閉塞感を感じていた。これが今の猛士という組織である。現場が抱える諸問題を包括的に解決する能力は、もはや吉野本部には無い。その胸に宿るものは、怒りというより悲しみであった。

「ふぅ〜」

無意識に漏れたためいきは、決して疲れによるものではないのだ。

しかし、今の彼には希望があった。

昨年弟子を取ったのだ。しかもとびきり優秀な弟子だ。つい先日、吉野の許しを得て正式に鬼に昇格した。わずか1年足らずの超スピード昇格であった。

名を牙羅鬼<がらき>とした。

煉鬼はソナーシステムの上に置かれたポートレートに目をやった。

彼に肩を抱かれて屈託なく笑う日焼けした若者がいる。まだ幼さが残る綺麗な顔立ちからは、魔化魍との苛烈な戦いに身を置く者の翳は微塵もうかがえぬ。

もともと煉鬼は、吉野本部から「早く弟子をとれ」と再三催促されていた。それは、広い八重山諸島をひとりで守り抜いているこの男の戦闘技能が、一代で絶えてしまうことが惜しまれていたからにほかならなかった。しかし、いずれ自分が引退すれば、今度はその弟子が八重山諸島をひとりで守らねばならなくなる。その激務を思うと、どうしてもその気になれなかったのだ。

だが牙羅鬼は違っていた。ずば抜けた身体能力、明晰な頭脳、特に格闘における体のさばきは天性のセンスを誇っている。

―――こんな男がいるものなのか。

煉鬼は舌を巻いた。先日関西支部に、師匠を持たずして鬼になった天才的な太鼓の使い手が現れたと聞いたが、牙羅鬼ならばその音撃鼓使いにも決してひけはとるまい。今や煉鬼は独り立ちした弟子を心から誇りに思い、また頼りに思っていた。

―――これからは少し楽になるかな。

水平線のかなたにぼんやりと見え始めた島影を見つめながら、煉鬼はほんの少し口元を緩めた。

 

島影は次第に濃くなってゆく。西表島である。

仲間川流域のマングローブ林で魔化魍らしき化け物の目撃例が報告されていた。恐らくはアミキリであろうと、煉鬼は目星をつけていた。

沖縄本島よりも台湾に近い亜熱帯の島である。魔化魍の成長も概して本土より早い。うかうかしていては人口2000人ほどの西表島は、哀れな無人島にされかねない。

猛士より支給されたスーパークルーザー「りゅうぐう」は、煉鬼のはやる気持ちを反映してか、一層スピードをあげた。

異変は、西表島までもう間もなくという頃に突然起こった。煉鬼の第六感が身の危険を告げはじめたのだ。

「何だ?」

危険を知らせる第六感は、胸騒ぎとなって喉まで湧き上がってくる。

ようやく水中ソナーが海底から接近する正体不明の物体を報告した。全長10メートル近い巨大な物体だ。水深わずか数十メートルの海底の、一体どこに潜んでいたものか?

クルーザーの右舷の海の色がどす黒く変色し始めた。魚などではありえない。煉鬼は既に正体を悟っていた。

「この忙しい時に。海坊主め!」

煉鬼は操舵輪を目いっぱい回して取舵をとった。

ザザーン。

間一髪、先刻まで「りゅうぐう」がいたあたりの海面が爆発したように立ち上がり、おびただしい水しぶきがあがった。中から姿を現したのは、煉鬼の読み通りどす黒い姿の海坊主であった。

目も鼻も口も無いのっぺらぼうの巨人は、子供が作った泥人形のように辛うじて頭や手が判別できるような曖昧な体つきである。表面はぬめぬめと光っていて、触れれば崩れそうにも思える。しかし、古来より航行する船を海中へ引きずり込んでしまうという悪質な妖怪である。しかも船舶の大型化に伴って、自らも10メートル級の巨大な化け物に進化してしまった。その滑稽な姿を笑って見ていられるほど穏やかな存在ではない。

ぬぉおおおおおん。

深い海の底から響くような鳴き声をあげると、海坊主は左へ急旋回するクルーザーめがけて右手を振りおろしてきた。

「させるかっ!」

煉鬼はコクピットに増設されたコントロールボックスの赤いボタンを押した。

ドンドンドンドン!

クルーザーの後部に並んで設置された円筒が続けさまに白煙をあげ、4発の照明弾が海坊主の眼前に打ち出された。

パパパパン。

明るい真昼の陽光を駆逐するかのような鋭い閃光がきらめき、深海を棲家とする闇の魔物は、あるはずのない目を焼かれてのたうった。

うええええええええんんん。

はらわたを揺さぶるような重く不気味な苦悶の声をあげて、海坊主はひゅるひゅると小さくなってしまった。何らかのダメージを受けるとスケールダウンするらしい。

―――今だ。

煉鬼は懐から鬼の角を模した音叉を取り出すと、操舵輪にコツンとあて、そのまま自らの眉間にかざした。

チィィィィィィィン。

振動する鬼の角は、か細くも力強い特殊な波動を煉鬼の眉間に送り込み、極限まで鍛え抜かれた肉体を構成する細胞ひとつひとつの中で閉ざされていた鬼への変身回路を一気に開放させた。

トオオオオオオオオ!

気合と共に煉鬼の姿は、異形の鬼へと変貌した。

頭頂部と左右のこめかみ部分に、前方へ大きく突き出された角を持ち、八重山の海と同じクリアブルーのボディにはルネッサンス時代の彫刻のごとき筋肉の隆起が見て取れる。これが煉鬼の真の姿なのだ。

「鬼」となった煉鬼はコントロールボックスの青いボタンを押した。

今度は後部デッキに置かれたツールボックスのフタが自動的に開き、中から直径15センチほどの無数のディスクが次々と飛び出した。

ディスクは空中でクルリと回転すると、あるものは細長いヘビの形に、他のものはツバサを広げた鳥の形に変形し、いずれも海坊主めがけて突き進んだ。頼もしい鬼の相棒、ディスクアニマルのエンバクイラブとシャクドウカンムリワシである。

「たのむぞ」

クルーザーをオートパイロットに切り替え、自らも後部デッキに出た煉鬼は、ディスクアニマルたちに声をかけた。彼らは小さいながらも鋭く強力なキバやツメで海坊主を攻撃する。破壊力では劣るが、小さく素早い分、巨大で愚鈍な海坊主には反撃が難しい。

後部デッキで仁王立ちした煉鬼は、音撃棒を両手に構えると全身の気を練り上げて頭上に高くかかげた。気の高まりとともに煉鬼の全身からゆらゆらとかげろうが立ち上る。

「くらえっ!音撃・・・?」

ゴオオオオオオ。

振り返った時にはもう目の前まで来ていた。

直径3メートルはあろうかという巨大な炎の塊が、渦を巻きながら「りゅうぐう」めがけて猛スピードで飛来したのだ。

ドオオゥゥゥン!

猛士自慢の高速クルーザーは、岩をも溶かす超高熱の炎につつまれて爆発炎上した。

立ち昇るオレンジ色の炎と黒煙は、西表島からもはっきりと目視することができた。

天を突くようなヤエヤマヤシの木陰で沖を見つめる人影がみっつ。親子ではあるまい。華奢な体つきの少年をはさんで左右からよりそうのは、少し年の離れた兄と姉であろうか。にしては、似ていない。

「見事だ」

「ほんに大きな火球だったこと。おまえ、とうとう師匠を越えたねぇ」

左右からかけられる称賛の声とはうらはらに、少年の表情は硬くこわばっているふうに見える。兄姉とともにいる時のような安心感すら、微塵もうかがえぬ。ただ、舳先を天に向けて水没してゆくクルーザーの無残な姿を、唇を噛んで凝視していた。

「お前の道は開かれた。お前だけの道だ。これからもっと精進しなければな」

「そうさ。これでもう後戻りはできぬ。しっかりおやり」

肩を抱く手に力がこめられ、少年は黙ってこくりと頷いた。

垂直に上昇してゆく黒煙は、海と空が織りなす青の世界をみるみる侵してゆく。

海坊主やディスクアニマルまでも飲み込んだ業火は冷たい水の中に沈んでも消えず、クルーザーの残骸は、暗い海の底で三日三晩燃え続けた。

竜宮

(一)鬼の社

―――15年後。

巨大な満月の夜であった。

いやに赤い。まるで異世界への門が開いているようだ。今にも何やら不吉な者どもが、その赤い輪をくぐってこちら側へ降りてきそうな気さえする。

奈良県吉野山。

かつては南朝がおかれ、多くの修験者がつどった聖なる地。いにしえより風雅なる人々が心惹かれた美しき山も、今は月光を浴び、赤い薄絹をまとったようで何やら不気味な相を呈している。

春ならば、谷から尾根にかけて何万本もの桜が咲き誇る絶景を楽しむ観光客で賑わう展望台に、ひとり立つ影あり。

じっと眼下の一点をみつめている。

生い茂る豊かな樹木の中に、かろうじて鳥居の頭が見えている。湾曲した笠木が、鳥居の立派な全景を想像させる。

鳥居はみっつ並んでおり、その延長線上には大きな木製の切妻屋根がある。いずれ名のある立派な神社の社殿であろう。

「いい眺めだ」

影がにやりと笑った。声は若い男のものだ。

「さて、ではいただきに参るとするか。オニの秘宝を」

声の主はそう言うと、展望台の柵を軽々と飛び越えて崖の下へ姿を消した。

 

太古より日本の山野には、人の天敵が潜んでいる。深い森や谷底にてじっと息を殺し、不用意に近づいてきた人間を素早く捉えて食すのだ。

そのような天敵、魔化魍の脅威から密かに人間を守り続けてきた一団がある。全国に展開する秘密組織「猛士」がそれだ。魔化魍を研究し、その特性と弱点を探り、倒し方を編み出し、そのための武器を開発してきた。

そして人は、何百年と続く魔化魍との戦いの中において、ついに魔化魍と等しい、いやむしろ奴らを凌駕する超絶能力を会得するに至る。そのあまりのエネルギーゆえに肉体組織は激変し、異形の「鬼」へと変貌した。その鬼こそが、人間の平和を守る猛士の象徴である。筆舌に尽くせぬ厳しい修行の果てに鬼の高みに到達した者たちを、猛士の者たちは深き尊敬の念をもって全力でバックアップしてきたのだ。

ここ―――、先刻吉野山の展望台から謎の男が見下ろしていたこの神社は、その猛士にゆかりの深い聖地のひとつである。

壱の鳥居から弐の鳥居へむかう長い石畳の参道を進む人影があった。

スポーティでシャープなシルエットが颯爽と神社の深奥へ向かって移動してゆく。大きく手を振ってリズミカルに歩くたび、肩まで垂れた頭髪が楽しげに揺れている。女性にまちがいなかろう。

参道の周囲に生い茂る樹木のあいだから、月明かりが差し込んでその全身を照らし出した。

明るいベージュのパンツスーツ姿である。淡い栗色のセミロングヘアが端正な顔を際立たせている。

30代前半といったところか。どちらかといえば古風な顔立ち。高い鼻と真一文字に結ばれた薄い唇の口元がその表情をきりりと引き締めていて、なにやら心のうちに強く秘める思いがあることをうかがわせる。

時刻は夜中の2時を少し回った頃・・・いわゆる、草木も眠る丑三つ時というやつである。尋常なる来客を迎える時間帯ではないが、前だけを見つめてひたすら歩く彼女からは、夜陰にまぎれて忍び込み、人目をはばかっているという印象は受けない。

エナメル仕上げされた白いウェッジサンダルの爪先がふと止まった。

眼前に誰か倒れている。ふたりだ。

無慈悲な月光が倒れている両名を白く照らしている。ひとりはうつ伏せに、もうひとりは仰向けに倒れていた。両名とも男性で、しかも全裸である。

その女性は先ほどよりも少しだけ慎重に歩を進めると、倒れている者たちに近寄り傍らに片ひざをついた。

体に触れずとも、既に息絶えているのはすぐにわかった。若い女性が持つ恥じらいなど微塵も見せず、その女性は男の全裸の死体をじっと検分した。

ふたりとも頭髪には白いものが混じっている。50歳前後といったところか。初老にしては立派な体格である。生命の息吹きを失った今も、腕、胸、腹などには見事な筋肉の隆起がうかがえる。鍛えに鍛え抜かれた証しであろう。

「鬼か。それも一度は引退した身だな」

ぼそりとつぶやいた声は、外見よりもはるかに齢を経た者のそれである。

鬼への変身に際して肉体から発散されるオーラは、炎、いかづち、冷気、風など、さまざまな自然現象を媒介した物理的エネルギーとなって周囲に放出される。それゆえ、身にまとっている衣服はそのつど四散してしまうのだ。鬼の姿のまま命を失えば、彼らのように全裸の死体をさらすことになってしまう。

「現役を退いたおいぼれを守衛に使うとは、吉野の鬼不足もいよいよ深刻なのだな。それにしても一体誰が・・・?」

全身に強烈な打撃による内出血が認められる、老兵とはいえ、鬼に変身できる身体能力を有した者をふたりも屠るとは、油断できぬ相手である。

―――魔化魍か?

女性はあたりの気配をうかがった。

神社全体を覆い包むように、魔化魍除けの結界が張り巡らされているのがすぐにわかった。強力な結界である。ここに結界が張られていることを外部に対してはっきりとアピールし、魔化魍をはなから近づけさせないよう配慮されている。隙の無い、見事な張りようだ。

彼女の研ぎ澄まされた聴覚がある音色を聞きつけた。常人には聞き取れぬであろう控えめで可愛いらしい音だ。はじめて女性の表情が動いた。その綺麗な顔に浮かんだのは明らかに驚きの色である。

―――鈴?今の猛士に音撃鈴の使い手がいたとはな。

この結界ならば魔化魍は容易には侵入できまい。いや、おそらく吉野山そのものに近づこうとすらしないはずである。ではふたりの守衛の鬼を屠ったのは何者であろうか?

「まぁいい。これはこれで好都合だ」

女性は素早く立ち上がると、無表情のままふたつの死体をまたぎ、ふたたび長い参道を更に奥へと進んでいった。

好都合・・・つまり、彼らふたりの守衛が生きて彼女に出会っていたなら、やはり彼女が彼らを倒したであろう、ということなのか。

やがて彼女は弐の鳥居、参の鳥居をくぐり、立派な拝殿前に着いた。

拝殿に向かって右側には社務所が設けられ、その間を拝殿の裏側、本殿へと通ずる石畳の参道が伸びている。

女性は反対側へと歩を進めた。

道とは思えない。一面生い茂る、くるぶしを包み隠すほどの草を、白いウェッジサンダルが踏みしめてゆく。

傍らに小さな道しるべがあった。高さ数十センチほどの自然石に「鬼参道」と彫られている。文字のかすれ具合から察して、かなり古いものであろう。

よく見ると、たしかに草が左右になびき、ひとすじの道を成しているのがかすかにわかる。だが、この先にある物を目的とせぬ参拝者なら、決して足を踏み入れる道ではあるまい。

―――誰か来たな。

歩きながら、女性は足もとの草のつぶれ具合を観察していた。ごく最近、いやつい先ほど、誰かがこの小道を通っている。おそらくふたりの鬼を倒した者であろう。

道は次第に社殿と離れてゆき、上り勾配となった。草はさらに丈が高くなり、周囲はもはや完全な森である。やがて三基連なった木造の質素な鳥居が現れ、それらをくぐると、鬼参道は古い木造の建物の前で終点をむかえた。

赤い月がさきほどよりもさらに大きく見える。

実はこの建物こそ、当神社の最奥部に祀られた本殿である。下の立派な社殿はもともと地主神を祀った摂社なのだが、猛士の存在を知らぬ一般の参拝者のために徐々に中心的社殿の体裁を整えていった、いわばカムフラージュ的存在なのである。

その女性は、長い道のりを歩いてきたにもかかわらず息ひとつ乱れていない。壱の鳥居をくぐった時と同じように平然としている。

本殿の扉に手をかけた時、女性の動きが不意に止まった。

先客がいることは既に明らかだ。

「さっきの死体はおまえのしわざか?」

“その気配”の方へゆっくりと向き直った。隠れようという気配もない。堂々としたものだ。

―――その気になればいつでも殺せる、というわけか。大した自信だな。

「姿を現したらどうなの?」

今たどってきた鬼参道の脇に、樹齢数百年を超えるであろう見事な杉の大木が生えている。樹高約30メートルの中ほどにある枝上に、その影は現れた。

月を背にした逆光のため、シルエットでしか認められないが、若い男であることは間違いあるまい。ぼりぼりと頭をかきながらつぶやいた。

「ばれていたか。やっぱりゴミはきちんと棄てておくべきだったな」

その時月が雲に隠れ、まるで身を隠す忍術を解いたかのようにその男の容姿がはっきりと現れた。30代半ば、女性と同じ年頃であろうか。童顔で、10年前ならアイドル歌手か何かで売り出せば大した人気者になったであろう。それにしても、ついさっき人を殺しておいてこの落ち着きぶりはどうだ。

「ゴミ?守衛を殺したのはお前か?何者だ?」

男が笑った。口元から八重歯がのぞいている。

「えらく高飛車な物言いだなぁ。あんただって侵入者だろ?こんな時間に本殿に忍び込んで、一体何が目的だい?」

女性は「ふん」と鼻をならして男の質問を無視した。火を噴くような敵意を両目から放っている。しかし、男の方はその殺気を正面から受けながら平然としている。大した胆力である。

興味深そうに女性を見ていた枝の上の男が「うん?」とつぶやくと、女性を覗き込むようにしゃがんだ。

「あんた、外見は僕と同い年くらいだけど、本当はいくつだい?ずいぶん無理していないか?」

全裸の死体を見ても動じなかった女の気が、今の言葉だけでわずかに乱れた。どうやら彼女の最も触れて欲しくないところを突っつかれたようだ。

「ははは、ごめん、ごめん。今のはセクハラだったかな。だけど、いくつになっても女は女だね。そういや何年か前に、弟子もろとも魔化魍を退治しようとした無茶な女の鬼がいたっけな。名前は確か・・・朱鬼」

「私が朱鬼ならどうだというのだ?」

「別に。まぁノツゴごときにぶざまだとは思うけど、目的のためには手段を選ばない残忍さは買うぜ」

「えらそうなことを。で、お前は何者なのだ?いいかげん名のったらどうだ」

「僕?僕は牙羅鬼。あんたと同じ、かつてはココの飼い犬だった者さ。いや、飼い鬼かな。だけどたった今、ここで僕は名を変える。こいつでな」

牙羅鬼と名乗った枝の上の男は、左手に持った木の枝のような細長い物体を月明かりの中へと掲げて見せた。

「それは!?」

その女性、朱鬼の顔色が突如変わった。左右の指を胸の前で素早く組み合わせ、複雑な印をいくつも結びながら何やらボソボソと呪文を唱えると「ハッ!」と気合もろとも印を槍のように枝の上の牙羅鬼めがけて突き出した。

ゴゥ!

突き出された指先から炎の鳥が出現し、真っ直ぐに牙羅鬼めがけて飛んだ。

「ほう」

少し驚いたような表情を見せた牙羅鬼は少しもうろたえず、こうべをわずかに傾けて飛来する炎の鳥を後方へやりすごした。

「驚いたな。あんた、呪術を使えるのか」

応えず、朱鬼は印を結んだままの指をくるりと回して再び牙羅鬼を指した。その動きに合わせて天空へ飛び去ってゆく炎の鳥もくるりと方向を変え、再び牙羅鬼の後頭部めがけて襲いかかった。

すかさず牙羅鬼も同じように呪文を唱えると右手の人差し指をひょいと立てた。すると、飛来した炎の鳥は、牙羅鬼に襲いかかるどころか、まるで手乗り文鳥のごとくその指の上に舞い降りた。

「馬鹿な!私の式神が?!」

憮然とする朱鬼を見おろしながら、牙羅鬼は「はははは」と声を出して笑った。

「可愛いねぇ。だけどこんな小鳥じゃ僕は傷つけられないよ」

そして炎の鳥を乗せた人差し指をくるくる回し始めた。すると、指の動きにあわせて炎の鳥もぐるりぐるりと回転しはじめたではないか。そして次第に大きくなってゆく。はじめ手のひらに乗るほどの大きさだった炎の鳥は、数回回転するうちに、直径数十センチほどもある大きな火の玉に変化した。牙羅鬼はその火球をあいかわらず人差し指の上でもてあそんでいる。まるでボールを指の上で回転させるバスケットボール選手のようだ。

「返すよ」

牙羅鬼はひょいと人差し指を振り、その火炎球を朱鬼めがけて投擲した。

ゴオオ。

放たれた時よりも数倍の威力で投げ返された火炎球は、朱鬼の手前十数センチの中空で不意に停止した。ちりちりと睫毛が焼ける音がする。牙羅鬼がその気になれば朱鬼の顔はこの劫火によって骨まで焼き尽くされるのだろう。

―――くっ。これまでか。少々相手が悪かったようだな。

朱鬼は覚悟を決めた。しかし、火炎球はすぅと退くと、そのまま牙羅鬼の指先へと帰っていった。

「何のまねだ」

情けをかけられたのか。屈辱に、朱鬼はぎりりと奥歯をかんだ。

「まぁ、やろうと思えばいつでも・・・ね。だけど」

牙羅鬼は自分の頭よりも大きな火の玉を無造作に握りつぶした。

「あんたもこいつを狙ってたんだろ?奇遇だねえ」

そして、自分の手にある枯れ枝の如き物体をもう片方の手でいとおしげに撫でた。

それは腕であった。

肩口からスッパリと切断されている。胴体と切り離されてからかなりの年月を経ているものとみえ、すべての体液を失ってミイラ化した体表はどす黒く変色し、無数の深い皺が走っている。いびつに収縮して、まるで風呂で使うへちまたわしのようでもある。ただ、肩の見事な切り口は、よほど鋭利な道具を用いて切り離されたことを今も如実にものがたっている。

その二の腕に、何やら巻かれている。

おそらくは皮製のベルトで腕に装着されているのだが、巻かれているというよりは、既に腕と一体化していて無理にはずそうとすれば腕そのものが粉々に崩れてしまいかねない。ベルトの中央にはキバをむいた鬼の顔がつけられている。この鬼の顔は金属でできているため今もはっきりと判別できる。いつの時代の仕事なのかはわからぬが、おそらく見事な彫金技術によるものであろう。

「魔怒鬼の腕…」

朱鬼が絞り出すような声で呻いた。牙羅鬼の言うとおり、今夜朱鬼がこの社にやってきた目的は、その腕を入手することにほかならなかったのだ。

「そうだ。かつて無敵の魔化魍と恐れられたオニ。のちに魔怒鬼と名付けられたバケモノの中のバケモノ。そいつの腕さ」

牙羅鬼が自慢げに語った。ここに来ている以上、もちろん朱鬼とてそれくらいのことは承知している。そして本当に必要な品は腕などではなく…。

「こいつが変身鬼弦『音呪』<へんしんきげん『おんじゅ』>。通称“魔怒鬼の弦”だ」

牙羅鬼は高い木の上から魔怒鬼の腕を朱鬼に突き出して見せた。子供が自慢の宝を見せびらかしているのと同じである。

弦の使い手が鬼に変身する際に用いる変身アイテムを鬼弦と呼ぶ。この変身鬼弦も同様、造りこそ古いがそのシステムは今のものとなんら変わらない。しかし、音呪には他の変身鬼弦と決定的に異なる点がひとつある。

陶然と音呪を眺めていた牙羅鬼は、不意に険しい目つきで朱鬼を見た。人格が変わったかのような鋭い視線だ。

「手に入れようとしていたなら知っているな、この変身アイテムがどんなに恐ろしいものかを。貴様ごときに扱える品物ではないぞ。馬鹿め!」

牙羅鬼は誇らしげに左手を頭上に掲げた。背負った月が一層赤みを帯びた。血のような赤だ。牙羅鬼は魔怒鬼の腕を口に咥えると、ベルトにさしていた鞘から刃渡り80センチほどの日本刀をすらりと抜き、天にかざしたみずからの左腕を肩口から一気に切り落とした。

「何!?」

本堂から見上げていた朱鬼は息をのんでその凄まじい光景を見つめていた。

ぱっくりと開いた傷口からは幾筋もの鮮血が勢いよく噴出し、杉の木の幹や枝を伝って滝のように流れ落ちた。体内の血液を急激に失い、牙羅鬼の顔がみるみる蒼白になってゆくのが遠目にもはっきりと見て取れた。

「貴様、死ぬ気か!?」

しかし当の牙羅鬼は、慌てるふうでもなく、刀を鞘に戻すと、咥えていた魔怒鬼の腕をふたたび右手に持ち、紫色の唇をゆがめて不敵に笑った。驚く朱鬼の表情を見て面白がっているふうでもある。

「ふん、魔怒鬼の腕を奪ってそれからどうするか、ろくに調べもせずによくここまで来たものだ。そこで口をあけて見ておれ。これがこの秘宝の使い方よ!」

言うなり、右手に持っていた魔怒鬼の腕を、鮮血を噴き続ける自らの肩にあてがった。すると、今までミイラとなってしなびていたオニの腕が、どくんどくんと脈打ちはじめたではないか。まるで噴き出す牙羅鬼の血を吸収しているかのようだ。長年の渇きを潤しているかのように、ごくりごくりと喉を鳴らして飲み干している。そして魔怒鬼の腕は、次第に膨れ上がってみずみずしさを取り戻してゆくではないか。

びゅるん!

魔怒鬼の腕から数本の触手のようなものが伸び、牙羅鬼の肩に食らいついた。カメレオンの舌が獲物を求めて幾本も伸びてゆくようだ。

びゅるん。びゅびゅびゅびゅん。

奇怪な触手は次々と牙羅鬼の肉体に絡みつき、次第に分厚い肩の筋肉をかたちづくった。

―――魔怒鬼の腕が、牙羅鬼の肉体とひとつになった!?

左手の五指が意のままに動くことを確かめ、牙羅鬼は陶然とした表情で笑った。そして二の腕に備わった変身鬼弦音呪の、鬼の口の中に仕込まれた3本の短い鉄弦を一気にはじいた。

ぢゃらん。

錆びた弦から渇いた音が流れ、牙羅鬼の姿は音呪から湧き出したどす黒い煙に包まれた。黒煙は意思を持つもののようにゆっくりと流れ、やがて渦を巻いた。渦の内部では放電現象が起こっている。あたかも縮小された雷雲のようだ。

その黒雲が霧消した時、そこには異形の鬼が立っていた。額の中心からは鋭い一本の角がはえている。まるでドリルのようにねじれた角だ。伝説のユニコーンが実在したならこのような角を持っていたであろうか。顔面には歌舞伎の隈取のごとき赤いラインが縦横に走っている。苦悶の表情だ。泣いているのか、悔いているのか、それとも憎んでいるのか・・・。全身は、あらゆる筋肉の隆起が肉の鎧となってまとわりついている。その鎧の表面にはダマスカス鋼を思わせるメタリックな縞模様が浮かび上がっている。

オオオオオオオオオオオオオオオオオオン!

体の深奥から噴出する膨大なエネルギーの昂ぶりに耐え切れず、オニが吼えた。赤い月に咆哮した。

―――ま、魔怒鬼・・・。

朱鬼は杉の巨木にとりついて喉を反らせ吼えるオニを茫然と眺めていた。

このオニに、自分はなろうとしていたのだ。そのためにここへ忍び込んだのだ。

しかし・・・あのオニの何とおぞましいことだ。

あのオニを、はたして自分は御することができたのだろうか。

「魔怒鬼とは、魔化魍のオニのことだったのか」

オニが眼下の朱鬼を見た。

「そうだ。これが魔怒鬼だ。たった今俺は牙羅鬼ではなく魔怒鬼になったのだ」

地の底から響いてくるような声だ。

「ふふふ。怯えているな。想像以上の恐ろしさだったか?魔怒鬼の変身鬼弦、僕に奪われてよかったと思っているのだろう?」

図星であった。朱鬼はただ魔怒鬼を見つめるしかなかった。そして、乾いた喉から絞り出すように問うた。

「魔怒鬼となって、お前は何をするつもりだ?」

「すべてを屠るのだ。鬼といわず魔化魍といわず。これはそのために生み出されたオニだからな」

魔怒鬼はそう言い残すと、くるりと朱鬼に背を向けた。

「そうだ貴様、ノツゴを倒したいのだろう?この本殿の奥にもうひとつの秘宝が収められているのを知っているか?」

「なに?」

朱鬼の瞳に、怯えとは異なった色の光がともった。

猛士という組織が結成されて以来、猛士ゆかりの場所には、何百年にもわたって開発し続けられたさまざまな対魔化魍兵器やら魔化魍について書かれた文献やらが数多く納められている。吉野本部で働く職員たちの間では、それらの中には、ひとたび発動させれば魔化魍よりも恐ろしい悲劇を生む大量殺戮兵器も含まれているなどという噂もささやかれている。猛士によって生み出され、猛士によって封印されし恐るべき秘具。それらは全国各地の猛士ゆかりの社などに密かに収められている。

「鬼の鎧よ」

朱鬼はごくりと唾を呑んだ。

―――鬼の鎧。

「そうだ。本来は生身の人間が修行によらず鬼の力を得るためのもの。鬼の修行を修めた貴様なら、十分使いこなせるだろうよ。音呪のかわりにいただいてゆくがいい。猛士につながれた鎖を食いちぎった者同士、せめてもの情けだ」

魔怒鬼はそう言い残すと、杉の枝を蹴って大きくジャンプした。そのおぞましい後ろ姿は、森の闇へ溶けるように消えてしまった。

―――魔怒鬼、想像以上に恐ろしい外道のオニだ。それにしても、その外道から哀れみを受けるとはな。

ひとり残された朱鬼は、赤く巨大な月を見た。まるで魔怒鬼とともに牙羅鬼の血を吸ったかのような邪気に満ちた月であった。そして、朱鬼の行かんとする道先に待ち受ける運命を暗示しているかのような月であった。

朱鬼

(二)魔怒鬼あらわる

屋島湾は今日も凪いでいた。

温暖で豊かな光が降り注ぐ瀬戸の海だ。かつて、源氏と平家が覇を競い、一族の存亡をかけて激突した大いくさの古戦場であるとは思えぬのどかな風景である。

地中から沸きあがった熔岩で形成される細長いテーブルのような形の山が海へ突き出し、遠目からでもひと目でそれとわかる独特のシルエットを有している。その山一面を覆う豊かな雑木林が季節はずれの無人の浜にまで続いていた。

ガサガサッ。

何の前触れもなく藪の中からふらふらと姿を現わしたのは、どす黒い全身に青や赤の薄絹をまとった化け物である。本来暗闇の中にいるはずの魔物が、一体何を血迷ってこのような明るい陽光のもとへ姿を現したのだろう?

黒い化け物は「かああああ」と天に向けて弱弱しい唸りをあげると、そのままドォとうつ伏せに倒れた。その背中からは4筋の白い体液がぴゅうぴゅうと噴出している。傷口は鋭い何かに深々と刺し貫かれたものだ。化け物は地面にはいつくばったまま何度か手足を痙攣させると、突然ドオオンと音を立てて破裂した。ちぎれた肉片が切り柄細工の紙のように舞い、入り江をさまよう海風に乗っていずこかへ消え去った。

続いてふたつの人影が同時に藪から飛び出した。

ひとりは先ほどと同じどす黒い全身に黄色と緑の薄絹をまとった化け物、もう一方は全身銀色の怪人である。額の中央から鋭いブレード状の角が頭頂部へ向けて緩やかな曲線を描きながら伸びている。その顔には目や鼻や口は無く、眉間の部分に目を見開きキバをむいて吼える鬼のレリーフが浮かび上がっている。その鬼のたてがみが歌舞伎の隈取のような深紅の模様を縦横に描いている。

「鬼めぇぇぇ」

どす黒い化け物が乱杭歯をむき出して相手を威嚇した。

「はいはい鬼ですよ。それより童子は死んだぜ、おまえも観念したらどうだ、姫?」

さきほどの化け物、童子を倒したのはこの鬼の顔を持つ男なのだ。名を鎖冷鬼という。

「鬼めぇぇぇぇぇ!」

やはり同じセリフを吐きながら、姫と呼ばれた化け物は、ツメとキバをむきだして鎖冷鬼へとびかかった。

振り下ろされたカギのようなツメや、歯ぐきごとむき出されたキバをひょいひょいとスウェイしながらかわすと、勢いあまってよろめいた姫の一瞬のスキをついて回し蹴りを即頭部へと叩き込んだ。

グエエ。

姫の首がゴキリといやな音をたてて妙な角度にずれた。口からは白い体液がだらだらと溢れている。間髪いれずに鎖冷鬼は、腰を沈めて気合のこもった正拳を胸板に打ち込んだ。

今度はうめき声すら出せずに、姫は後方へ数メートル飛ばされて仰向けにひっくり返った。格闘技術においてはどうやら格段の差があるようだ。さすがに姫も明らかな力の差を思い知ったとみえて、ふらつく足で何とか立ち上がると、鎖冷鬼にくるりと背を向けて一目散に逃げ出した。弱い相手なら襲うが、勝てぬなら逃げる。プライドも理屈も無い。本能のみで動く、わかりやすいヤツだ。

「逃がさんよ」

鎖冷鬼はそうつぶやくと、右手を真っ直ぐに伸ばし、指先で姫の背中に狙いをつけると、口からひゅうううと白い息を吐いた。その息はまるでブリザードのように冷たく、空気中の水分を凍結させて細かい氷塊に変えながらまっすぐに姫の背を捉えた。

パキパキパキ・・・。

姫の全身が見る見る凍りついてゆく。どす黒い化け物は、陽光を反射してキラキラ光る氷像へと変化してしまった。

鎖冷鬼は「ふふふん」と鼻歌を口ずさみながら小石をひとつ拾うと、ひょいと眼前の氷像に向かって投げた。

グァシャアアアン。

涼やかな音をたてて、化け物であった氷像は粉々に崩れて浜の砂利に混じった。

「よし、と」

頭部のみ変身を解いた鎖冷鬼は、思い出したように海を見た。

腰に手を当て、眉間にしわを寄せて物思いにふけるような表情は、男性用ファッション雑誌の表紙を飾れそうな男前である。

「裕作のヤツ、うまくやってるかなぁ?」

裕作とは、鎖冷鬼の弟子由島裕作のことである。不器用な男だが、持前の負けん気と明るい性格で、厳しい鬼への修業を今日まで乗りきってきた若者だ。既に彼自身は鬼の姿へと変身する能力を身につけている。今日鎖冷鬼は、比較的戦闘能力の低い童子と姫をあえて受け持ち、肝心の魔化魍退治の仕事を裕作に任せてみたのだった。

―――精神力、身体能力ともに、鬼として独り立ちさせられる域に達しているはずだ。あとは経験だな。

そういうレベルにいる男であった。

屋島に到着した時、鎖冷鬼からエレキギター型音撃発射装置『神斬』と、ピックアップ型音撃増幅装置『剣戟』を手渡された裕作は、頬を紅潮させてうやうやしく両手で受け取った。

「気負いすぎだ、バーカ」

軽く頭を小突いて送り出した鎖冷鬼だったが、当の裕作はバケガニを発見するや何かの線がキレたかのように「イヤアアアアア!」と気合もろとも飛びかかっていった。文字通り鬼神のごとく神斬をふるい、凄まじい勢いでバケガニを圧倒したまではよかったが、海中へ逃げるバケガニを追ってみずからも海へ飛び込んでいった。水中はバケガニのホームグラウンドだからと制止する鎖冷鬼の言葉など、彼の耳にはまったく届いていなかったようだ。

「もうそろそろ息が切れる頃だが…」

きらきらと光る穏やかな波の下でどのような死闘を繰り広げているものか、意を決して鎖冷鬼も海中へダイブしようとしたその時、突然海面が爆発した。

身の丈10メートル以上もあるカニの化け物が猛烈な水しぶきと共に海中から出現したのだ。ギィチギィチという錆びた蝶番のような音を発しながら巨大なハサミを振り回している。車くらいならひと振りでぺしゃんこにしてしまうだろう。

だがその動きが少々おかしい。やたらハサミを振り回してみたり、仰向けにひっくり返って甲羅を海面に叩きつけたりしている。

甲羅に、鎖冷鬼と同じ鬼の姿に変身した裕作が取りついているからだ。なるほど、バケガニは裕作を振り落とそうとしているらしい。しかし、どんなに振り回されても裕作はしっかりとしがみついていて離れない。全身の隆々たる筋肉が、大出力エンジンのように強力なパワーを生み出している。

裕作にしても、簡単に離れてやるわけにはゆかぬ。もしバケガニの前方へでも振り落とされようものなら、たちまち巨大なハサミのえじきとなって引き裂かれてしまうに違いないからだ。まさしく命がけのロデオである。

裕作は鎖冷鬼から預かった神斬をバケガニの甲羅に突き刺していた。ここから、ベルトのバックルに仕込んでおいた剣戟を神斬のピックアップ部分にセットし、一気に清めの音撃を魔化魍の体内へ送り込むという寸法なのだ…が。

「いいかげんおとなしくしないか、コラ」

バケガニの無茶苦茶な暴れように、攻撃する道具であるはずの神斬にしがみついているのが精いっぱいのありさまである。

「くそっ。剣戟をセットできない」

「おおい、裕作ぅ。大丈夫かお前?」

砂利だらけの波打ち際から鎖冷鬼が声をかけた。

「あ、師匠。だ、大丈夫です…けど、こいつおとなしくしないんで」

―――そりゃま、暴れるわな普通。

「それよりお前、バケガニの甲羅にとっついてるとヤバいことになるぜ。一旦降りて来い」

「え?でも、神斬が抜けないんです。かなり気合入れて刺しちゃったもんで」

「そんなもんいいから、早く降りろ」

鎖冷鬼が右手を大きく振ってこちらへ来いと合図したその時、バケガニの甲羅にみっつの丸い穴がべこりと開いた。

びゅびゅびゅびゅうううう。

白濁した大量の泡が甲羅の穴から勢いよく噴き出され、裕作の左胸や肩から二の腕にかけて飛び散った。

「わああああ、アチチッ!」

左半身を強烈な痛みにみまわれ、裕作は思わず神斬のネックから手を離し、もんどりうって海中へ転落した。

「裕作!!」

バケガニの泡は磯の岩にもふりかかり、盛大な白煙がまいあがった。じゅうじゅうと音を立てて岩が溶けはじめたではないか!これは強酸性の腐食液である。鎖冷鬼が注意したのはこのことだったのだ。

鎖冷鬼はバケガニの足元をすばやく潜り抜け、背後の海へ飛び込んで、もがく愛弟子の体を海面へと引き上げた。強酸の泡を浴びた部分からはまだゆらゆらと煙がたちのぼり、弦の形を模したボディアーマは無残に溶けて原型を留めていない。肩や腕も皮膚が破れて赤くはれ上がっている。

―――かなりやられちまったな。

鎖冷鬼は心の中で唸った。それでも、泡をかぶってすぐ海へ入ったため、波がバケガニの泡をおおかた洗い流してくれたのが幸いしたのか、鎖冷鬼に抱きかかえられながらも、裕作は何とか自分の足で浜にあがることができた。

「結局降ろされちまったな、裕作」

磯を越えて逃げてゆくバケガニの背を横目でにらみながら、鎖冷鬼は片膝をついて浜の草の上に裕作の体を横たえた。

「すみません、師匠。ドジを踏んでしまいました」

頭部の変身を解いた裕作は泣いていた。痛みによる涙などではあるまい。

「いいさ。今日はちょっと辛い授業になったが、俺と一緒にいるうちにこういう目に遭ったっていうのも、この後いい経験になるぜ」

「でも、神斬を持っていかれてしまいました…。俺、師匠が大切な神斬と剣戟を俺に預けてくれた時、むちゃくちゃ嬉しかったんです。だから、どんなにやられてもこれだけは絶対手放さないって決めてたのに…こんな…泡ごときでやられちゃって。悔しいです!」

裕作は動かせる右腕で顔を隠しが、漏れてくる嗚咽まで隠すことはできなかった。

「だからそんなもんいいって言ったろ。何にせよ、執着するとろくなことはない。どんなに大切に思っている物でも、手放してみるとまた違った見方ができるもんさ。思ったより大したことないってわかったり、逆に今まで思いもつかなかった価値に気づいてみたりってね」

鎖冷鬼は、やさしい笑みを浮かべたままぽんぽんと無傷の方の肩をたたいて弟子の気持ちを落ち着かせてやった。裕作の嗚咽が次第にやんできた。涙が乾くにつれ、今度は傷の痛みが頭をもたげてくるだろう。あまり時間はかけられない。

鎖冷鬼はすっと立ち上がった。

「少しここで辛抱していろ。さっきのバケガニを退治してくるから。そしたら銀嶺に戻って手当てをしてやる」

言うなり鎖冷鬼は駆け出した。足場の悪い波打ち際を、まるで競技場を走るスプリンターのごとく風を切って走り去った。

磯の岩をマシラのごとく駆け上がり、数メートルの高みから飛び降り、ふくらはぎあたりまである浅瀬を変わらぬスピードで突っ切った。

わずか2分後、頭部まで鬼の姿に戻った鎖冷鬼は、甲羅に神斬を刺したままのバケガニの前に立ちはだかっていた。

悔し涙を流す愛弟子の前でもクールな笑みを浮かべていた鎖冷鬼の全身から、闘気がオーラとなって立ち昇った。

「貴様、許さん!」

ぶぅん!と風の渦を作りながら飛来する巨大なツメをひらりと飛び越し、そのツメのつけ根でジャンプすると、一気にバケガニの甲羅にとりつき、その場に残されていた愛機神斬に剣戟をセットした。手練の早業!

「くらえ!冷弦導死」

ジャジャアアアアンジャジャンジャンジャンジャンジャアアアン!

鎖冷鬼の高速ストロークが激しいビートのギター音を奏で、神斬に取りつけられた剣戟がそれを何十倍もの破壊力を持つ音撃に変えてバケガニの体内へと叩き込んだ。いかなる怪しの物をも浄化する、清冽なる清めの音だ。

ぎぃぢぃぎぎぃぃぃぎぃぢぢぢ。

みずからの肉体を構成するものとは真逆の物質を注入され、巨大な魔化魍は悶絶した。もはや強酸の泡を噴き出すどころではない。何とか逃れようとしたが次第に体の芯から氷りはじめ、数秒後には全身が凍結して見事な巨大ガニの氷像と化した。

ぎ…ぎぃ。

情けない断末魔を残してバケガニは絶命し、次の瞬間大音響とともに爆発して消えた。

「よし」

任務を完了し、裕作のもとへ引き返そうとした鎖冷鬼の足が不意に止まった。

「これは…殺気?!」

尋常ならざる気配である。魔化魍のものでも、童子や姫のものでもない。そんなレベルではない。

鎖冷鬼は、たった今とりはずした剣戟をもう一度神斬に装着し、身構えた。気配の所在がつきとめられないため、全方位に対して防御できる構えをとる。

目を半ば閉じ、鼻先をイメージする。鼻先は己の心臓をイメージして呼吸を整えた。ゆっくりゆっくりと吸い、ゆっくりゆっくりと吐いた。眉間のチャクラが回転し始め、鎖冷鬼の意識はその周囲360度にまんべんなくいきわたった。見ていないようですべてを見ている。心眼の発動である。

「誰だい?出てきなよ」

口の中で低くつぶやいた。風に飛ばされて、耳で聞こうとしても聞こえぬ声だが、その相手には十分聞こえているはずだ。

「ふふふふふふ」

「ほほほほほほ」

磯の岩陰からひと組の若い男女が姿を現した。

どちらもスラリと背が高い。細面だがはっきりとした目鼻立ちがすがすがしい印象を与え、きりりと結んだ口元からは豊かな知性が漂う。なぜか和服に草履ばきである。市街地からそう遠くないとは言え、足場の悪い磯を散歩するにしては少々異様ないでたちではないか。残暑の中、海風を求めて夕涼みの散歩でもあるまい。

「童子、姫…いや違うな。お前たち何者だい?」

顔かたちは童子や姫の人間体とそっくり、いやまったく同じである。しかし、違う。根本的に何かが違う。

「四国の鬼。名は鎖冷鬼…。まあまあだな」

「いい道具を持っている。あれが欲しいわ」

薄笑いをうかべたまま、ふたりの男女はじっと鎖冷鬼を見ている。さわやかな顔だちとはうらはらに、まとわりつくような、湿った視線だ。女はこともあろうに鎖冷鬼の神斬が欲しいと男にねだっている。着物の袖をしつこく引っ張られ、男は困惑の表情を浮かべている。

「どうだ、やってみるか?」

男は女の手を振り払いながら、さらに後方へ声をかけた。

―――背後にまだ誰かいるのか?

鎖冷鬼の視線がそちらを捉えるよりも早く、直径1メートルもあろうかという巨大な火球がうなりをあげて飛来した。

ゴオ!

ドガーン!

火球が着弾し、暖かな海水をたたえた潮だまりが跡形もなく吹き飛んだ。もうもうと砂塵がたちのぼり、細かい岩のかけらが海水のしぶきとともに四方へ飛び散った。

「いやだ。なによいきなり」

「まったく加減を知らぬやつだ」

袖で顔を覆ってつぶてをよけながら、男女は眉間にしわをよせた。

彼らの背後には、いつの間にか別の人影が…いやしかし、それは人の姿ではない。

砂塵の中からぬうと現れたのは、オニである。

変身した鎖冷鬼たちの姿を見た者なら、この男も彼らと同じ存在であるとただちに確信するだろう。だが鎖冷鬼たちとは少し雰囲気が違う。額の中心から、正対する者を激しく威嚇するドリルのようにねじくれた角が前方へにょっきりとはえている。顔面にはやはり歌舞伎の隈取のごとき赤いラインが縦横に走っているが、鎖冷鬼の深紅の色とは少し違う。黒が混じったような…そう、血の赤である。全身を鎧のごとく包む堅固な筋肉はグレーの光沢を放ち、表面には墨を流したような波紋が浮かび上がっている。その全身からは、何物をも破壊する負のパワーがみなぎっていた。

「他愛ない」

それは、あの日吉野の社で朱鬼とやりあった魔怒鬼であった。

「そうでもないみたいだよ」

男が磯に面した崖の上を指差した。

「なに?」

そこには、魔怒鬼の火球で磯だまりと共に吹き飛ばされたはずの鎖冷鬼が、神斬を肩にかついで立っているではないか。

「危ないなあ」

鎖冷鬼は10メートル近い高さの崖から無造作に飛び降りた。足場の悪い磯にひらりと降り立つと、魔怒鬼に向けて神斬のブレードをつきつけた。

「何者だ、お前?」

「マドキ」

それだけ答えると、魔怒鬼は腰の後ろに備えていた2本の音撃棒を左右の手に握った。

「見たところ鬼のようだが、なぜ俺に戦いをしかける?そこのふたりは何者なんだ?」

鎖冷鬼の問いには答えず、魔怒鬼は立ち昇る闘気をさらに強めていった。

2本の音撃棒の柄の先端をパチンと結合させて1本の長い棍にすると、全長80センチほどの棍を頭上でくるくる回し始めた。

「何だ、曲芸でも見せてくれるのかい?」

鎖冷鬼はからかったが、決してなめてかかっているわけではない。こうしている間にも隙あらば仕掛けてやろうと狙っているのだが、その隙が無い。魔怒鬼の背後でニコニコと成り行きを見守っている男女の存在も不気味である。

魔怒鬼は棍に念をこめながら回転させていた。棍は魔怒鬼のどす黒い気を吸い上げながら、みるみる倍以上の長さにも伸びてゆく。

―――音撃棍か。初めて見たな。

魔怒鬼の頭上で回転する音撃棍は、2メートル以上にも伸びて唸りをあげはじめた。両端には黒い鬼石が付けられているが、猛烈な勢いで回転しているため、外周が黒く縁取られた円盤のようにも見える。

突如魔怒鬼が鎖冷鬼めがけて突進した。

おおおおおおお!

気合もろとも頭上で回転させていた音撃棍を鎖冷鬼の脳天へ振り下ろす。

ガシッ!!

間一髪、神斬で音撃棍を受け止めたが、鎖冷鬼の両腕から肩にかけて激しい衝撃が走った。

―――むうっ、馬鹿力め。

今の一撃で、鎖冷鬼の盛り上がった筋肉で守られた肩の関節がミシリと音を立てた。

ぐいぐい押してくる力を利用して棍を受け流した鎖冷鬼は、前へのめる魔怒鬼の頸動脈へ、右ひじを撃ちこんだ。急所を狙った容赦ない攻撃である。相手が同じ鬼であるとはいえ、もはや敵以外の何者でもないことは肌で感じている。しかも従来の魔化魍とは桁違いの強敵だ。手心を加えていては取り返しのつかぬ事態を招く。

「ふふふふふ」

常人なら即死するはずの痛烈な一撃を首筋に受けながら、魔怒鬼は平然と笑っている。

それでも鎖冷鬼は攻撃の手を緩めなかった。体を反転させ、こめかみめがけて遠心力を加えた裏拳をたたきこむ。が、今度は間一髪で魔怒鬼の左手に阻まれた。一瞬動きが止まった鎖冷鬼の頭部へ、魔怒鬼のドリルのごとき角がふりおろされた。

鎖冷鬼のブレードのような角と魔怒鬼のドリルのような角。ガツン!とまばゆい火花が飛び散り砕けてしまったのは、鎖冷鬼のものであった。

「ぐあああ」

脳天を割られたような衝撃を受けて、鎖冷鬼は力なく2、3歩後退した。鎖冷鬼は衝撃で一時的に視力を失い、激しい耳鳴りに苛まれた。それでもなお神斬を構えているのは鬼としての本能のなせるわざと言えようか。

だが、音撃棍を体の周囲にまとわりつかせるように回転させながら、変幻自在に繰り出してくる魔怒鬼の攻撃を防ぐことは容易ではなかった。魔化魍を退治するために練り上げられた吉野秘伝の技術とは異なり、闇の技術の粋を結集させて錬成された黒い鬼石が、何度も何度も鎖冷鬼の体を打ちすえ、そのたびに鋭い破裂音とともに火花が散り、肉が裂けた。

「あらら、決まったわね」

背後で見ていた女が小首をかしげて楽しそうに言った。しかし、男のほうはまだ戦いの行方に興味を抱いているようである。

「いや、彼はまだあきらめていないよ」

その言葉を裏づけるかのように、鎖冷鬼は音撃棍を振りかぶった魔怒鬼のボディへ冷気を吹きかけた。先刻、バケガニの姫を倒したブリザードの息である。

「むう」

空気さえも凍らせる冷凍攻撃に、魔怒気は音撃棍を頭上に構えたままみるみる凍りつき、白い氷像と化した。

「ほおら、彼はなかなか強いよ」

男が得意げな顔で女を見た。

ダメージから完全に癒えぬ鎖冷鬼は、ゆっくり呼吸を整えるや、神斬を構えて大きくジャンプした。

ていやあああああ!

裂ぱくの気合もろとも高空から神斬のブレードを振り下ろす。岩をもたたき割る大技である。

その時、空中で鎖冷鬼はわが目を疑った。

しゅうううううううううう。

魔怒鬼の全身から水蒸気がたちのぼり、その四肢を絡め取っていた氷がみるみる溶けてゆく。灼熱の鬼と化した魔怒鬼はふたたび自由を取り戻したではないか。

ごおおおおお。

音撃棍の両端の鬼石が炎を発するや、上空から迫る鎖冷鬼めがけてふたすじの火炎を放った。

「ぐああ」

岩をも溶かす超高熱の火炎が鎖冷鬼の上半身を直撃した。魔怒鬼の頭上へ降下していた鎖冷鬼にとっては痛烈なカウンター攻撃となった。

爆炎につつまれた鎖冷鬼は数メートルも後方へ吹き飛ばされ、磯の固い岩の上に背から落下した。炎は神斬にも燃え移っている。

「まだ決まんないの?私、早くあの音撃弦が欲しい」

少し退屈しはじめたのか、女があくびをした。

「いや、これで終わったよ」

今度は男も否定しない。

「ふん、まあまあだったな」

魔怒鬼は吐き捨てるように背を向けて立ち去ろうとした。その時、背後で気配が動いた。

「ほお」

男が言い、女が言い、魔怒鬼も言った。

鎖冷鬼がゆらりと立ち上がったのである。

意識があるのかないのかは定かでない。ただ、傷だらけの肉体に鞭打って立っている。打撲は骨にいたり、鬼の持つ驚異の治癒能力をもってしてもこの場ではどうにもなるまい。頼みの神斬とて満身創痍だ。弦はひきちぎれ、ボディは焼け焦げている。ネックには細かいひびが幾筋も走っている。双方とも、あとどれほど戦えるというのか。

鎖冷鬼が前へ出た。

神斬を逆手に持ち、体の背後に隠すように構えて態勢を低く保ちながら魔怒鬼めがけて走りはじめた。立てぬと思っていた相手が立ちあがり、さらには走りはじめたことに驚きながらも、魔怒鬼はふたたび音撃棍を構えて、こちらも走りだした。

鬼対オニ。突き上げる神斬、振り下ろされる音撃棍。決着の時だ!

ガシイイイイン!

甲高い金属音とともにふたつの影が高速で交差し、鎖冷鬼と魔怒鬼は互いのポジションをいれかえた形で動きを止めた。

前傾姿勢のまま、逆手に持った神斬を前へ突き出している鎖冷鬼。左手に音撃棍を持ち、大きく両腕を左右に開いている魔怒鬼。

バキ…。

それは鎖冷鬼の愛機神斬の断末魔であった。ネックがつけ根からへし折れ、ギター型のボディがガタンと岩の上に落下した。

「くっ。俺の…神斬が」

真っぷたつになった神斬をうつろな目で見ながら、鎖冷鬼の意識は今度こそ本当に闇の底へと落ちていった。

「あ〜。壊れちゃった」

女は倒れている鎖冷鬼の傍らに駆け寄ると、本来の形を失った神斬をつまさきで突っつきながらぼやいた。

「手こずったな、魔怒鬼」

男に冷やかされ、背を向けた魔怒鬼の音撃棍から何かがぽとりと落ちた。

―――鬼石が?!

それは音撃棍の先端につけられた鬼石である。鬼石がかたどる憤怒の形相で吠える鬼の顔が、なかほどよりぱっくりと欠け落ちている。鎖冷鬼がふるった神斬の最期の一撃によるものであった。

魔怒鬼はあらためて倒れている鎖冷鬼を振り返った。

―――こいつめ。

いまいましげに、音撃棍を倒れている鎖冷鬼の傍らへ投げ捨てた。

「あらら。鬼石が壊れたらもう使えないわね。結局は引き分け?」

女が魔怒鬼の太い腕にすり寄った。胸をその腕に押しつけて、面白そうにオニの反応を見ている。

「俺の勝ちだ!」

女にからかわれて憮然とした面持ちの魔怒鬼は、吐き捨てるように宣言すると、腕にからみつく女を振り払い、後も見ずにその場を立ち去った。

「あいつ、性格がどんどん変わってゆくわね?」

「ああ。魔怒鬼に人格を食われているのさ。そのうち人語も操れぬようになるだろうさ」

ククク、と男は笑いをかみ殺した。

女は、今度は男の傍らへ身を寄せて湿った声できいた。

「で、どうなの?」

「ふん。魔怒鬼本来の力、まだ半分も引き出せてはいない。口ほどにもない未熟者め」

男の表情からすがすがしさが消え、かわりに何やらぞくりと怖気だたせる邪気が漂い出た。くるりと背を向け、じゃらりじゃらりと草履で岩の表面をすりながらもと来た方へと去ってゆくと、女もそそくさとその後を追った。

魔怒鬼の放った火炎が周囲の空気を刺激したせいか、にわかに突風が湾内を駆け巡り、穏やかな海面を波立たせた。

時折寄せる大きな波が磯で割れて白いしぶきをあげ、ひとり残された鎖冷鬼の体を濡らしていた。

魔怒鬼

(前篇 完)

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