仮面ライダー響鬼外伝  鈴の蒼鬼2

兇乱の魔怒鬼 〜きょうらんのまどき〜 中篇


(三)剣山民俗博物館

 地球温暖化などという言葉が珍しくなくなって久しい。確かに、夏の日差しの鋭さはかつての日本のものとはまったく異質だと言わざるを得ない。日本は温帯に属しており、美しい四季がある住みやすい国と、遠い昔学校で習ったはずなのだが。

「どうも最近は夏と冬しかなくなっちゃったよなぁ」

 剣山を見上げながら滝はぽつりとつぶやいた。

図々しく居座る夏の太陽は、なかなか秋の涼やかな風の通過を認めようとはしない。

 9月半ば…まだ北海道でも紅葉ははじまっていまい。この暑さでは、今年の紅葉前線が四国に南下してくるのは、例年よりも半月以上遅れるやもしれぬ。再来月の今頃、秋の旅行シーズン真っ盛りになって、美しい全山の紅葉を目当てにやってくる観光客たちの落胆の声が、今から聞こえてくるようだ。

 それでも霊峰剣山の山頂では、すでに平均気温も15度を下回っていよう。夜明けとともに2000メートル近い標高から吹き下ろしてくる清冽な風は、かつて鬼であった男の肌に、ヒリヒリと痛みを伴う霊気を届けた。

ぶるっ。

 滝の背筋が震えた。現役の鬼であった頃は、こうした霊気を感じるのが好きだった。

しかし―――。

「引退した身には少しばかり刺激が強すぎるよ」

滝は肩をすぼめて博物館の中へ入っていった。

 

「さて、ここからはいにしえの農耕具を展示してあります。ここ剣山で生活している人々がいかにして農業に携わっていたかを…?」

 関西からの婦人会18人を案内して館内を回っていた滝の視界に、篠目亜沙子が割り込んできた。

 客たちに気づかれないよう滝に向かって手を振っている。来訪客に展示物の説明をしている時は極力声をかけるなと、学芸員たちには伝えてある。

―――緊急事態か?

「あ、ちょっと失礼します」

 滝は亜沙子のもとへ歩みよった。

「吉野から緊急連絡です。すぐ事務所へ戻ってください」

「緊急連絡?」

「はい。どうやら全国の支部長宛てのもののようです」

―――なるほど、ただごとではなさそうだ。

「すまないがあとを頼むよ」

 亜沙子はこの博物館で学芸員の資格を持っている。滝は来訪者への説明の続きを亜沙子に託すと、足早に地下へ通ずる階段を降りていった。

 事務所には和泉聖依子がつめていた。四国支部のルーキー烈鬼のサポーターとして活躍する彼女は、普段は当民俗博物館の喫茶コーナーを受け持っている。彼女がたてるコーヒーは特に好評で、芳しい香りに耐え切れず、開館前に滝ら職員がよってたかって味わい尽くしてしまうことも珍しくない。

「吉野からメールです。鬼の鎧が埼玉に現れたそうです」

「埼玉に?」

 聖依子は滝のために素早く立ち上がり、コンピュータ前の席を譲った。

「ありがとう」

 滝は椅子に腰を下ろすと、くいいるようにメールの本文に目を走らせた。

「一体何者だ?あの鎧は誰もがおいそれと使ってよい品物ではないのに…」

 先日、全国の猛士の間を衝撃のニュースが走った。吉野の神社から、封印されていた鬼の鎧が何者かに盗み出されたというものであった。

 鬼の鎧とは、かつて深刻な鬼不足に直面していた吉野宗家が、窮余の一策として生み出した秘中の秘ともいうべき門外不出の武具で、これを身にまとえば、鬼の修業を修了せずとも鬼と同等の力を発揮することができると言われている。

 はじめのうちは即戦力として重宝したものの、その圧倒的なパワーは次第に使う者の心を惑わせ、あるいは溺れさせていった。

 それなりに優れているとはいえ、昨日までふつうの人間であった者たちが、突然とんでもない力を発揮できるようになるのである。畏れ敬う鬼と同じレベルに自分が達したのだと実感した時、その力をもっともっとふるいたいという渇望が体の芯に芽生え、やがてその思いは地中から噴出する泉のごとくとめどなく湧き上がってくる。さらに厄介なことに、その力の矛先は必ずしも魔化魍に向けられているとは限らないのである。よこしまな破壊衝動につきうごかされた鎧の主は、このようにして皆ことごとく精神を病んでいった。

 鬼とは、ただその姿かたちをさして言うものではなく、また常人離れした能力の会得者をさして言うものでもない。鬼とは、何よりもまずその内に人としてのゆるぎなき正義の心を備えたる者のみに与えられる称号である。そして「鬼になる」ということは、すなわち「鬼としての生きざま」を受け入れるということに等しいのである。心に正しき鎧をまとわずして、ただその身に鬼の鎧を着用したとき、自らを卓越した存在だと勘違いしてしまう愚かな凡人が後を絶たず、猛士はこの武具を封印した。

 それが再び野に放たれたのだ。

 滝は指先でしきりに無精ひげをなぞりはじめた。

 

 20分後、滝と聖依子は四国の各地に散っている鬼たちと定時連絡を取り合っていた。

<ではその朱鬼が…>

携帯電話のハンズフリー用スピーカーから若い女性の声が流れた。四国支部に所属する鬼のひとり、燦鬼である。かつては四国全体を牛耳る暴走族連合の女性総長だったが、滝に弟子入りし、今では人知れず魔化魍と戦う鬼として活躍している。彼女は今、サポーターの本間圭一とともに面河渓谷近くの山中にイッタンモメンを追いつめていた。

<朱鬼…聞いたことがあります。たしかノツゴを倒すために弟子もろとも攻撃した人ですよね>

今度は男性の声だ。四国支部現役最年長の鬼、蒼鬼である。彼は現在、ノブスマという魔化魍を追って四万十川上流、大黒山にわけいっていた。

<なんて奴なの。鬼というより人間として最低だわ。大事な弟子の命を粗末にするなんて!私が埼玉まで出張っていってオトシマエつけてやろうかしら>

 携帯電話のスピーカーを通してでも、彼女の怒りが伝わってくる。怒った時の燦鬼は師匠の滝でもたじろぐほどのすごい迫力である。

「まあまあ、君は四国にいなさい。それにしても朱鬼って人はノツゴに対して何かしらぬぐいきれない恨みを抱いているのだろうね」

燦鬼の怒りはもっともである。しかし滝には、鬼である前に人であることの難しさや哀しさがよくわかる。事実、立派な鬼として現在活躍している者たちも、この戦いに身を投じようと決心した動機は魔化魍に対する怨恨である場合が少なくない。修行を通して、恨みの気持ちを、ひとしく人間を守りたいという正義の思いへと昇華させていったのだ。しかし中にはそうでない者もいる。ごく稀に…。

「しかし、裁鬼さんは本当に災難でしたね。たまたまノツゴと戦っていて巻き添えをくったのでしょう?」

 聖依子は吉野にいたころ裁鬼と面識があった。寡黙で真面目な男であった。今は確か30代後半になっているはずである。

<まったくだ。連戦続きで、ヤマアラシ戦の時に負った傷もいまだ完治していないはずだよ>

「今年は特に関東での魔化魍出現率が高いからな」

―――立花さんも頭が痛いだろうに。

 十分な休養をとらせてやりたくとも、鬼不足は今も解消されていない。どうしても厳しい出動シフトを組まねばならなくなるのはどこも同じだ。大切な仲間たちを、鬼として戦いの最前線へ送り出す立場としては、滝も関東支部の窮状には心から同情する。

<ちょっと待ってください。関東支部と言えば、確か斬鬼さんは朱鬼の…>

「ああ。弟子だよ」

<ええっ?それじゃあ朱鬼にノツゴ退治の犠牲にされた弟子って、斬鬼さんのことだったの?!>

 燦鬼は、朱鬼が関東支部テリトリーに現れたもうひとつの因縁に気づいていなかったようだ。

<厄介なことになりそうですね。吉野はもう動いたのですか?>

「いや、吉野自体は動いちゃいない。なぜなら関東には、既に宗家の鬼がいるからね」

 話しながら、滝はちらりと傍らの聖依子を見た。

<そうか。では朱鬼に放たれる刺客は…>

「威吹鬼…私のいとこです」

 聖依子のしずんだ声は、親しい肉親に課せられた重い責務を呪っているようでもあった。

<ところで、今日は確か裕作くんが退院する日でしたよね、師匠?>

 燦鬼が話題を変えた。

「ああ、そうだよ。烈鬼くんが高松の椿先生のところへ迎えに行ってくれているんだ。もう間もなく帰ってくると思うが」

 椿医師は、高松市内で開業医をしている男で猛士のメンバーである。彼のように、戦いで負傷した鬼たちを治療する独特の医療技術を修めた医者は全国に大勢いる。

<で、鎖冷鬼くんは?>

「いや、彼はまだ無理だよ。あと半月は入院することになるだろう」

 滝はため息まじりで答えた。

 瀕死の重傷を負った鎖冷鬼が椿医師のもとへ緊急搬送されたのは4日前のことであった。博物館の事務所に裕作が半狂乱で電話してきたのだ。バケガニの強酸液にやられて横になっていた彼は、いくら待ってももどらぬ師匠の安否が気になり、痛む体にムチ打ちながら探しに出かけて、磯に倒れている師匠の姿を発見したのである。気づくのがもう少し遅れていたら手遅れになっていただろう。

<裕作くん、つらいだろうなあ>

「ああ。鎖冷鬼くんのことを実の兄のように慕っているからね。師匠と弟子という関係以上だよ。師匠をおいて退院するのはいやだと駄々をこねて、椿先生にも叱られたらしい」

<それにしても、鎖冷鬼さんほどの使い手がそこまで打ちのめされるなんて信じられないわ。一体何者のしわざなのかしら?>

<僕も同感だな。鎖冷鬼君は経験も豊富で体力的にも一番いい時期に来ている。はっきり言って強い鬼だよ>

<師匠、吉野へは鎖冷鬼さんの一件、もう報告してあるんでしょう?>

「もちろんさ。事件があったその日のうちに緊急扱いで連絡してあるよ」

<で、何か言っていましたか?吉野では襲撃犯人について何か心当たりがあるというようなことは?>

「いや特に何も…。だけどそう言えばなんだか慌てているような気配だったなぁ。その時は『統括に報告しておきます』としか言わなかったけれどね」

「あの、実は吉野の神社に封印して収められていたのは鬼の鎧だけではなかったという噂を耳にしました。何やらとても恐ろしいモノが、鬼の鎧よりももっと邪悪な何かが他にもあったのだとか…。鎖冷鬼さんの事件と関係があるかどうかはわかりませんが」

<それ本当なの?>

 さすが宗家の血縁である聖依子は情報が早い。鬼の鎧以外にも封印されていた品物が隠されていたなどという話は、燦鬼たちには初耳であった。

<それは何?>

「そこまではわかりません。幸いその品物は盗難にあわなかったようで、事件とは何も関係ないはずだという理由で、本部のほうでも言いたがらないのです」

<なんだかまどろっこしいわね!歯切れが悪い吉野のケツをぶったたいてやりたい感じ>

「これこれ、また君はそんな言葉づかいを。帰ったら少し話そうかね」

<…すみません、師匠>

 言葉だけはしおらしいが、電話の向こうでしかめっ面をしている燦鬼の顔が浮かんで、滝は苦笑いをした。

「みんなが戻った頃にはもう少し詳しい話を聞かせてあげられるかもしれない。だけど、ただならぬ強敵が四国に現れたのは事実だ。ふたりとも十分注意してくれ」

 滝の傍らでは聖依子が心配そうな面持ちで携帯電話を見つめている。今回の事件については、吉野宗家につらなる者として少なからず責任を感じているようである。

「とりあえず現在追っているターゲットを仕留めたら一度こちらへ戻ってくれ。寄り道せずまっすぐにだよ。情報を整理し、態勢を整えてかかったほうがよさそうだ」

<了解>

 いつもより長い定時連絡を終えると、滝はふう〜と長い溜息をつき、また無精ひげを指先でなぞりはじめた。

剣山

(四)吉野から来た鬼

「圭一、鎖冷鬼さんを襲ったやつ、どんな敵なんだろうね?」

 専用4WD車「桜花」の助手席で燦鬼がつぶやいた。腕を組んでじっと前を凝視している。

 彼女が追っている魔化魍イッタンモメンは、面河ダムのダム湖に潜んでいる可能性が高かった。面河渓から石鎚山スカイラインを南下し、間もなく国道494号線に合流しようかというあたり、桜花は秋晴れの空の下を高速で疾走していた。

「魔化魍じゃないんスか?カニのヤローかなんか」

 ハンドルを握るサポーターの圭一が鋭い眼光をあたりに巡らせている。彼はかつて燦鬼の親衛隊長として、西日本全域の不良たちに恐れられた男である。街を歩いていても魔化魍を追って山に入っていても、周囲にガンを飛ばす癖は抜けていない。

「違うわよ。さっきの定時連絡聞いてなかったの?鎖冷鬼さんほどのてだれが、バケガニなんかにやられるわけないでしょうに」

「はぁ、じゃ鬼の鎧ですか?やっぱやっちゃいますか?埼玉行って」

「馬鹿!行かないよ。埼玉に出た鬼の鎧がどうして屋島に出るんだよ。あいかわらず頭わりぃな、圭一は」

「燦鬼さん、そんな言い方してっと師匠に怒られますよ」

「っせぇ!」

 燦鬼は圭一とふたりきりになると、総長時代の不良言葉が時々出てくる。滝の耳に入れば最低でも1時間は説教されるので普段は謹んでいるが、イライラした時などは無意識に使っている。そして燦鬼の言うことには絶対服従の圭一が、最近なぜだか時々そのことをネタにチクリとやるのだ。

 するとどうなるか、というと…。

「オウ、コラてめぇ。いつの間にアタイに意見できるほど偉くなりやがった?ああ?」

 とスゴまれながら、硬いゲンコツを助手席から眉間にぐりぐり押しつけられる。やられた跡がしばらく消えないくらい強烈だ。運転していない時なら裏拳かつま先蹴りが飛んでくるが、いずれも容赦はない。

「イテ、イテェっす」

 とうめきながら、圭一は結構嬉しそうだったりする。気色悪いと言ってひとつ年上の亜沙子に相談したら「かまって欲しいのよ」とあっさり言われた。「思いっきりやってあげれば?」とも言っていた。それ以来燦鬼は亜沙子に一目置いている。

「聖依子が言ってた鬼の鎧以外に盗まれた秘密の品っていったい何なのかしら?それがわからなきゃ手の打ちようも警戒のしようもないわ。まったく、私たち現場にとって情報がどれだけ重要か、吉野のお偉いさんがたはわかっているのかしら?」

―――吉野はいったい何を隠しているのだろう?

 シートを少し倒してヘッドレストに後頭部を乗せたとき、圭一が叫んだ。

「燦鬼さん、出やがった!」

ゴオ!

 ふりそそぐ明るい日差しが巨大な影に一瞬遮られ、切り裂かれた風が衝撃波となって桜花のボディをはげしく叩いた。

 道路わきの林の中から、体長約6メートルはあろうかという空飛ぶエイの如き奇妙な生物が突如飛び出したのだ。

「イッタンモメン!」

「林の中を低空で移動していやがったんだ」

ぴい!

 化け物が鳴いた。鋭く短い鳴き声は空腹を訴えているのだろうか。

「燦鬼さん、ダム湖の周囲にはキャンプ場や釣りのポイントとかがあって、結構人がいますよ」

 圭一の切羽詰った声を聞きながら、燦鬼は桜花のウインドウを全開にすると上半身を車外にぐいと押し出した。

「気をつけてください!」

「誰に言ってる!」

 ハコ乗り状態で懐から取り出したのは、鬼の顔がレリーフされた1本の縦笛であった。

燦鬼が静かにゆっくりと息を流し込むと、漆塗りの竹でできている特殊な笛は、桜花のV8エンジンの轟音に切り裂かれる風の音にも負けず、低くしっかりとあたりに鳴り響き、燦鬼の体に風と化してまとわりつき、彼女の体を鬼の姿へと変えた。

 額から刃物のような鋭く短い角が2本突き出している。顔面を縦横に走る紅色の隈取りは羽を大きく広げた蝶を思わせ、その表情は不敵に笑う鬼神のようである。全身を彩る濃い緑色は師匠ゆずりだ。

「行くよ!」

 ハンドルを握る圭一に合図し、燦鬼は素早く桜花のルーフに飛び移った。

 叩きつけるような突風を全身に浴びながら、燦鬼は時速100キロを超える猛スピードでワインディングロードを駆け抜ける桜花の上で、微動だにせずイッタンモメンの後ろ姿を見据えていた。

「くらえ!音撃笙 乱舞」

 燦鬼は雅楽器の笙を使う音撃戦士である。秘伝の律によって竹を組み合わせた特殊な笙から繰り出す澄んだ音色は、他のどの音撃よりも遠くまで響き渡る。

 笙のリードを口元へあて、一気に音撃を撃ち出そうとしたその時、道路下の湖畔から突如凄まじい轟音が鳴り響いた。

ドドドドドドドドドドド!

「何!!?」

 重々しい掘削機を思わせる連続音と同時に、道路下の灌木から発射された何かが上空のイッタンモメンを次々に貫いた。ヌメヌメした体表にみるみる無数の穴が穿たれてゆく。

「停めろ、圭一」

桜花をガードレールすれすれに停車させ、燦鬼はルーフからあわてて道路へ飛び降りた。

着弾の衝撃で、巨大な魔物の体がまるで薄紙のように跳ねあがっている。無防備な真下からの急襲に、イッタンモメンはなす術もない。

「あれは鬼石?!鬼がいるのか?」

飛ぶことも落下することもかなわず宙空でもがく魔化魍に向けて、今度はトランペットの高らかな音が轟いた。

POWOOWWWW!

 鏡のような湖面が音の衝撃で細かく波立ち、動きを封じられたイッタンモメンはさらなる苦痛にのたうちまわった。

「音撃管!」

 燦鬼はガードレールから身を乗り出して音の出所を目視しようとしたが、深い緑に阻まれて思うようにゆかない。

ぴぴいい!

バチバチバチバチ!

 イッタンモメンが悲鳴をあげた。体内に撃ちこまれた無数の鬼石が赤い光を放ってバチバチとはじけはじめた。

ドオオオオン!

 小さな破裂は大きな爆発へと連鎖し、ついにイッタンモメンの体を粉みじんに吹き飛ばした。

「燦鬼さん・・・今のは?」

 桜花を降りた圭一が傍らに歩み寄った。魔化魍はたしかに葬られたものの、ここまで追跡してきたふたりにとっては釈然としない結末であった。

―――数分後。

 ダム湖はまた初秋ののどかさを取り戻していた。

 まだわずかに暖かさを含む日差しが、湖水に反射してきらきらときらめいている。

 若い女性がその湖水を眺めていた。背中まで伸びたつややかな黒髪が風にかき乱されているが、その顔つきはどこか日本人離れしている。彫りが深く、瞳は薄い緑色である。

 白い薔薇の花がプリントされた赤いTシャツの上に、丈の短いライダー用の黒いレザージャケットを羽織っている。下半身は色あせたジーンズとつま先のとがったブーツに包まれていて、170センチ超の長身が精悍なシルエットを造り出している。

 足元に置かれた、防水加工の黄色いツーリングバッグと墨色のジェット型ヘルメットに手を伸ばした時、背後の潅木から別の人影が音も無く姿を現した。

 鬼の姿を解除した燦鬼である。淡いグレー系のTシャツを重ね着し、丈の短いデニムベストを羽織っている。黒いレザーパンツと同色のブーツが全体のイメージを引き締めている。本来は古風な顔立ちの燦鬼なのだが、大きめのサングラスが近寄りがたい凄みをかもし出している。

ふたりの女性は、湖のほとりで静かに対峙した。目の前の女性ほどではないが、燦鬼も女性としては長身である。互いに見つめあう彼女たちの姿は、そのままファッション雑誌のグラビアを飾れそうなほどに優雅なのだが、その内から発せられる気は、互いの力量を推し量りながら、隙あらば痛烈な一撃を加えてやろうかという危ういものをはらんでいた。

 燦鬼がサングラスをはずした。

「やるねえ、あんた」

 低い声だ。やる気まんまんである。

「どうも。放っとくと逃げられそうだったもんで、つい余計なことをしちゃったわ。ごめんなさいね」

 相手も負けてはいない。そしてふたりは再びにらみ合いを始めた。

身元を尋ねもしなければもちろん自己紹介もしない。鬼に決まっている。敵ではないから攻撃こそしないが、むき出しのライバル心がまるで殺気のように噴出し、はじけあって渦を巻いている。

その渦のパワーが臨界点に達したとき・・・。

「ふふ」

 緑の瞳の女性が先に小さく笑った。

「ふふふふ」

 つられて燦鬼も笑い出した。

あっははははははははは―――。

 ふたつの殺気が化学反応をおこしたものか、彼女たちはいきなり腹をかかえて大笑いしはじめた。

 路上では圭一がやきもきしながら燦鬼の帰りを待っていた。

 

「花吹鬼さん!」

 聖依子と烈鬼が歓声をあげてかけよった。

 燦鬼とともに剣山民俗博物館へ入ってきたのは、あの緑の瞳の女性であった。

「久しぶりだね。烈鬼、聖依子。―――シュッ」

 ヘルメットとバッグを床に置き、“はなぶき”と呼ばれたその女性は片手を軽く振って聖依子たちに応えた。

「あんたたちがこっちに来て以来か。元気にしてた?」

 花吹鬼は聖依子や烈鬼とは旧知の仲であるらしい。

「変わっていませんね、全然」

 烈鬼が花吹鬼のいでたちを見ながら感心している。

「それ、褒め言葉なの?」

「もちろんですよ!」

 屈託なく声をあげて笑う彼らは皆、普通の若者たちである。

「ご両親はお元気ですか?」

「ええ、おかげさまで。母さんはあいかわらずフランスの実家で絵を描いているわ。親父は吉野の宝物殿で古文書に囲まれて過ごしている。どっちももう半年くらい顔見ていないんだけどね」

 花吹鬼は日本人とフランス人のハーフであるが、彼女の母親にはスイス人とドイツ人の血が混じっていると聞く。聖依子は小さい頃花吹鬼の両親にとても可愛がってもらっていた。芸術家の母と学者の父。彼らは互いに惹きあう点も多いが、反発しあうことも多く、現在は互いに距離を置いて暮らしている。

「ところで、大学はお休みなのですか?」

「いやそうじゃないんだけど・・・はっきり言って今は、学校行ってる場合じゃなくってね」

 花吹鬼は鬼であると同時に、大学院に通う学生である。奈良時代、平安時代など、いにしえの古文書を解析する研究を続けている。いつか鬼として活動できなくなっても、この知識が必ず猛士に役立つだろうと考えているのだ。父親の影響が大きいことは間違いない。

「つもる話もあるんだけど、まずは滝支部長にお会いしたいわ」

 

「やあ、いらっしゃい」

 階下の事務所から滝が顔を出した。

「滝です」

「吉野直属の花吹鬼です」

 滝は花吹鬼たちを喫茶コーナーへ案内した。午後8時15分、博物館はもう閉館していて来訪客はいない。高知からついさっき帰還した蒼鬼も席に着いた。

「突然のことで驚かれたと思います。本部の指示とは言え、隠密行動をとっていたことをお詫びします」

「封印されていたもうひとつの品物…についてですね」

 滝は単刀直入に問うた。吉野の鬼が連絡もなく四国の山に分け入っていた。これが意味するものは…。

 花吹鬼は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに観念したように笑みを浮かべた。

「ご存知でしたか」

「いや、そういう噂を耳にした程度です。吉野で何が起こったのか、うちの鎖冷鬼はいったい誰に襲われたのか、是非ともくわしくお聞かせ願いたい」

 花吹鬼は鎖冷鬼の名を聞くと、わずかに表情をこわばらせた。

「お察しの通り鬼の鎧が盗み出されたあの夜、同じ社からもうひとつの封印の品が奪われました。…『魔怒鬼の腕』です」

「マドキノウデ?」

 一同は息を呑んで花吹鬼の話に耳を傾けた。

「明治時代の文献に、魔化魍として猛威をふるったあるオニの存在が記されています。想像を絶する怪力と不死身のごとき生命力を誇る、恐るべき魔化魍であったと伝えられています。そのオニを、後日猛士が魔怒鬼と名付けたのです」

「オニなのに…魔化魍?」

「なに、それ?どうしてそんなやつが存在するの?」

 烈鬼や燦鬼の混乱も当然であろう。猛士の常識で理解できる話ではない。

「その出自についてはまったくわかっていません。ただ、魔怒鬼の誕生には例のふたりが関係していると思われます。なぜなら、魔怒鬼の左腕にはそれ以前に奪われた変身鬼弦が巻かれており、それが力の源であったとのことです。おそらくはあのふたりがまた良からぬ研究をして、新たな魔化魍を生み出したのではないかと…」

「またあいつらか」

「一体何者なのかしら?そんな昔から暗躍している相手なのに、正体を探るどころか写真の1枚も無いなんて」

 亜沙子の言葉に皆黙って頷いた。

「厄介なことに、変身鬼弦によって力を得ているため私たちの音撃はまるで通用しないのです。通常の打つ、斬るといった物理的な攻撃によってダメージを与えるしかなかったようですが、格闘においても当時の鬼は子供扱いされたということです」

―――そんなに手ごわい相手なのか。音撃鈴で魔化魍を封じ込めるという戦い方をする自分には、かなりの難敵となるだろうな。

蒼鬼は花吹鬼の話を聞きながら、来るべきハードな戦いに思いをめぐらせた。

「でも魔怒鬼は最後には倒されたのでしょう?」

「そうそう。結局どうなったの?どうやってそいつを倒したの?」

 聖依子と亜沙子は顔を見合せて頷きあった。しかし花吹鬼の答えは一縷の望みすら与えてくれるものではなかった。

「厳密にいえば、倒せなかったのです」

「ええ!?」

 花吹鬼は、当時の鬼たちがいかにして魔怒鬼と戦い、その戦いがどういう結末を迎えたのか、自身の知る限りを皆に語った。重苦しい雰囲気が喫茶コーナーを支配した。

「ですが花吹鬼さん。私が聞いたところによると、盗まれたのは鬼の鎧だけで、もうひとつの…その魔怒鬼の腕は被害にあわなかったと」

 聖依子の情報はいい加減なものではない。

「腕は…確かに腕は残されていたの。社の本殿前に落ちていたらしいわ。本殿から運び出されはしたものの、犯人たちの間で仲間割れか何かがおこって、魔怒鬼の腕だけはその場に放置されていた、と皆思ったのよ」

「思った…とは?」

「残されていた腕は見た目はまったく同じ状態だったのだけれど、肝心の変身鬼弦が巻かれていなかった。鬼の鎧の盗難で、神社の人たちも慌てていたのでしょうね。その時はよく確かめずに腕をそのままもとの本殿に安置したのだけれど、屋島で起こった鎖冷鬼さん襲撃事件を受けて、宗家が魔怒鬼復活の可能性を示唆したのです」

「で、調べなおしてみたら案の定…というわけか」

「そんなら埼玉に現れた朱鬼のヤローをとっ捕まえて、仲間の正体をはかせりゃいいじゃないスか」

「へえ、たまにはいいこと言うじゃん、圭一」

 おお!と胸を張る圭一と燦鬼をひとにらみで黙らせた滝は、魔怒鬼の腕と朱鬼の関係について尋ねた。

「私も実際に被害に遭った社を見てきましたが、確かに何者かが争った跡がありました。大量の血痕や焼け焦げた杉の木など、どう見ても尋常な戦いではなかったはずです。考えにくいかもしれませんが、鬼の鎧を奪った朱鬼と、魔怒鬼の腕を狙った何者かが偶然同じ時に同じ場所で鉢合わせしたとしか考えられません。少なくとも一部で言われているような、複数犯による盗難事件では決してないと思います」

「で、花吹鬼さんはその魔怒鬼の件と鎖冷鬼くんの襲撃事件とは関わりがあると思いますか?」

 蒼鬼の質問に、花吹鬼は即座に頷いた。

「鎖冷鬼さんを襲ったのは、間違いなく復活した魔怒鬼です」

 それまで慎重に言葉を選びながら話してきた花吹鬼が、力強く断言した。

「実はあの夜、社を警護していたふたりの鬼が殺害されています」

「ええ!?」

「何てこと…」

 鬼の殺害については、滝をはじめ全員にとって初耳である。さすがの聖依子も驚きを隠せずにいた。

「朱鬼が殺したの?」

 燦鬼の表情が一変している。仲間をやられたという気持ちが怒りに火をつけたのだろう。

「私は違うと思います。ふたりとももの凄い力で全身を打ちすえられていました。朱鬼の音撃弦ではあんなふうにはなりません。勝手ながら、高松の椿医院から鎖冷鬼さんの診断書を取り寄せましたが、殺害された警護の鬼のようすと酷似していました。それともうひとつ。かつて魔怒鬼は、音撃棍を自在に操ったと言われています」

「音撃棍!」

 それまで黙って話を聞いていた裕作が急に立ち上がった。

「鎖冷鬼さんのそばに落ちていたやつだ!」

 花吹鬼は、拳を握る裕作に声をかけた。

「裕作さん、吉野本部に籍を置く者として、あなたと鎖冷鬼さんには本当に申し訳ないと思っています。もっと早く、もっと正確に状況を把握して現場の皆さんに情報をさしあげていれば、鎖冷鬼さんはあんなことにはならなかったかもしれません。本当にすみませんでした」

 花吹鬼は、立って深々と頭を下げた。

 裕作は黙ってうつむいたままだ。敬愛する師匠が敗れた悔しさや、吉野の不手際に対する釈然としない思いが胸の中で渦を巻いている。言葉が出なかった。その震える肩を圭一がやさしく抱えると、彼を再び椅子に座らせた。普段はよく裕作をいじめて面白がっている圭一だが、へこんでいる仲間に対してはこの上なくやさしい男だ。暴走族時代から、仲間に慕われていたのは、なにも腕っぷしが強いからというだけではなかったのだ。

「早えぇ話が、俺たちは昔っからそいつにゃ散々やられっぱなしだってことじゃねえか」

 圭一の鋭い視線がまだ見ぬバケモノを睨みつけていた。

 

「蒼鬼さん」

 博物館脇の駐車場で背後から声をかけたのは花吹鬼である。さっきは滝はじめ四国支部のメンバー全員を前にしていたため、ゆっくりとあいさつできなかった。花吹鬼は博物館を後にしようとしている蒼鬼の後ろ姿をみとめ、足早に後を追ったのだ。

 満月を少し過ぎた月が、深夜の大歩危峡を金色にライトアップしている。

「やあ、しばらく。昨年の大みそか以来だね」

「はい。あの時の見事な結界は今も健在です。吉野は蒼鬼さんの鈴でしっかり守られていますよ」

「それはよかった」

「本部の連中も驚いていましたよ、こんな正統派の音撃鈴使いがまだいたのかって。失礼ですよね」

 花吹鬼の賛辞に蒼鬼は照れ臭そうに頭をかいた。花吹鬼の緑色の瞳が、月の光を反射して宝石のようにきらきら光っている。

「そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、師匠に比べればまだまだだからね、ちょっと複雑な気持ちだよ」

 蒼鬼は昨年末、猛士本部の要請で吉野の主要エリアに音撃鈴の結界を張り巡らせた。猛士の中枢を魔化魍の直撃から護るためのファイアーウォールとして彼を招へいしたのは先代の蒼鬼、今は本部で宗家の補佐として重要な任務に就いている曽我部宗麟である。

「宗麟先生には、結局お会いにならなかったのですか?」

 花吹鬼は猛士宗家直系の弟子であったが、鬼として、人として、いかにあるべきかなど、技以外の精神的教えを宗麟から少なからず受けていた。その意味では、蒼鬼と花吹鬼は兄妹弟子と言えなくもない。

「2日しかいなかったからね。師匠は小暮さんと一緒に、何やら新しい音撃武器の開発をしていたらしい。結界を張る合間に会いに行ったけど、門前払いを食ったよ」

「ああ、あのふたりが研究室にこもると絶対ダメ。声をかけないとご飯も食べないんだから。放っておいたら本人たちも気づかないままミイラになっちゃうんじゃないかしら」

 ふたりは額を突き合わせて研究に没頭するふたりの姿を思い描いてプッとふき出した。

 博物館裏の里山から、虫たちの可愛らしい鳴き声が流れてくる。どこか蒼鬼の鈴の音にも似ている。

「ところで蒼鬼さん。私、前からお尋ねしたかったことがあるのですけど」

 花吹鬼が少しあらたまって切り出した。口調から、少し躊躇しているのが感じられる。

「何だい?」

 蒼鬼にうながされ、さらに少しためらって花吹鬼は口を開いた。

「魂魄の秘密…についてなの」

「魂魄の秘密?そんなものがあるの?」

「え?」

 思いがけない蒼鬼の返答に、花吹鬼は目を丸くした。

―――とぼけているのかしら?

 しかし、蒼鬼は視線をまっすぐ花吹鬼の瞳に向けている。「魂魄の秘密」という言葉に食いついてきたのは、むしろ訊かれた彼の方であったようだ。

「あの、ご存じないのですか?例の言い伝え…。私、蒼鬼さんが宗麟先生からあの神刀を譲り受けられた時、一緒に聞かされていたものとばかり…」

「どんな話だい?師匠は何も聞かせてくれなかたよ。ただひとこと、大事にしろ、としか」

「大事にしろ…だけですか」

「ああ。壊すとお前、ただじゃ済まないよって。神刀だから、神罰でも受けるのかなって思ってた」

 ふぅん。と少し考え、花吹鬼は蒼鬼の興味津津の視線を見返した。

「そうなのかもしれませんよ」

「え?」

「私、一度だけ宗麟先生に聞かされたことがあるんです。神刀魂魄、その真の威力は滅びたる時にこそ示されるのだ、と」

「真の威力?滅びたる時?なんだい、それ?」

 昔から物事をかんでふくむように教えることはしない師匠であった。自分の感性でものを言い、あとは己が受け止めて解釈し、己の感性に変えて腹に収めよという教え方であった。いちいち訂正などしなくても、間違った受け取り方をしているとそのうち思い知らされる時が来るものだ、といったぐあいだ。誤りを知らしめるためなら、弟子が怪我をするのを黙って見ていることすらある人なのだ。

「そっか。蒼鬼さん何も知らなかったのですね。宗麟先生らしいと言えばらしいけれど…」

「魂魄を譲り受けてもうだいぶ経つけれど、特に何も変わったことはないよ」

「そうですか。今の猛士で音撃鈴の戦士は蒼鬼さんおひとり。当然魂魄と絶花の唯一無二の使い手です。いろんな文献をひも解いていると、音撃鈴はかなり初期の歴史にも登場するのです。私、今のうちに知っておけることは直にお話を伺ったりして、今後のためにも残しておきたいと思ったものですから。もちろん、機密事項なのは承知していますけど」

「機密というほどたいそうなものではないから、僕でわかることなら何でも話すよ。けど、そう言われてみると、確かに四国支部にはちょっと古風な音撃を使う鬼がふたりもいるね」

「ええ。もちろん燦鬼さんの音撃笙にもすごく興味があります。とてもゆかしい音色だとか。しかもその使い手があの人とくればなおさらだわ」

「ギャップが面白い?」

「ええ、とっても」

あははははは。

 明るい笑い声に驚いて、虫たちの大合唱が一瞬やんだ。

 眩い車のライトがふたりを包んだ。燦鬼の専用4WD「桜花」である。蒼鬼たちの傍らに停まった大きな四駆車の助手席から、燦鬼が降りてきた。

「何がそんなに面白いのかしら?」

数秒後、ふたたび鳴きはじめた虫たちの声とともに、ハスキーな女性の声がふたりの耳に届いた。

「あら、燦鬼さん」

「なんだかとってもいい雰囲気じゃない。お邪魔だったかしら?」

「ええ。最悪のタイミングだわ」

「まぁ」

 ふたりの女性にはさまれて、蒼鬼は苦笑いしていた。

「花吹鬼さん、燦鬼さんの家に泊まるの?」

「親父の会社の福利厚生施設のコテージが空いてるの。ここから車で20分くらいかな」

「そりゃいいや。燦鬼さんもそういうこと、親父さんに頼めるようになったんだね」

「えへへ。正直自分でも驚いてるのよ。親父も嬉しそうだった。最近は電話でいろいろと話すのよ。もちろん娘が鬼だなんて夢にも思わないでしょうけど」

 少し恥ずかしそうに笑う燦鬼を、先輩の蒼鬼も微笑んで見ている。彼女が暴走族連合の総長だった頃は、親子の会話は怒鳴りあいでしかなかったと聞いている。

「じゃあ花吹鬼さん、また明日」

「はい。お疲れ様でした、蒼鬼さん」

 軽く会釈すると、花吹鬼は圭一が開けてくれた後部ドアの中に姿を消した。

 桜花のテールランプが国道の向こうに消えた後、ひとり残った蒼鬼は月の輪にまたがって空を見上げた。空気が澄んでいるうえ、地上にネオンなどの灯りが無いぶん、このあたりは星がとてもはっきりと見える。いつか、明日の戦いに思いをめぐらせて掌に汗を握ることなどなく、ゆったりとした気持ちであの星空を見上げてみたいものだと思う。

―――魂魄の秘密…か。聞いても教えてくれないだろうな、あの師匠は。

グウォン。

 月光と虫の声に遠慮しながら、月の輪のエンジンは覚醒した。

 

「ふふふふ。鬼どももそろそろ魔怒鬼の存在を思い出した頃だろうな」

「これから面白くなるわね」

 静かな森の奥深くにひっそりと建つ洋館の飾り窓から、若い男女の姿がのぞいていた。

 男は黒い着流し、女は白地に大輪の花が描かれた浴衣を着ている。

「もうこの前みたいに持っていかれたりしないでね」

 この前というのは、約120年前のあの戦いのことを意味しているのだろうか。

「わかっている。ただ、あの時は土砂崩れが…」

「言い訳はいいから。鬼が何人来ようが絶対負けない魔化魍にしてね」

 はいはい、と髪の毛をぽりぽり掻きながら、着流しの男は机の上に並べられたさまざまな実験器具に向かった。

「何事も大切なのはその本質。いわば己の属性を知るということだよ」

「本質?属性?要は鬼か魔化魍かってことでしょう?」

「まあ、ね。つまり魔化魍は負の属性。我々とて同じだ。となれば鬼の属性は正。そいつを一気に属性転換させることで得られる膨大なパワーをいただくという寸法さ。聖は邪に、邪は聖に変わる。面白いだろう?」

「属性転換なんてそう簡単にできるものなの?」

 女の腕が男の腕に絡みついた。じっとりと湿った眼差しで男を見上げている。上品な顔立ちによこしまな翳がさしていた。

「もちろん簡単ではないさ。残念ながら今の我々にも無理。そこで注目すべきが―――」

「そっか。鬼どもの変身アイテムを使って」

「そのとおり。あの変身アイテムはなかなかのスグレモノでね。特殊な波長の音でもって人間の肉体を細胞レベルで組み換え、あの忌々しい鬼に変える。ならばその波長の調律しだいで、属性転換の引き金になるのではないかと考えたのさ」

「素敵ね」

「だが…」

 得意満面だった男の表情がにわかに曇った。一見上品な印象を受ける紳士なのだが、感情の起伏はかなり激しいとみえる。

「残念ながら、あの変身システムを使えば誰でも転換できるというわけではないのだよ」

「鬼でなければ無理なのね」

「いや、鬼であれば誰でもよいというわけでもないのだ」

「う〜ん、小難しい話ね」

 女は興味なさげに男の腕から離れ、視線を森の奥へとめぐらせた。

 女がふくれっ面をしたので、男は話に少し間をおいた。女は窓ガラスに指でなにやら描いている。男の話を聞く気があるのかないのか。

「素材も選ばなければいけないということさ。属性転換に耐えられる鬼などそうはいない。よく吟味して素材を選ばなければ、精神的であれ肉体的であれ早晩壊れてしまうからね」

「そこで目をつけたのが彼?」

「ああ。ようやく見つけた。魔怒鬼になり得る男」

 男と女は顔を見合せてにやりと笑った。

「長年の溜飲をさげる時がやってきたぞ」

 男は卓上の実験装置を愛おしげに眺めている。幾本ものガラス管が交差する複雑な装置の中を、銀色の液体がゆっくりと移動している。やがてその液体はガラス管の終点からぽたりぽたりと垂れてビーカーに溜まった。男がその銀色の液体に小指の先ほどの黒い丸薬をぽとりと落とすと、たちまち液体は白煙をあげ、テニスボールほどもある金属製のウニのごとき奇怪な塊に変貌した。

「さて、お薬ができたぞ。愛しいわが子を起こしにゆこうか」

 男はそう言うと奇怪な金属の玉をつまみあげ、女を従えてドアの向こうへと姿を消した。

 洋館をとりまく美しい緑からは鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。生き物の気配がまったく感じられない森であった。

花吹鬼

(五)幻想の洋館

「おまえ、鬼になりたいのかえ?」

―――?

 15年前のあの日…。

誰もいない船着場で、少年は背後から声をかけられて振り返った。

 赤いハイビスカスがプリントされたアロハシャツを着た若い女が微笑んでいた。髪の長い古風な美人だ。

 じりじりと肌を刺す日差しが、わずかに翳ったように思えた。

「あなたは?」

 今、鬼と言ったか。鬼の存在を知っているこの女はいったい・・・?

「あなたは猛士の方ですか?」

「まあ、関係者ではあるわね」

 意味深な含み笑いを、少年はどう感じとったのだろう?

 我那覇 凱(がなは がい)は4ヶ月前に高校を卒業したばかりであった。卒業と同時に彼はひとりの男の元に弟子入りした。表向きは漁師ということになっている。しかしその男は、魔化魍と呼ばれるバケモノを密かに倒している不思議な男であった。人間離れした身体能力と、どんな苦難にもくじけることのない鋼の精神力を持っている。命を懸けた戦いを生涯の生業としているにもかかわらず、そのことを誇らしく喧伝することもない。ただひたすら戦いに明け暮れていた。

 煉鬼という名のその男は、魔化魍との戦いに際して、不思議な音叉で異形の鬼の姿に変身した。

 凱がこの男とはじめて出会ったのは昨年の初夏。海で友人と魚を突いていた凱は、とつぜん巨大な化け物に襲われた。

 体長は7メートル。目も鼻も無い巨大な縄の先端に、毒をもつ乱杭歯が光っていた。凱の友人が声もなく海中に没した。幼稚園の頃からいつも一緒にいた幼馴染みであった。人はこんなにあっけなく死に、別れはこんなに唐突に訪れるものなのかと思った。

―――次は僕か?

 友人がたどった末路を自分もゆくのか。あまりにも現実味に欠ける運命に、不思議と恐怖感はなかった。

 その時、影が走った。八重山の陽光を反射して青く輝くその影は、頭部から3本の角がはえていた。全身を覆う筋肉の鎧は美しく盛り上がって無敵のパワーの内包を物語っている。凱は、沖縄地方の伝説にある木の精霊キジムナーが現れたのかと錯覚した。

 青いキジムナーは、波の中でも消えない猛烈な火と、化け物の巨体に浮き上がった不思議な太鼓でそいつを倒した。

 その時から凱の人生は大きく方向転換した。人知れず人間を守って生きる、この人生を自分も歩もう。この不思議な男の後に自分も続こうと決心したのだ。

「はい。僕は鬼になろうと思っています」

 アロハシャツの女に、凱は答えた。

「なら、強くならなければいけないねえ」

 女は値踏みするような目で凱を見た。

「どんな魔化魍も倒せるほどに。いや、鬼でさえも倒せるほどにねえ」

 視線が凱の全身にまとわりつく。

「いえ、師匠は強くなろうと思うなと言います。鬼になるには手順があるのだそうです」

 強い海風が女の黒髪をもてあそんでいる。

「手順?」

「はい。まず心を強くする」

「そして?」

「それだけ」

「何ですって?」

「それだけだそうです。心を強くすればそれでいいと、師匠はいつも言っています」

「ふん。で、お前はそれでいいのかえ?」

 女の声が少し低くなった。

「どういう意味ですか?」

「心なんぞ強くなったところで、魔化魍は倒せまいと言っているのよ。違うかえ?」

「はあ、しかし・・・」

「おまえ、魔化魍に食われて死んだ友達の葬式で、その子の母親に何を言われたか覚えていような」

 女の言葉は凱の胸に小さな黒いしみをつけた。

―――おまえ、うちの子がおぼれた時何をしとった?なんでうちの子を助けなんだんじゃ?!

 友人の母親は、泣き喚きながら凱をののしった。友人は溺死したことになっていた。死体はあがっていない。

 小さい頃はよく凱を可愛がってくれたおばさんだった。悲しみと怒りで顔の筋肉がひきつっていた。別人のようだった。

 凱の心についたしみが少し大きくなっていた。

―――あの子を見殺しにした。おぼれているあの子を見殺しに!

 つかみかかろうとする母親を周囲の親族がおさえつけたが、猛烈な憎しみの視線が凱の全身を貫いた。

―――おまえが死ねばよかったんじゃ。

 最後にそう言うと、友人の母親はわあああああああと声を張り上げて泣いた。

 心のしみはだんだん大きくなってゆく。

「どう?すごい迫力だったでしょ?あの憎しみのパワーこそが強さの原動力なのよ」

 話しながら、女は凱をある洋館へ連れて行った。

 その洋館には背の高い男がいて、爽やかな笑顔で凱を迎えた。やせた男だった。こけた頬がとがった顎を強調している。

 丸いアンティークのティーテーブルに紅茶のカップが置かれた。

「さあ、どうぞ」

 縁なしの丸いめがねの奥で、男の目だけが笑っていた。

 男は和柄の半袖シャツを着ていた。朱色の錦鯉がプリントされたアロハシャツだ。体をくねらせて泳ぐ錦鯉たちの目がぎょろりと動いて、凱を見た。

 凱は目の前の紅茶をひと口飲んだ。甘いでもなく苦いでもない。不思議な味がして、体がふわりと浮き上がったような軽いめまいをおぼえた。

「見たところ君はとてもすじが良い。すぐにでも鬼になれるよ」

 男は嬉しそうに語った。

「すぐに?いや、でも僕はまだ・・・」

「いいのかい?君の師匠は今もひとりで戦っているんだろう?君、早く鬼になって師匠を楽にしてやろうとは思わないのかい?」

「鬼がふたりになれば、師匠の苦労は半分になるわ。弟子をとってよかったと思うだろうねえ」

 女が凱の肩越しに顔をのぞきこんだ。女の吐いた生温かい息が、凱の鼻腔から体内に侵入してきた。

―――そうだ。早く強くならなきゃ。強くなって師匠を助けてあげるんだ。

 一瞬、部屋全体がぐにゃりと歪んだようなめまいを覚えた。この部屋の空気自体が、凱の正気を心地よく狂わせるような、怪しい毒気を含んでいるようだ。気つけにと、凱は出された紅茶をもうひと口すすった。

 その途端、凱の意識は深い穴の中へと落ちていった。

 

―――ここは?

 広い野原だ。

見渡す限り、空と地面しかない。

 地面には草1本生えておらず、空には一片の雲もない。

 その間に凱がいるのだ。

 凱の手には、なぜか師匠の変身音叉が握られていた。

「師匠!」

 大きな声で呼んでみたが返事はなかった。自分の声が空と地面に吸い込まれてゆくような、頼りない気持ちだけが残った。

―――そうだ、師匠は今魔化魍を追って多良間島へ行っているはずだ。こんなところにいるわけがない。

 だが、それならどうして師匠の音叉がいま自分の手にあるのだろう?

 その時、野原のあちらこちらで土がもっこりと持ち上がり、割れた土まんじゅうの中から凶悪な面相の魔化魍が次々と現れた。

「バケネコ!ドロタボウもいる。どうして!?」

 バケネコとドロタボウだけではない。カッパやウワンなど、夏に現れる等身大の魔化魍が続々と地中から姿を現した。

ギャアギャア!

キキー!

ギョギョギョギョ!

 八方より全身を押さえつける土の圧力から解放され、どの個体も両手を天に向けて喜びの雄たけびをあげた。

 次々に現れる魔化魍はもはや数えきれない。この世界中で人間は凱ひとりなのかと思ってしまうほどだ。

 ひとしきり四肢を伸ばして体をほぐした魔化魍どもは皆、自分がひどく空腹であることに気がついた。

 腹が減った。とてつもなく腹が減った。どこかに…どこかに…

人間はいないか?

 すべての魔化魍が凱を見た。にいやりとわらった。

 凱は背筋に氷柱を押しつけられたような恐怖をおぼえた。

―――く、食われる。この魔化魍の数と同じだけの肉片に切り裂かれて!

わああああああああ!

 悲鳴をあげていることに凱自身は気づいていない。

 彼の絶叫は、魔化魍たちの雄たけびにかき消されてしまった。

 身を寄せる灌木の1本すらない、限りなく平たい大地を、凱は叫びながら走った。

 食われるのはいやだ。食われるのなんて!

―――うちの子も食われたんだ。お前も食われてみい!

 海で魔化魍に襲われた幼馴染みの母親の声がした。

いやだ!

―――凱よお。お前も来てくれよお。ひとりで食われとるのは辛いんじゃ。

 食われた友達の声も聞こえた。

いやだいやだ!

―――凱。凱よ。凱よおおお。

 何人もの声がした。皆、かつて魔化魍に襲われて命を落とした人たちの声だと直感した。

いやだいやだ!いやだいやだいやだ!!!

 どの声にも激しい恨みがこもっている。魔化魍が憎い。生きている凱が憎い。すべてが恨めしい。そんな声だ。

 あとしばらくしたら、自分もあの人たちの仲間に入るのか。凱は目をつぶり、左右の耳を手でふさいで走った。

―――鬼におなりよ。

 耳の奥であの女の声がした。耳を手で覆っているのに、妙にはっきりと聞こえた。まるで耳の中でささやかれているような声だったが、女の姿はどこにもない。ただ、あの甘い吐息の香りだけが凱の周囲に漂っている。

―――鬼に…?

 凱は、手の中にある変身音叉を見た。そうだ鬼になれれば…しかし、弟子入りしてまだ間もない凱には変身の経験などない。変身音叉があったとてそう簡単に鬼になれるわけなどあろうはずもない。できるのか、自分に?

―――それはオロチだよ。

 今度は男の声がした。

―――オロチ?

―――そう。魔化魍の大暴走さ。逃げて逃げ切れるものではないぞ。そのまま食われるか、戦って生き延びるか。ふたつにひとつよ。

 魔化魍の大群は凱を取り囲むようにせまってくる。どいつも必死の形相だ。隣の仲間を押しのけ、前の仲間を引き倒し、凱のいちばんうまい部位を真っ先に食ってやろうと牙をむいている。

「よし!」

 ゆっくりと考えてなどいられなかった。凱は見よう見まねで音叉を指先ではじくと、師匠のするように自分の額にあてがった。変身できなければ自分の命運は尽きる!いちかばちかだ。

キィィィィィィン。

 大地の果てまでも響き渡るような澄んだ音を発して、変身音叉は自らの体を超高速で振動させた。

 清らかな音は凱の眉間から体内に入り、全身のすべての細胞を激しく揺り動かした。

 凱の肉をひきむしろうと伸ばされた魔化魍たちの何百本という手がぴたりと止まった。喰らおうとしてお預けを命じられた犬のように哀れな目で凱を見ている。

 そして凱は、自分の肉体に劇的な変化が起こっているのを感じていた。

―――変わる。変わってゆく。

 突如、凱の体が炎をまとって青白く輝いた。全身から噴出した鋭い炎は最前列の魔化魍たちを瞬時に焼きつくした。

 力が体の隅々にまでみなぎり、筋肉が限界まで膨張し、角が額の皮膚を突き破って伸びた。数秒後、そこには師匠煉鬼と酷似したひとりの鬼が立っていた。

「鬼になった。僕もなれたぞ!」

 凱は2本の音撃棒をつかむと、手当たり次第に魔化魍どもを打ちすえた。音撃の型も何もあったものではない。ただやみくもに殴りつけるばかりである。それでも鬼石の威力は凄烈を極め、打ちすえられた魔化魍は、ある者は数メートルも後方へふっとんで悶絶し、ある者は腕や頭部をもがれて昏倒した。

 打つ。打つ。打つ。何分経ったのだろう?いや何時間、何日か?凱の脳裏は真っ白になっていた。

 ただ目の前の魔化魍を殴りつけた。まるで手と音撃棒が一体化してしまったような気がする。どこまでが手で、どこからが音撃棒なのだろう。

 時折背中に激痛が走った。背後からの攻撃には無防備なため、おそらく背中は傷だらけになっているにちがいない。だがそんなことに構ってはいられない。倒しても倒しても、魔化魍は次々に襲いかかってくる。たとえ相手が鬼であろうと、体の芯をこがす飢えと渇きはいかんともしがたいのだ。

バキッ!

 左手の音撃棒がなかほどからへし折れた。

 凱は残った右手の音撃棒だけで戦った。しかし、攻撃のやんだ左側が魔化魍の攻撃を受けはじめた。左腕から左肩にかけて何箇所もえぐられ、傷から噴き出した鮮血が凱の左ほほを朱に染めた。

バキッ!

 そしてついにもう一方の音撃棒が砕けた。

 津波のごとく押し寄せる魔化魍のツメやキバが凱の全身を切り裂いた。

 疼痛は凱の全身を包み、意識が遠のいた。

「うおおおおおおお!」

 生きたいという本能が凱を突き動かした。

ごおおおおお。

 凱の口から炎が走った。鬼法術鬼火である。師匠の煉鬼がよくする秘術であるが、本来凱に扱える技ではない。死に直面した戦いの中で、凱は己の限界を超越したのだ。

 至近距離の魔化魍が何体も劫火に包まれて悶死した。だが、それでも魔化魍は尽きることなく凱に迫ってくる。凱は、左右の拳から鬼ツメを突き出して振りまわした。もはや戦法も鬼の能力もない。

 ついに凱の姿は無数の魔化魍の渦に呑まれて消えた。

ギョギョギョギョ!

キキキキキィ!

ああああああ!

 魔化魍たちの歓喜の雄たけびに、凱の断末魔の絶叫もかき消された。

ドオオオン!

 不意に魔化魍たちの動きが止まった・・・?

ドドーン!

 爆発音がおこっている。

―――なんだ?

 凱は薄れてゆく意識の中で、魔化魍たちに起こった異変を感じ取っていた。

 一度に数体以上の魔化魍が、粉みじんになって破裂している。

ドドーン!

 まるで体内に爆薬を仕込まれたかのように次々と炸裂して消えてゆくではないか。

ギエエエエ!

 魔化魍たちは凱の体から離れていった。突如現れたあらたな敵を中心に円陣を組みなおしたのだ。

 その中心に立つ者は・・・?

―――鬼?

 誰かが自分を助けにきてくれたのだ。凱は自分がここにいることを告げようとしたが、疲労と痛みでもはや指1本動かすことはできなかった。声もでない。それでも凱はその鬼の姿を見ようと首を動かした。神の姿を求める修行僧のような気持ちであった。

 その鬼は、暴走する飢えた魔化魍の群れの真ん中で悠然と立っていた。

 師匠煉鬼のような精悍さはないが、どっしりとした重みを感じさせる体躯であった。額の中心から伸びる角はドリルのように鋭い。凱は北極の海をゆくイッカクを連想した。しかしその角はイッカクのそれよりもはるかにいびつで、はるかに鋭く、はるかに頑丈そうだ。顔面には目も鼻も口も無く、ただ歌舞伎の隈取のごとき赤いラインが縦横に走っているのみであるが、般若の面のごとき嫉妬に狂う苦悶の表情をかたどっているように見える。全身は薄墨色だが、濃い墨をたらしたかのような縞模様が浮かび上がっている。それはまるで刀身に浮かび上がる波紋のようである。

「あれは魔怒鬼だよ」

 また耳元で男の声がした。

「マ・・・ド・・・キ」

「そう、魔怒鬼は強いわよ。見ていてごらんなさい」

 女の声もした。

 魔怒鬼は両端に鬼石が付けられた長い槍のような棒を持っていた。音撃棍である。

 むん、と気合をこめて音撃棍を頭上で回転させ、遠心力とともに手近な魔化魍の胸板をドンと打ちすえた。と、打たれた魔化魍のみならず、その後ろの魔化魍の、そのまた後ろの魔化魍の同じ箇所に音撃鼓の紋様が浮き出るや、3体の魔化魍は同時にクエーと断末魔をあげて破裂して果てた。

 魔怒鬼の繰り出した音撃は、魔化魍3匹の体を一気に駆け抜けたのだ。

ぶん。

ぶん。

 魔怒鬼は攻撃の手を休めず、音撃棍をふるって次々に魔化魍の数を減らしていった。

―――す、すごい。僕がピストルなら、あれは大砲だ。

 側頭部を地面につけたまま、凱は魔怒鬼の奮戦ぶりを感嘆の思いで眺めていた。

 先ほどまで凱たちの周囲に押し寄せてきた魔化魍の群れは、確実に後退しはじめていた。

 魔怒鬼は長い音撃棍を槍のように突きながら後退する魔化魍数体を一撃で粉砕していたが、やがて自分をとりまく魔化魍の円陣が大きく広がるや、今度は棍で思い切り足元の地面を叩いた。

ドン!

 地面に巨大な音撃鼓の紋様が浮かび上がり、発生した音撃は衝撃波となって地中を走り、周囲の魔化魍どもに重大なダメージを与えた。

ドンドンドン!

 魔怒鬼は音撃棍を振りながら舞い始めた。首を振り、ひざを高く上げて跳ね回わる。棍を滅茶苦茶に振り回しては足元の地面を叩いた。

 発生した音撃波は波のように広がり、360度全方位にいる魔化魍10数体を一度に破壊した。

「オロチが収まってゆく」

 男の声が聞こえた。

「だけど、問題はこれからね」

 女の声だ。なにやら楽しそうな声だ。問題がこれから起こるとはどういう意味だろう。

 どれほどの時間が過ぎ去ったのだろうか。いつの間にかほとんどの魔化魍は滅ぼされ、残った個体もある者は彼方へと逃走し、またある者は再び地中へ姿を消した。狂ったように踊り続けていた魔怒鬼も動きを止め、周囲の気配をうかがっているようだ。

―――やった。やったぞ。助かったんだ。

 凱は信じられない気持ちだったが、とにもかくにも魔化魍の脅威が去ったことを喜んだ。全身はまだ激しく痛む。どれほどの傷を負わされたのか、確かめる勇気すらわいてこない。だが、魔怒鬼というあの鬼がいてくれればひとまずは大丈夫だろう。

 魔怒鬼は倒れている凱に背をむけて仁王立ちしている。凱は喉の痛みをこらえながら何とか声を出そうとした。

「あ、ありが・・・とう。マド・・・キさ・・・ん」

 か細い声だったが、どうやら魔怒鬼の耳には届いたようだ。

 魔怒鬼がゆっくり振り返った。

 じいっと凱を見つめていたが、苦しみ悶えているような顔がにいやりと笑った。

 違う。それは凱の無事を喜んでいるような笑みではない。断じて違う。

―――?

 凱は嫌な予感を覚えた。

―――まさか・・・?

 いや、魔怒鬼は再び音撃棍を握りなおすと、凱の方へ近寄ってきた。

―――な、何を?何をするつもりだ?僕は猛士だよ。味方なんだよ!

 倒れている凱の目の前に魔怒鬼の爪先が来た。恐る恐る見上げると、音撃棍を両手で大きく振りかぶった魔怒鬼の全身の筋肉が膨れ上がっている。フルパワーで音撃棍を凱の側頭部へ振り下ろそうとしているのだ。一撃で数体もの魔化魍を粉砕するほどの威力を秘めた攻撃を受ければ、凱の頭部など風船のように破裂してしまうに違いない。

「や、やめ・・・て」

 凱の命乞いもきかず、ついに魔怒鬼は音撃棍を振り下ろした。

うわー!

 凱はがばっと立ち上がった。

「あ、あれ?」

 先ほどの洋館であった。

「こ、これはいったい・・・??」

 凱は、見知らぬ女に導かれてこの洋館を訪れ、話をしながら紅茶を飲んだ。そして・・・?

―――僕は眠っていたのか?

「いや。あれは夢ではないのだよ」

 男がやさしく凱の肩に手を置いた。

「その目で見たでしょう、魔怒鬼を」

 女が反対側の肩に手を置いた。

「あのような無敵の鬼になりたいと思わないか、君は?」

「なれるのよ、あなたの資質があれば」

 凱は神の啓示を聞いているような心持ちになった。あの無敵の力を手にすれば、師匠も楽にしてあげられる。

 凱の心に浮かびあがったしみは、彼の魂のすべてを黒く染めぬいていた。わずかに思い出した煉鬼の姿も、すぐに黒く塗りつぶされてしまった。

―――師匠?師匠とは誰のことだ…?

 間もなく凱の脳裏に煉鬼の笑顔が浮かんだ。そうだ。師匠の煉鬼。今日もひとりで、戦っている…。

「なりたい。いや、必ずならなければ」

 凱は男女の目を正面から見返した。その瞳の奥には、いままでの彼のものとは異なった光が、小さな火種のように灯った。

 凱の言葉にうなずいた男は、女になにやら目配せした。

 無言でうなずいた女は、懐から小さな球をひとつ取り出して男に手渡した。

 それは無数のトゲをもつ銀色のボール。まるで金属製のウニのようだ。テニスボールほどもあるこの球を、男は凱の口元に持ってきた。これを、こんな大きなものを呑めというのだろうか。

 男は凱の下あごに左手を添え、右手の球を口の中へ強引にねじ込んだ。

「う、うぐ、ぐえ」

 苦しくて涙が出た。が、じきに凱の喉仏が大きく上下してテニスボール大の不気味な球は喉の奥へと消えた。

 男と女は満足げにうなずくと、くるりと凱に背をむけた。今の球が何であったのか、などという説明も何もない。

「また来たまえ」

 男はそう言いながら、花柄の板ガラスがはめこまれた木製のドアの向こうへと姿を消した。

「あなたはもっともっと強くなれる」

 ひとり残った女は、凱の右腕に体を密着させた。ずるりと音を立てて舌なめずりする女の笑顔を、凱はいつも間にか好ましく思うようになっていた。

 名残惜しそうに凱の腕から手を離す直前、女は「師匠には内緒よ」とささやいた。そして泳ぐように男の後を追った。

 凱はまだ夢の中にいるような錯覚を覚えていた。

よろよろと洋館から外へ出た。南国の強い日差しにつつまれた瞬間、凱ははげしい吐き気に襲われた。

抜けるような青い空のもと、深い緑に囲まれた静かな洋館の庭の片隅で、凱は体を海老のように折り曲げて吐き続けた。

(中篇 完)

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