仮面ライダー響鬼外伝  鈴の蒼鬼2

兇乱の魔怒鬼 〜きょうらんのまどき〜 後篇


(六)椿医院

「師匠、いよいよ来週ですね」

 病室のスライドドアが勢い良く開かれるや、姿よりも早く裕作の弾んだ声が院内にこだました。

「声がでかいよ、裕作。こんな小さな病室で大声はりあげる奴があるかい」

 ベッドで上半身をおこしたままの鎖冷鬼が笑っている。

 半月ほど前、屋島で魔怒鬼の襲撃をうけた鎖冷鬼は、善戦するも、その圧倒的スピードとパワーの前に敗北を喫した。

 必殺の音撃兵器「神斬」は破壊され、彼自身も瀕死の重傷を負って、この椿医院に運び込まれた。

当初は予断を許さぬ深刻な状況であったが、鍛え抜かれた鬼のみが持つ驚異的な自己治癒能力によって、わずか半月で病院内を歩き回れるほどにまで回復していたため、院長の椿は今週いっぱいでの退院を認めた。

「だけどま、おかげさまで思ったより早く退院できそうだよ。裕作にも心配かけたね」

「そんなことはいいんです。だけど師匠、退院してもしばらくは魔化魍退治に出かけちゃいけませんよ。椿先生からもきつく釘をさされていますからね」

 裕作は真顔にもどって鎖冷鬼に念を押した。蒼鬼や燦鬼たちは今、魔怒鬼の影を追って四国の山中へ入っている。もう1週間以上不眠不休の警戒態勢が敷かれていることは鎖冷鬼の耳にも届いていた。彼が復帰すれば皆の負担はかなり軽減されるに違いない。自分一人が悠長にベッドで寝ている師匠ではあるまい。第一、誰よりも魔怒鬼を見つけたいのは鎖冷鬼のはずだ。この借りを返したいと思うのは当然だろう。裕作は、何としても鎖冷鬼を出動させないよう寝ずの監視をするつもりであった。

「行かないよ」

 鎖冷鬼は、見舞いにもらったみかんの皮をむきながら当り前のように言った。

「へ?」

「だから、行かないってば。ちゃんと治るまでのんびりするんだもん」

 鎖冷鬼はみかんの房を口に入れて「う、すっぱ」と口をすぼめた。しかし裕作は、鎖冷鬼の言葉を素直に受けいれられずにいた。もしかしたら師匠は自分を油断させようとして、わざとやる気のない素振りをしているのかもしれないと疑っていたのだ。

「なんだい、その眼は?俺のこと疑ってるでしょ?よくないねぇ」

 鎖冷鬼はみかんを口に運びながら、上目づかいに裕作を見た。

「い、いや。俺が師匠を疑うなんて…そんなことは…」

「ははは。君はわかりやすいねえ」

 図星をきめられて口ごもる裕作を見て、鎖冷鬼は面白そうに笑った。

「だけど、椿先生のOKがもらえるまでは本当に行かないよ。俺が出ばれば確かに現場のシフトは組みやすくなるだろうし、ほかのみんなもいっとき少しは楽になるだろう。だけど、もし俺が全開で戦えないがために魔化魍を逃したらどうなる?傷を負った魔化魍は力をつけるために真っ先に人を襲うだろうな。もし俺の傷がもとで、いつもなら一撃で決められたはずの攻撃が決まらなかったら?俺の傷が癒えきっていないために戦闘中ほかの誰かが俺を気遣って、魔化魍に集中できなかったとしたら?」

「し、師匠に限ってそんなこと…」

「無いって断言できるのかい?絶対にあり得ないって?」

 鎖冷鬼のまなざしは真剣だ。これは鎖冷鬼が裕作に何かを伝授する時の目だ。

「戦いの勝敗なんてものはいつだってぎりぎりのところで決まるんだ。ほんの少し足を滑らせたら、そいつはもう十分命取りになっちまう。さっき言ったように、俺が全力で戦えないためにもしも魔化魍を仕留め損ねたら、俺か、俺を助けようとしたほかの誰かが命を落とすことになりかねないんだよ」

 鎖冷鬼は食べ終わったみかんの皮を「ほい」とゴミ箱へ見事に投げ入れた。

「でも、師匠は悔しくないんですか?魔怒鬼だかなんだか知らないですけど、変なやつにやられたまんまで」

「おいおい、お前さん言ってることがおかしいぜ。俺に仕事するなって言ってたんじゃなかったのかい?」

 裕作は黙ったままだ。鎖冷鬼の言うとおりなのだ。魔化魍を倒しにゆかないというのなら、それでいいはずなのだが。それでは彼自身どうにも釈然としない。『馬鹿を言うな。俺は行くぞ。こんな傷がなんだってんだ!』実は師匠にはそう言ってもらいたかったのだが、どうにも拍子ぬけしてしまった。

―――やれやれ、困った弟子だぜまったく。

 物足りなさそうな表情のまま枕元で突っ立っている裕作の腕を、鎖冷鬼がやさしく握った。その暖かい感触に、裕作は「はっ」と我に返って師匠を見た。

「し、師匠?」

 鎖冷鬼は苦笑いしながら裕作を見上げている。そして右手をギュっと握り締めると、まだ包帯が痛々しいみずからの左胸を容赦なくドンと叩いた。

「誤解するなよ、裕作。俺のココんとこは、グツグツ煮えたぎってんだぜ」

 彼の右の拳は、心臓の上に打ちつけられていた。

「師匠!そう…そうですよね。すみません!」

 裕作は深々と頭を下げた。失礼なことを考えてしまったことが恥ずかしかった。師匠は楽をしたかったわけでも傷をゆっくり癒したかったわけでも、ましてや魔怒鬼が恐ろしかったわけでもなかったのだ。彼のハートは、怒りと悔しさでどうしようもないほど煮えくり返っている。弟子の自分なら、そんなことはわかりきっていたはずなのに。

「いいって裕作。ただな、一人前の男だったら、そんな時も笑ってやせ我慢するもんだ」

「笑って、やせがまん?」

「そうだ。よおく覚えときな」

 裕作の腕を握る鎖冷鬼の力がほんの少し強くなった。しかし、裕作が何か言う前にその手は裕作の腕から離れ、サイドテーブルに乗っていたもうひとつのみかんを掴むと、またせっせと皮をむきはじめた。

鎖冷鬼

(七)戦闘域 〜バトルフィールド〜

「くっせぇ」

 圭一が顔をしかめた。

 深い林の中で燦鬼たちが発見したものは、魔化魍の死骸であった。

「これ、ウブメよね」

「はい。かなり崩れかかってますけど、本当のところは、くたばってまだそんなに経ってないと思います」

 燦鬼と圭一が顔を見合せた。悪臭のせいで、ふたりとも無意識のうちに眉間にしわをよせている。

「死因は何なのかしら?」

「さぁ、けどなんだかこのヤロー、ガリガリじゃねぇっすか?」

「エサが獲れなかったのかしら。それにしてもこんな風に魔化魍の死体を見るのって初めてだわ」

「魔怒鬼のヤローが出て以来、なんかいろんなことがおかしいッスよ」

 圭一の言うとおりだ。童子と姫が大切に育てる魔化魍が、このような無残な姿を人前にさらすなど考えられないことなのだが。

「とにかくすぐ吉野に連絡して。この死体を回収して調査すれば、魔化魍の謎がひとつでも解明されるかもしれないわ」

 燦鬼は圭一に指示すると、彼を置いてさっさと風上へと逃げだした。

 

ブロロロロロロロロ。

 単気筒独特の太いエグゾーストノートがこだまして、大きなオフロードバイクが林の中から姿を現した。蒼鬼の愛車「月の輪」である。

 今宵は厚い雲が月を隠している。いい気になっている夜の闇を、月の輪のヘッドライトが追い払った。

「やあ、お疲れさま」

 蒼鬼は片手をあげて既にキャンプの設営をはじめている先着組の近くへ月の輪を進めた。

「お疲れ様、蒼鬼さん」

 皆、それぞれ蒼鬼に笑顔を見せた。

 蒼鬼は先着組が停めてある専用4WD車の傍らに月の輪を停め、リアシートにくくりつけてあったキャンプ用品をかついだ。

「みんながこうして集まるのは初めてだね」

「蒼鬼さん、なんだか楽しそうですね」

「そういう烈鬼くんもだよ」

 蒼鬼は、地面にペグを打ち込んでいる烈鬼の隣にグランドシートを敷きはじめた。

 1時間後、食事を終えた蒼鬼、燦鬼、烈鬼、花吹鬼と圭一、聖依子の6人は、武器のチェックと移動ルートの確認をはじめた。

 花吹鬼は頑丈に縫われた革製のバッグから、黒く光る大きな銃を取り出した。電動音撃管「羅電」である。トランペット型音撃管のマウスピースを取り囲むように6本の短い銃身が円形に並んでいて、トリガーをひけば、高速回転する銃身から信じられない速度で鬼石が連射される。小口径だが、圧倒的な清めの弾幕の前には、いかなる魔化魍も沈黙してしまう。そしてベルトのバックルに仕込まれた音撃鳴「紫電」によって、必殺の音撃射「流撃鳴動」でとどめをさす。バッテリーパック込みでかなりの重量になる音撃兵器を、花吹鬼は軽々と片手で抱えあげた。

「何度見ても迫力ありますね、羅電は」

 烈鬼がみずからの愛機「渦潮」のバルブを調整しながら花吹鬼に声をかけた。

「ありがと。一撃必殺の渦潮とはコンセプトが真逆だけど、弾幕を張るならコイツにまかせてね」

 蒼鬼と燦鬼も初めて見るヘビー級音撃管を珍しげに見ている。

「見るからに頼もしいな。いざとなったら、羅電のうしろにまわらせてもらうとしよう」

「ご冗談を」

 蒼鬼の賛辞に、花吹鬼は照れくさそうにはにかんだ。尊敬する曽我部宗麟の弟子である蒼鬼を、彼女はひそかに兄弟子のように思っているからだ。

「明日はハイカーの行方不明現場へ行ってみましょう。ここです」

 折りたたみ式テーブルの上に広げた地図の一箇所に、聖依子がピンをさした。

「それにしても、燦鬼さんたちが見たウブメの死体といい、今年はいろいろと変わったことがおこるね。もうすっかり秋だっていうのに、夏の魔化魍の報告例が後を絶たない。季節はずれもいいところだよ。どうかしている」

 四国支部でもっともベテランの蒼鬼ですら、このような事例にはお目にかかったことはない。それもこれも、魔怒鬼出現のせいだというのだろうか?

「そうですね。圭一、念のためにサマーセットの準備もしておいてね。みんなの分もよ」

「了解っす」

 燦鬼の言うサマーセットとは、夏特有の魔化魍に対抗するための音撃棒と音撃鼓のことである。四国支部の鬼たちは滝からひと通り指導を受けていて、その後も毎年梅雨の季節になると、サマーキャンプと称して滝による音撃鼓の特訓が待っているのだ。皆、達人の域に達している。

「それにしても、こうしてひとつ所にみんなが集まって、もしも魔怒鬼が現れなければ、とんだ肩すかしをくうよなあ」

 烈鬼は腕組みをして考え事をしている。

「私はこれで正解だと思うわ」

 花吹鬼は落ち着き払っている。

「魔怒鬼を直接捜索する手がかりがない以上、ただやみくもに山の中を駆け回っているよりも、魔化魍が頻出している場所をおさえてゆく方が理にかなっているはずよ」

 花吹鬼は鬼であると同時に、奈良県の大学院で古文書などの研究に取り組むれっきとした学生である。吉野での盗難事件以降、魔怒鬼に関する猛士の古い文献には片っ端から目をとおしてある。現在知り得る情報をもっとも多くつかんでいるのは彼女であろう。

「それに、運よく魔怒鬼に遭遇できても、やつを倒すにはひとりでは無理だ。みんなで力をあわせて立ち向かうしかないからね」

 蒼鬼も花吹鬼に賛同した。実際ここまで来て作戦に疑問をさしはさんでもしかたがない。烈鬼の迷いもわからぬではないが、わずかではあっても、もっとも分の良い手に賭けるしかあるまい。しかも鎖冷鬼を倒したほどの手だれが相手なのだ。

「魔怒鬼について書かれた文献はそうたくさん残されていないのだけど、やはり総じて言えることは、ヤツは戦う相手を求めているということ。魔化魍であれ鬼であれ、ね」

 うーん、皆唸りながら花吹鬼の言葉に聞き入っている。

「はいはい皆さん、あんまり考えすぎてしまっては逆効果ですよ」

 場の雰囲気を敏感に察知した聖依子が、ぱちぱちと手を叩きながら明るい声をあげた。

「明日はいよいよ魔怒鬼に出会いそうな予感がします。今夜はしっかり態勢を整えてゆっくり休んでおきましょう」

 そう言うと聖依子はガスバーナーに乗っていたケトルを持ち上げ、皆のカップにコーヒーを注いで回った。

 

モオオオオオオオオオ!

 ヤマアラシが雄たけびをあげる。

ノオオオオオオオオン!

 オトロシが咆哮する。

ガシイイイン!

 2匹の巨大な魔化魍が正面から激突し、すさまじい衝撃が波となって四方の森を揺らせた。

 清らかな渓流も、体長10メートルほどもある大型魔化魍の死闘によって土砂が流れ込み、黄土色に濁っている。

 強固な甲羅を持つオトロシのほうが大きさ、重さともにヤマアラシより優っているのだが、こぶのように盛り上がった両肩の筋肉にバックアップされた極端な猪首と頑丈な角、何より2本足の軽快なフットワークで、戦いはヤマアラシの方に分があるようだ。

 しかし、魔化魍同士がここまで激しくぶつかり合うことは滅多にない。通常、やつらを育てている童子や姫が、互いに適度な距離をおいて移動させているからだ。

「わあああ、助けて!」

「何だ、おまえたちは?!」

 その答えは渓流を囲む岩場にあった。

 3人の男性ハイカーたちが2組の童子と姫に取り囲まれている。だが、どうやら2組の童子と姫も、互いにハイカーを狙っていがみあっているようだ。つまり2組の魔化魍一行は、餌の奪い合いをしているというわけだ。

かああああああああ!

ぎぎいいいいいいい!

 おぞましい化け物の姿になった4つの影が3人のハイカーに抱きついて引っ張ろうとしている。3人のうちのひとりは両腕を左右から引っ張られて悲鳴を上げている。頭上でぶつかり合うモンスターと自分たちに襲いかかる等身大のバケモノの関係はともかく、このままでは自分たちに助かる道はないと本能で悟ったハイカーたちは皆、それぞれに口を、まなこを、限界まで開いて絶叫し続けた。それが自らの命を長らえる唯一の方策であるといわんばかりに―――。

 しかし幸いなことに、その行為はあながち無駄ではなかった。

「ていやあああああ!」

 ハイカーの悲鳴を聞きつけて、森から飛びだしてきた影がよっつ。哀れな獲物たちを連れ去ろうとする童子と姫の腕を荒々しく振り払うと、鬼爪や爪先のブレードを一閃させた。

ドドーン!

 童子と姫の体が一斉に破裂して、白い体液の飛沫がハイカーたちにふりかかった。

 一瞬の早業であった。今の今までおぞましい魔化魍の餌にされようとしていたハイカー3人は、いきなり現われた鬼の姿を見てまたまた腰を抜かした。助けられたのか?それとも今度はこいつらに襲われるのか?

「わひっ?ひいいい!」

「ひゃああああああ」

「おた、おた、おたすけぇ」

 もう山には来ない。山には変な生き物ばかりいる。涙を流しながらつくづくそう思ったとき、鬼のひとりが声をかけてきた。

「怖い夢を見たわね。でももう大丈夫だから、早くお逃げなさい」

 若い女の声だ。

 やさしい声だ。

 もういちど人間の言葉が聞けるとは思っていなかった。ハイカーたちはうんうんうんうんとぜんまい仕掛けの人形のようにいつまでも頷きながら、流れに落とした荷物も忘れて一目散に駈け出した。

「よかった、間に会って」

 額からまっすぐな角が1本伸びた鬼がハイカーたちの背を見送りながら言った。青みがかったメタリックシルバーに光るボディは蒼鬼だ。

「いえいえ。本番はこれからですよ、蒼鬼さん」

 蒼鬼に並んだ鬼の額からそそり立つ三叉の角が、陽光を受けて黄金に輝いている。手首から先とブーツは、漆色のボディとは対照的で鮮やかな黄色だ。烈鬼である。

「だけど魔怒鬼の姿はないようね」

 深い緑色のボディを持つ鬼が身の丈よりも大きな岩にひょいと飛び乗って周囲をうかがっている。頭部には鋭い角が2本。マスクに浮かび上がる、羽を広げた蝶を思わせる優雅な赤いラインは燦鬼のお気に入りだ。

「まだわからないわ。この森のどこかで息を潜ませているのかも。とにかく目障りなあの2匹をかたづけましょう」

 前頭部から後頭部へ向けて優雅なカーブを描きながら伸びるブレード状の角をいただく4人目の鬼は、透けているのかと見紛う淡いさくら色のボディである。右手にさげている大きな電動音撃管が威圧的な黒い光を放っている。吉野直属の鬼、花吹鬼だ。

 皆、古代ギリシャの彫刻に見られるような美しく隆起した筋肉を全身にまとっている。

「よし、ゆこう!」

 蒼鬼の合図で4人の鬼は、山の豊かな木々をなぎ倒しながら戦う2匹の魔化魍めがけて跳んだ。

 

シュシュシュッ!

 ヤマアラシがいかつい体をわずかに震わせた。すると肩から背中にかけてはえていた無数の針がいっせいに前方へなびき、十数本の針が高速で飛来して蒼鬼と燦鬼の足元の地面にズブズブと突き刺さった。大人を縦に串刺しにできそうな、長くて太い針だ。

 蒼鬼は両手に小柄を1本ずつ持っている。柄の先端には小さな鈴がひもでつながれている。その小柄をヤマアラシに撃ち込んで動きを封じてやろうと狙っているのだが、4足の魔化魍に比べて体の回転が速く、なかなか針の死角にまわりこめない。大きく後方へジャンプすれば、今度はムチのような尻尾が襲ってくる。ヤマアラシの攻撃でもっとも注意をはらわなければならないのは、針よりもむしろこの尻尾なのだ。叩く、跳ねとばす、引き裂く、巻きつく、投げる。大きな図体に似合わず、ヤツはこの尻尾を自在に操って多彩な攻撃をしかけてくる。

「くそ、案外すばしこいやつだなあ」

「蒼鬼さんの小柄と私の鬼つぶて。左右から同時に攻撃しましょう」

「オッケー」

 蒼鬼と燦鬼は一度ヤマアラシの正面に並んで立つと、相手が針を打ち出す寸前、さっと左右に別れた。

 攻撃目標がいきなりふたてに分かれてしまい、ヤマアラシはうろたえた。

 わずかな隙を逃さず、蒼鬼が2本の足に小柄を打ち込み、短く呪文を唱えて鈴を鳴らしはじめた。致命傷を与えることはできないが、小さな鈴の音撃が、ヤマアラシの足を止める。足にダメージを受けたヘビー級ファイターに勝ち目はない。

反対側からは燦鬼が得意の吹き矢を構えてヤマアラシの脇腹を狙った。変身の際に燦鬼が用いる竹製の縦笛の中には、鬼石を精製して造られた円錐形のつぶてが仕込まれている。長距離からの後方支援にも有効な燦鬼の音撃笙は、その音色だけでも魔化魍にダメージを与えることができるのだが、このような重量級が相手の時にはこの鬼つぶて「拳菱」がものをいう。

 腹の底からフッ!と息を吐くと、拳菱は銃弾のごときスピードでヤマアラシの肉をえぐった。そこへ笙のみやびやかな音撃が襲いかかる。

ヴモオオオオオオオオ!

 痛みが怒りを増幅させ、瞳が真っ赤に燃えあがった。ぶるるんと上体を大きく震わせるや、大きな針を四方八方へやみくもに打ち放った。

「うぉっと危ない」

「この!結構しぶといわね」

 この個体はなかなかのファイターだ。しかし、体を動かすたびに足の鈴と脇腹のつぶてがヤマアラシの命を削り取ってゆく。

蒼鬼は一気に勝負に出た。腰の鞘から神刀魂魄を抜き、バックルの絶花をセットして構える。

「燦鬼さん、援護を頼む」

「まかせて」

 蒼鬼はヤマアラシの正面に躍り出ると、魂魄を脇に構えて赤い両目をめがけて走りだした。

モオオオオオオオオオオ!

 ヤマアラシの針が来る。体に当たる軌道で飛来する針だけを魂魄ではたき落とし、それ以外には目もくれず、蒼鬼は一気にヤマアラシとの距離をつめた。受けて立つヤマアラシも頭部のツノをふりかざして突進しようとするが、後方の燦鬼が奏でる笙の音がそれを許さない。見えない絡め手によってヤマアラシはその巨体を完全に封じられた。

ていやああああ!

 裂ぱくの気合とともに蒼鬼が跳んだ。

蒼鬼はひらりとヤマアラシの頭部に着地するや、黒く光るツノの間、眉間へ魂魄を深々と突き刺し、再び宙へ舞った。蝶のように舞い蜂のように刺す―――蒼鬼ならではの華麗なヒットアンドアウェイ戦法である。

「燦鬼さん、今だ!」

 空中で回転しながら背後の燦鬼に合図を送ると、待ってましたとばかりに燦鬼が前へ出た。ヤマアラシとの距離、わずかに数メートル!

 鬼の修業を極めた者の凄まじい肺活量が、燦鬼の音撃笙「乱舞」から必殺の音撃を繰り出させた。

ひょおおおおおおおおおおおおおおおおお。

 至近距離から流れる清らかな音色が、ヤマアラシの邪悪な肉体を崩壊させてゆく。さらに、眉間に刺さった魂魄の鈴「絶花」を鳴らし、先に蒼鬼が両足に撃ちこんだ小柄の鈴をも共鳴させて盛大に鳴らし続けている。

ヴォオオオオオオオン。

 ヤマアラシが悶えた。

りりりりりりりりりりりりりりりりりりり。

ひょおおおおおおおおおおおおおおおおお。

 ヤマアラシの凶悪な角が燦鬼の眼前に迫った。が、燦鬼は表情一つ変えず音撃笙を吹き続けている。昔からタイマン勝負で後ろに引いたことなど、一度もない。ヤマアラシは、目の前の忌々しい鬼を角で弾き飛ばそうと頭を下げた。しかし、その頭が上がらない。なぜだ?誰だ?頭をひとふりすれば勝てるのに。どうして…?

 ヤマアラシの赤い眼がぐるりと反転して白眼に変わった。針を撃ち尽くした哀れな巨体がぐらりと傾いてズズーンと倒れた。

「ふん、魔化魍め」

 ヤマアラシは、巻き上がる砂塵の中で口から白い液を吐いて絶命していた。燦鬼は眉間の魂魄を無造作に抜き取ると蒼鬼に手渡した。

 大音響とともにヤマアラシの巨体が炸裂して消滅したのは、ふたりの姿が森の奥に消えた数秒後であった。

 

「逃げた!」

 烈鬼が叫んだ。

「追って!」

 花吹鬼が応えた。

 オトロシは2人の鬼の姿を認めるや、一目散に逃げた。頭部に鋭いツノをいただき、全身を固い甲羅で守られている。全体の印象はサイを思わせる魔化魍だが、こいつはカメのように四肢を体の中へ引き込ませることができる。しかもその穴から猛烈な黒煙をジェットのように噴出させて宙に舞うのだ。

「あいつ、飛ぶのか」

 特殊4輪バギー「牙神」のエンジンを始動させている間も、オトロシは地上十数メートルほどの高度を維持して遠ざかってゆく。大型トレーラーほどもある巨体が空中を浮遊しているさまは、たちの悪い冗談か、寝苦しい夜の悪夢のようだ。

 四国の鬼たちがオトロシを見るのは今回が初めてだ。本来なら滝に連絡して詳しい情報を入手してから行動をおこすべきところだが、今回の真の目的は魔怒鬼である。悠長なことはしていられないのだ。それに、古文書に精通する花吹鬼の知識が大いに助けとなった。

「飛行速度はたいしたことないはずよ。あなたのバギーで追跡できるわ。急いで!」

 花吹鬼は走り出した牙神に飛び乗ると、烈鬼の背にしがみついた。

ノオオオオオオオオオ。

 オトロシは強力な噴射で木々をへし折りながら逃げた。

 牙神は木立を縫って遮二無二走った。

「花吹鬼さん、振り落とされないようしっかりつかまっててください」

 木の根が張り出すでこぼこの悪路を前に、烈鬼はアクセルを目いっぱい開いた。

グゥウオオン!

 牙神も闘争心むき出しで咆哮した。本来はひとり乗りなのだが、今日は小さいシートにもうひとり花吹鬼がしがみついている。

―――ちくしょうめ、重量オーバーだぜ!

思うように走れない苛立ちがエンジン音にあらわれている。

「もうちょっと前へ寄ってよ」

「わっ花吹鬼さん、そんなとこ押さないで」

 シングルシートの上でおしりの陣取り合戦を演じながらも、烈鬼と花吹鬼は10時の方向にしっかりとオトロシの姿を捉えていた。

「まわりこめる?」

「やってみます」

 烈鬼は左手の木々の向こうに小さなせせらぎを見つけた。おそらくさきほど童子と姫を倒した渓流へ流れ込んでいるのだろう。幅は4〜50センチほどであろうか。川底は砂利だが、牙神の車幅なら左右のタイヤは流れの両岸の草の上を走ることができる。今走っている路面の状況に比べたら、高速道路ほど走りやすいにちがいあるまい。烈鬼は思い切りよく牙神のハンドルを切った。

 案の定、牙神は格段に安定し、スピードをあげた。ほどなくふたりは、オトロシの頭部が見られる位置にまで追いついた。

「このまま安定させて!」

 背後の花吹鬼はそう言うと烈鬼の体から手を離して立ち上がった。

 ジャキッ!と電動音撃管羅電を両腕でホールドするとトリガーを引き絞った。

ドゥルルルルルルルルルルルルルルー。

 発射音よりも、電動で銃身を回転させるモーター音が烈鬼の耳を叩いた。一定の間隔をおいて射出される曳光弾がオトロシの腹部とジェット射出口に次々と着弾してゆく。

ノノオオオオオオオオオオオオ。

 オトロシが啼いた。上からの攻撃には守りが堅い分、こうした下からの攻撃には比較的もろいのかもしれぬ。しかも、大量に着弾している右後方のジェット射出口のようすがおかしい。鬼石のダメージで、まるでふけの悪いエンジンのようにジェット噴射がとぎれとぎれになってきた。

「花吹鬼さん、射出口を狙って!」

 巧みにハンドルをさばいてバランスを取りながら、烈鬼が叫んだ。

ドゥルルルルルルルルルルル!

 猛烈な勢いで羅電が鬼石をばら撒いてゆく。ベルトのパウチに大きなバッテリーパックをさげ、太いコードで繋がれた羅電を撃ち続けるだけでも常人には至難の業だ。花吹鬼はそれを、4輪バギーの揺れる後部席で両手を離し、立ちあがったまま行っているのだ。もの凄い腕力とバランス感覚である。

 オトロシの巨体が徐々に降下しはじめた。

そびえたつ木々の上を飛び越せず、バキバキと枝をへし折りながら、あきらかに墜落しかけている。

「よしっ!効いたみたいね」

 花吹鬼は羅電の射撃をいったんやめ、シートに座りなおした。

 左前方の木々が大きく揺れ、ズズウゥゥンという土煙りがあがった。

「今度はあなたの番よ。至近距離からとどめをさして」

「了解ッス」

 牙神はオトロシの墜落現場へ急行した。

 オトロシは左半身を土砂に埋めてもがいていた。牙神を停めて観察してみると、硬い甲羅のあちらこちらに無数の切り傷や刺し傷がある。また、この魔化魍は固い甲羅のような背に一対の目を持っているのだが、その片方がつぶされていた。

「こいつ、ヤマアラシにかなりやられていたんだ」

「なるほど。それですっかり戦意喪失していたってわけね。私たちを見るなり逃げ出したのもうなずけるわ」

「見たところ、一番ひどくやられているのは肩にある目ですね」

「弱点かもしれないわね。渦潮でもう片方の目を狙ってみて」

 無言で頷くと、烈鬼は愛用の音撃管を牙神に取り付けた革製のホルスターからすらりと抜いた。旧式のトロンボーンタイプだが、通常のトロンボーンタイプよりもはるかに長い銃身を持ち、その破壊力と命中精度は群を抜いている。

ドウン!

 下っぱらに響く銃声とともに、大口径の鬼石は狙いたがわずオトロシのもう一方の目を周囲の体表ごと破壊した。

ノオオオオオオオオオオオオオオ!

 それはオトロシの断末魔だった。

 それぞれベルトのバックルから音撃鳴をはずして音撃管に装着し、二人同時に清めの音撃を放った。

ドオオオオオオオオン!

 まるで悪趣味なマジックを見せられているかのように、オトロシの巨体は風に舞う木の葉のように千千に砕けて消えた。

音撃

(八)踊る魔怒鬼

「かたづいたようだね」

「お疲れ様」

 ひと仕事終えた鬼たちはふたたび集合し、首尾を確認しあった。

「それにしても魔化魍同士がいがみあうなんて、滅多にあることじゃないのに」

 燦鬼の疑問はもっともである。魔化魍同士というより、童子と姫までもがハイカーを奪い合っていた。そもそも食欲旺盛な魔化魍同士が鉢合わせせぬよう互いのテリトリーを守って暮らすのも、親代わりの童子たちの役目であるというのに。

「だけど、結局魔怒鬼とは何の関わりも…」

「シッ!」

 烈鬼の話を蒼鬼が鋭く遮った。他の3人もその意味するところにすぐ気がついた。

 ただならぬ気配である。

「何?何なの、これ?」

「山が…山全体が…」

「魔化魍の気配で満ちているわ」

 4人の背筋を、冷たく不気味な気配がゾワゾワと這いあがった。

 その時、山が一斉に鳴いた。

にやおおおおおおおおう―――

 その声は鬼たちの前後左右からわきあがった。

にゃにゃにゃにゃあああ。

ごろごろごろごろごろぐううううううううう。

ぎゃっぎゃっ。

 はるか遠くの山々からこだまして帰ってくる声もある。そこいらじゅうから湧き立つ声…まるで、自分の頭の中で鳴いているかのような錯覚にすら陥る。

「これは…バケネコ!」

「ええ。でもこの気配、一体何匹いるのよ?」

「完全に囲まれている」

「と言うより、バケネコの群れの中に紛れこんだってかんじだな」

 山がうごめいている。木々が、草花が、まるで見悶えするかのようにごそごそと動いている。そこも、そこも、そこも。

「みんな、例のサマーセットを」

 この中で夏の魔化魍に対抗できるのは、蒼鬼の神刀魂魄だけである。燦鬼の合図で、烈鬼と花吹鬼もそれぞれ腰のパウチから音撃棒を抜き出した。阿波の青石を加工精製した、独特の縞模様が浮き上がる青い鬼石をいただいている。かつて音撃鼓の使い手であった支部長の滝が、自ら考案し試作を重ねて作り出した品である。

 各自、手にしていた愛用の得物をひとところに集めて隠し、ベルトのバックルを音撃鼓につけ替える。

その間も、唸り声は次第に距離をつめてくる。草木のうねりも、こちらへこちらへと波のように寄せてくる。

「来るわ」

「落ち着け」

 先頭のバケネコの凶悪な顔が草むらからひょっこり現れたのが合図となった。

 おびただしい数のバケネコが、一斉に周囲の草木の陰から躍り出た。

ぎにゃあああああああああ!

 百匹は優に超えている。迎え撃つ鬼は4人!無言で構える鬼たちの全身から闘気がオーラとなって立ち昇った。

「師匠直伝の音撃鼓“銀河連星の型”、とくと見せてあげるわ」

ドドンドドドンドドドドドン!

 燦鬼は体を回転させて相手の攻撃をかわしながら、その回転を使って音撃棒による連続打を撃ち込んでゆく。

『大勢を相手に劣勢の時は、決して足を止めてはいけない。たとえ音撃鼓を叩いている間でも、片方の足を軸にしてできる限り回転しつづけなさい』

滝から教えられた心得である。

ドドンドドドンドドドドドン!

 10発ほどの連打でバケネコは天を仰いで爆死した。仮に全部で120匹として、単純に考えてひとり30匹。確かにちょっとしんどい戦いではある。

烈鬼と花吹鬼はさすがに吉野で修行しただけあって、音撃鼓の扱いにも習熟しているようだ。燦鬼とは型が異なるが、鬼石の青が扇のように1本のラインとなって見えるほどの高速撃ちだ。

おりゃああ!

ええい!

ドンドドンドドドンドドドン!

ぎゃああああん!

にゃああああおおおお!

 太鼓の音とバケネコの叫び声。遠くの山から聞く者がいたなら、祭りでもやっているのかと思うだろう。

 燦鬼と花吹鬼が互いの背を合わせて構えた。

「やるじゃないの。さすがは吉野直伝」

「あなたこそ。喧嘩慣れしているって感じ」

「それ、褒めているのかしら?」

「もちろんよ」

 ふたりの頭上に数匹のバケネコが躍りかかってきた。ふたりの鬼は左右に分かれると、振り向きざま音撃鼓をバケネコの背に押し付け、一気に清めの音を叩きつけた。

ギニャー!

ドドーン!

蒼鬼はひとり刃をふるっていた。神刀魂魄である。刃渡り1尺ほどの短刀だが、蒼鬼が使えば恐るべき威力を発揮する。巨木であろうと岩であろうと、深々と刺し貫くことも叶う。蒼鬼の気力霊力に呼応して、本来の刃が持つ以上の切れ味を見せるのだ。それこそが魂魄が神刀と呼ばれる所以であろう。

今も蒼鬼は、バケネコを切っているというよりは、その刃で撫でているようにしか見えない。軽やかにバケネコの群れの間を舞っているようだ。豊年を願う農民たちの奉納の舞いを思わせる。しかし、その刃が走った後には、真一文字に深手を負ったバケネコどもの死骸が累々と横たわっている。

それでもバケネコの牙と爪は、少しずつ少しずつ鬼たちの体に恨みの赤い筋を残していた。ひと筋やふた筋なら鬼の力で傷口を塞いでしまえるのだが、いかんせん数が多い。

特に、1匹倒すのに10発もの音撃を叩き込まねばならぬ烈鬼たち3人は、かなり辛い戦いを強いられていた。

ぎにゃおおおお!

「ぐわっ」

 音撃を叩き込んでいた烈鬼の首筋にバケネコの牙が食い込んだ。

 がくりと膝をついた烈鬼に数匹のバケネコが飛びかかってゆく。

シュッ!

 いく筋かの銀光が奔り、蒼鬼の小柄が烈鬼を取り囲むバケネコの体に刺さった。傷を負ったバケネコたちは、悲鳴をあげて草むらへ逃げ込んでゆく。

「烈鬼くん!」

 蒼鬼に肩を抱かれ、烈鬼は震える足で立ち上がった。

「すみません蒼鬼さん。大丈夫です」

「ヤマアラシとオトロシが戦っていたわけが、ようやくわかったよ」

 魂魄を正眼に構えたまま蒼鬼が言った。

「僕もわかりました。あいつらバケネコに餌を食い尽されていたんですね」

 烈鬼は息が切れかけている。

「ああ。こんなにいたんじゃ無理もない。おそらく魔化魍にとっても予想外の異常繁殖なのだろう」

「なんにしても、これじゃあ退治する前にこっちが餌にされちまう」

 烈鬼の首からは鮮血が噴き出し、大きく上下する肩を濡らしている。

―――いかんな。

 蒼鬼は烈鬼のようすを観察した。出血が多く、思うように傷口が塞がっていない。音撃鼓は、気力体力ともに充実していなければ本来の威力を発揮することは難しいものである。この状況で戦闘能力が低下すれば、即、死を招く。

 それでも烈鬼は必死に呼吸を整え、自らの戦意を高揚させようと努めている。

「弱音を吐いちゃダメだ、烈鬼くん。とにかく叩きまくれ」

「はい!今年最後の太鼓祭りですからね!」

 気丈にそう言い残し、烈鬼は蒼鬼のもとを離れていった。みるみる周囲はバケネコだらけになったが、烈鬼は必死に音撃棒をふるって反撃を開始した。かなり倒したはずが、まだ4分の1程度にすぎない。確かに庇い庇われている場合ではない。

蒼鬼は、腰のシースから鈴をつないだ8本の小柄を抜き、左右の指の間に4本ずつ挟んで一気に天空めがけて投げあげた。

中空に放り投げられた8本の小柄は、申し合わせていたかのように8方向へ均等に分かれて散開し、まるで見えないドームで戦場を包み込むかのようなラインを描いて地面に突き刺さった。

 その手ごたえを空気で察した蒼鬼は、魂魄を両手で捧げるように眼前でいただき、指を複雑に絡み合わせ、印を結んで目を閉じた。

 動かなくなった標的に、バケネコは遠慮なく攻撃をしかけてきたが、我が身が切り裂かれ血しぶきをあげても、蒼鬼は微動だにせずひたすら意識を印に集中させていた。眼をうすく開いて己が鼻先を意識し、その先に印を意識する。息をゆっくり吸う。ゆっくり、ゆっくりと肺活量の限界まで息を肺にためてまたゆっくりと吐く。吐くというよりは自然に流れ出るというイメージだ。心拍数が落ち、全身に受けた傷の痛みが遠のいてゆく。ほどなくして蒼鬼は何かの呪文を唱えはじめた。口元まで耳を寄せなければ聞き取れぬほど低く小さな声なのだが、それは、戦いの喧噪の中でも決してかき消されることなくどこまでも流れてゆき、八方に飛び散った小柄にまで達した。

と、その柄につながれた小さな鈴が、見えない指でつまみあげられたかのようにひょいと宙に浮いたではないか。地面と水平に持ち上がった小鈴は、己の身を懸命に震わせてころころと可愛らしい音を流し始めた。

ささやかな鈴の音は静かに、そして少しずつ遠くへと流れ、互いに繋がりあって、やがて大きな真円の結界を作り上げた。上空から見れば、鬼とバケネコの群れを包み込むように、大地から鈴の形をした光がボウッと浮き上がっているのが見えたはずである。だが誰も気づきはしない。ひとり、その結界をしかけた蒼鬼以外は―――。

バケネコたちの動きが徐々に鈍くなった。上下左右にジャンプして変幻自在の攻撃を繰り出していた魔化魍たちは、まるでハイスピードカメラで撮影された銃弾のようにゆっくりとした動きになった。

「ねえ、これどうなってんの?」

 燦鬼が空中からゆっくりと「飛びかかるように」降下してくるバケネコに音撃を叩き込みながら叫んだ。空中のバケネコは炸裂して果てる時だけはもとのスピードに戻る。鬼にとっては実に都合の良い状況だ。

「はっ」

 驚いて足元を見た花吹鬼は、そこにまぎれもない音撃鈴による結界の光を認めた。慌てて周囲を見回すと、思ったとおりの状況がすぐに確認できた。

「蒼鬼さん!」

 彼女から数十メートル離れた場所で、魂魄を眼前にささげ持ったまま直立している蒼鬼は、スローモーションとはいえバケネコの集中攻撃を受けていた。

「みんな、来て!早く!」

 あえぐように蒼鬼のもとへ駆けつけると、音撃棒を握ったままの拳と爪先で、群がるバケネコどもを容赦なく殴り飛ばし、蹴り飛ばした。

「蒼鬼さん、大丈夫?まったくなんて無茶を!」

 自分は一切の攻撃を止め、バケネコの動きを封じて仲間たち3人の負担を和らげることに専念したのだ。しかしその代償がこの深手である。花吹鬼の手のひらにはべったりと蒼鬼の鮮血が付着した。しかしそれでも蒼鬼は音撃鈴による結界の発動をやめようとはしない。そこに花吹鬼がいることすら気づいていないようだ。

「蒼鬼さん、まさか結界を?」

 花吹鬼の叫び声を聞きつけて、すぐに燦鬼と烈鬼もスローモーションのバケネコを跳ね飛ばしながらやってきた。

「すみません蒼鬼さん。俺、叩くのに夢中になりすぎて・・・」

 最も多く傷を受けている烈鬼は、これは自分の責任だと感じた。

「蒼鬼さんを囲んで戦いましょう」

「はい。ここからは蒼鬼さんに指一本触れさせはしませんよ」

 戦いが始まってかれこれ40分が経過しようとしていた。バケネコの群れは当初の半分近くの規模に減っていた。しかしそれでも…。

「まだ5〜60匹はいるわね」

 花吹鬼が呻いた。

「あらら、逃げてもいいのよ。無理しないで」

「ご冗談を」

 実力も容姿も、互いに認めていればこそ絶対に負けたくはない。燦鬼の嫌味に、花吹鬼は再び闘志をみなぎらせた。

 

「あらあら、すごいことになっているわね」

 鬼とバケネコの壮絶な戦いが続く山中に、場違いな浴衣がけの女が姿を現した。白地にピンクの朝顔柄の浴衣は、夏まつりにでも出かけるのかという風情である。

謎の女―――。そして背後には無言で立つ謎の男の姿があった。やはり、渋い藍色の綿紅梅の浴衣を粋に着こなしている。

「四国の鬼、やるものね。それにしてもこのバケネコはどういうことなの?」

 眉間にしわを寄せて男を振り返る。男の方も困った表情で頭をかいた。

「ん〜、わからん。何かの手違いとしか…」

 バケネコの異常発生は、蒼鬼の見立て通り彼らにとっても予想外のできごとであったようだ。

「あら、これ可愛い」

 女が足もとの地面に刺さった小柄を見て歓声をあげた。こんな声などはごく普通の若い女性となんら変わらぬのだが、彼らは人間とは全く異なる闇に潜む者どもなのだ。

 女はかがみこんで、ころころと鳴り続ける小さな鈴を取ろうとした。

「あっ、よせ!」

 男の制止は間に合わなかった。女の白い指が鈴に触れた途端、バチッとまばゆい火花が散った。

「ぎゃっ!」

 女は指を押さえて悲鳴をあげた。

「痛い。痛いよお」

 大声で泣きながら、指先を押さえてぴょんぴょん跳ね回っている。

「バカだなあ。それは鬼の呪がこもった音撃の鈴だ。放っておけばよいものを、何でもむやみに手を出すからそうなる」

 男の方はほとほと困ったような顔で、女がそこいらを走り回るさまを見ている。

「しかしまあ、こんなものがあっては興ざめには違いないか」

 男はため息をつくと、蒼鬼と同じような印を結ぶとボソボソとなにやら呟いた。すると、地面と水平に持ち上がっていた小鈴が急にがくりと首を垂れるように真下へ落ちた。

―――さあ、これでハンディなしだ。思いっきり暴れてみせろ。

ぎゃあああああああん。

にゃにゃああああああ。

「うわっ?」

 スローモーションで動いていたバケネコが不意にもとのスピードを取り戻した。余裕で音撃鼓を取り付け、音撃棒で次々と清めの音を撃ちこんで倒していた鬼たちは、面食らって蒼鬼を見た。

「蒼鬼さんの結界が破られた?まさかそんな!」

 結界の維持に全神経を集中させていた蒼鬼も、驚いたような面持ちである方向を見ている。

「みんな気をつけろ。バケネコ以外にも敵がいるぞ」

「もしかして、魔怒鬼?」

「わからない。けれど、僕の結界の一角を崩したやつがいることは間違いない」

 呪術を行うことによって一種のトランス状態であった精神をもとに戻すには、それなりの手順を必要とする。外部からの干渉によって強引に術を破られた場合、術者が被るメンタルなダメージは決して軽いものではない。蒼鬼はぼんやりする頭を何度もふりながら、再び魂魄をふるって間近に迫るバケネコを斬ってすてた。

―――何者が結界を?

 しかし考えている暇などない。まだまだ何十匹ものバケネコに取り囲まれているのだ。しかももう一度結界を張りなおす力は今の蒼鬼には残っていない。

「止まるな。闘え!」

 それは自分自身を奮い立たせるための言葉でもあった。

―――その時。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

 連なる山々が瞬時にすくみあがるような遠吠えがあがった。

 野生動物の遠吠えなどではない。ましてや人間のものでもない。あれは魔化魍の叫び声だ。しかしこのような凄まじい殺気をはらんだ遠吠えは、ベテランの蒼鬼も聞いたことがなかった。

驚いたことに、同じ魔化魍であるバケネコどものようすがおかしい。耳をピンと立て、首をすくめて山々をこだまする謎の叫び声を聞いている。その凶悪な面相にうかんでいるのはまぎれもなく「恐怖」である。

「どうしてこいつらまでが怯えているの?」

 燦鬼もバケネコどもの異変に気づいていた。もはやバケネコどもは目の前の鬼を攻撃することさえ忘れてしまっている。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

 遠吠えはまだ続いている。息の続く限り長く長く、そして何度も何度もその叫び声は発せられた。まるで天に何かを訴えているかのようだ。

「来るわ…」

花吹鬼がぽつりと呟いた。

「え?」

「来るのよ…」

 彼女もまたバケネコと同じように周囲の木々のむこうへ目を凝らしはじめた。

「来るって…まさか、魔怒鬼が?」

 烈鬼が身を低くして音撃棒を構えた。無意識のうちに防御態勢をとっている。

「落ち着いて!やつが来るとしたら…」

 蒼鬼はふたたび意識を結界に集中させた。彼の結界の一角が破られた場所は―――。

「あっちだ!」

 蒼鬼が指さす方角を3人の鬼も見た。同時に、その方向の木々の間から黒い影が飛び出した。

ぐおおおああああ!

 蒼鬼たちよりも大柄なグレーの体躯が軽々とバケネコのはるか頭上を飛び跳ねてゆく。

「なんだ?」

ぎにゃああああ!

 そいつは、バケネコどもの頭頂部や肩を強く踏みつけたり蹴りとばしたりしながら木々の間を飛び跳ね続けた。重い蹴りに、首があらぬ方向へ曲がったまま右往左往しているバケネコもいる。

ドシィン!

 地響きとともにそいつが地面に降り立った。周囲の木々から、まだしばらくの間は枝に繋がれていたであろうはずの木の実や葉が、思いもかけぬ衝撃を受けてはらはら、ばらばらと落下してきた。

 4人の鬼と大勢のバケネコは、しばし戦うことも忘れて、戦場のど真ん中に割り込んできた闖入者をまじまじと見た。

 身の丈は2メートル50センチを超えている。鬼の中でもこれほどの巨漢はいまい。体内に鎧を埋め込んでいるかのような分厚い胸板の上には、天女がまとう羽衣のごとき金属製のプロテクタがさらに鉄壁の防御を誇示している。ミサイルの直撃でさえも凌ぐのではなかろうかと思える堅固さである。

 天を威嚇するねじくれたドリルのごとき1本角と、苦悶の表情をあらわす朱色の隈取。全身は灰をかぶったかのような薄墨色だが、濃い墨が幾筋も流れ落ちているような迷彩模様をなしている。まぎれもなく、かつて屋島の磯で鎖冷鬼と戦った魔怒鬼である。

 魔怒鬼は突然烈鬼に襲いかかると、ブゥンと風を切るような凄まじいラリアットを烈鬼の胸に叩き込んだ。

「がはっ。ぐうう」

 肺の中の空気が一瞬で絞り出され、烈鬼は悶絶しながら数メートルも後方の藪の中へ吹っ飛んだ。

 魔怒鬼は烈鬼の手を離れた音撃棒を拾い上げると、グリップの感触を確かめるように2、3度握りなおした。良さそうだ。

 にわかに魔怒鬼の全身からブワッと猛烈な闘気が発散された。しかし、バケネコどもはこの闘気の凄まじさに気づいていない。まだまだ何十匹もで徒党を組んでいることで強気になっているのか、それともただ馬鹿なのか?相手が誰であろうと、自分たち以外の種であらば襲いかかって食らうのみ。一斉に歯をむき、体毛を逆立てて、無粋な灰色鬼めがけて躍りかかった。

殴り飛ばされた烈鬼のもとに駆け寄っていた3人の鬼たちは、藪の中から息をひそめてこれから始まる狩りのようすを見守っていた。

魔化魍同士が戦っている間は手を出さず、静観していようと腹を決めたのだが、恐らく最後に生き残っているのは魔怒鬼であろう。しかも、このバケネコどもがいったいどれほどのダメージを魔怒鬼に残してくれるものなのか甚だ疑問である。

「俺、なんだかバケネコを応援したくなってきましたよ」

 痛む胸をさすりながら烈鬼が呟いた。

「私もよ。さ、みんな今のうちに自分たちの武器を用意しておきましょう。たぶんサマーセットの出番はもう終わったわ」

 花吹鬼に促されて、鬼たちはそれぞれの得物を置いてある場所へと一旦退却した。

 まもなく魔怒鬼の殺戮ショーが始まった。烈鬼から奪った音撃棒を両手に持ち、柄も折れよとばかりに次々とバケネコの胸板を撃ち抜いてゆく。打たれた場所に黒く巨大な太鼓の紋様が浮かび上がり、打撃のエネルギーを音撃に変換する。

あまりに強力な音撃の波は、バケネコ1匹の体内にとどまり切れず体を突き抜けた。貫通した音撃はそのまま真っすぐ奔り、さらに背後のバケネコを打ち倒す。

ギャッ!ギャン!ギョア!ギェエ!ギャオ!

一撃で数匹のバケネコが断末魔とともに砕け散った。

 興が乗ってきたのか、魔怒鬼は踊りはじめた。攻撃しているのだが、踊っているように見えるのだ。楽しげである。戦っている時だけは、胸の中にどす黒く渦巻くもやが晴れる。今こそ至福。今この時のために我は在るのだ。魔怒鬼の苦悶の表情の隈取も、心なしか笑っているように見えた。

どんどどんどんどどどんどどどん。

 ふたたび祭り太鼓の音が山々にこだまし始めた。そして魔怒鬼はバケネコの群れを打ち倒す。こうべを振り、足をあげ、激しく舞いながら打つその姿は、有名な佐渡のオンデコにどこか似ている。豊かな山海の幸を願い、家内安全を願う奉納の太鼓は、魔を祓う強力な善鬼によって激しく打ち鳴らされる。しかし今四国の山中で繰り広げられている邪悪な戦いは、より強い魔が他の魔を撃ち滅ぼさんとする、救いの無いいくさなのである。

ドウン!

 さらなる気持ちの昂ぶりに、魔怒鬼の舞いはさらに激しくさらに早く荒々しくなってゆく。打ち込まれる音撃の破壊力も、一段とアップしてきたようだ。

やがて魔怒鬼は地面を叩きはじめた。まるで自らが巨大な太鼓の上に乗っているかのように、己が足もとを嬉々として打ちすえる。すると足もとの地面から黒い光がたちはじめ、次第に太鼓の紋様を形成してゆくではないか。浮かび出た光の太鼓は、徐々にその直径を伸ばしてゆき、やがて戦いの山野すべてを網羅していった。それは先刻蒼鬼が張った捨て身の結界の規模を凌駕している。

バケネコは一気にその数を減らし、残りの数はわずか20匹足らずである。勝負は既に決しており、もはや全滅までは時間の問題だ。ここに至ってバケネコどももようやく形勢不利と悟ったか、魔怒鬼に背を向けてさっさと逃走する個体も現れた。

だが、時すでに遅し。何物をも逃さぬ悪魔の網となった巨大な黒い太鼓は、向かってくる個体も逃げ去る個体も関わりなく、すべてに等しく音撃を打ちこんだ。魔怒鬼の音撃の舞いは、今まさにクライマックスを迎えていたのだ。

どどどどどどどどどどどどどどどどどどど!

 激しく上下する青い鬼石を、肉眼で追い切れないほどの速さだ。

 太鼓の紋様を描く黒い光が一瞬暴発したかのようにきらめいて、水脈を貫いた井戸のように地面から噴出した。

にゃあご…。

 地面から湧き上がる光に包まれた残りのバケネコどもの肉体は、まるで突風にさらされた藁の家のように粉々になってすべて消滅した。

ひょおおおおお。

 それは山をわたる風の音なのだろうか?それとも魔怒鬼の歓喜の声なのか?祭り太鼓は突如鳴りやみ、山野は静寂に包まれた。それはいつもどおりの静寂なのだが、たった今まで繰り広げられていたけたたましい死闘の直後だけに、この世の終わりかと錯覚しそうなほど寂しい静けさであった。

 戦いは終わったのだ。そこにはただひとり魔怒鬼が立っていた。放心したように両手をぶらんと落している。苦悶の表情の隈取は、道に迷って泣いている子供を思わせる。拠り所を失った迷子だ。

 しかし、ほどなく魔怒鬼の全身から、再びふつふつと闘気が湯気のように立ち昇りはじめた。

 彼には次なる戦いが用意されていたのだ。

―――戦う。まだまだ戦うぞ!

 歓喜のオーラをまとって振り返った魔怒鬼の前に、4人の鬼が立っていた。

 蒼鬼、燦鬼、烈鬼そして花吹鬼である。

 皆それぞれに得意の武器を持っている。が、魔怒鬼に音撃は通用しない。正義の鬼の力は、同種の力を持つ最強最悪の魔化魍に通じるのだろうか。

「やつ、なんだか嬉しそうですね」

「戦えることが嬉しいのさ」

「もしかして、私たちのことデザートか何かだと思ってない?」

「バケネコのほうがオードブルで、これからメインディッシュだって教えてあげなきゃね」

「だけど、食うのは僕たちだ」

「もちろん」

 4人の鬼はひゅっと短く息をはくと、眼前の敵めがけて駆け出した。

 同時に魔怒鬼も走りだす。

「ええええい!」

 一番乗りの燦鬼が2本の音撃棒を魔怒鬼の脇腹めがけて打ち込んだ。笙では戦えぬため「乱舞」は置いてきた。音撃棒での戦いは慣れていないが、なあに、昔は鉄パイプやら角材を振り回してよく喧嘩していたものである。

ガシィ!

 鈍い音がして2対4本の音撃棒がぶつかりあう。人と人のように見えはするが、激突のエネルギーは大型トラックのそれに匹敵する。

燦鬼はすかさず魔怒鬼の顔面へ容赦ない頭突きを打ち込んだ。しかし、ううっと呻いてよろめいたのは当の燦鬼であった。まるで鉄の塊に頭突きしたようだ。

―――なんて硬いの。

ドルルルルルルルルルル!

 燦鬼と組み合っている魔怒鬼の背後から、花吹鬼の羅電がフルオートで鬼石を発射した。

 全弾を背中に浴びた魔怒鬼はゴオ!と天にむかって吠えると、倒れるどころか、打ち込んできた燦鬼の音撃棒を腕力で押し返した。

「効いていない?」

 鬼石そのものの効力は通じないにしても、背中を穴だらけにされてなお戦闘を続行している魔怒鬼を、花吹鬼は初めて恐ろしいと感じた。

 背中の銃創が焼けるようだ。激痛は脳天まで突きぬけ、視界まで赤く染まっている。それでも魔怒鬼は、戦いをやめるつもりなどなかった。楽しくてしかたがないのだから。

岩の塊のごとき拳を燦鬼の鳩尾にブチ当て、神刀魂魄の一太刀を浴びせんと迫る蒼鬼の胸板には、カウンターの横蹴りを叩き込んだ。

「ぐうっ!」

 蒼鬼は後方へ転がり、燦鬼の体は拳に突き上げられた衝撃で1メートル以上浮き上がった。さらに魔怒鬼は、空中の燦鬼の頭部へ拳を見舞った。豪快なハンマーパンチは見事にこめかみにヒットし、燦鬼は仰向けにひっくりかえった。常人なら頭蓋骨が原形をとどめてはいまい。恐るべき鬼のパワーみなぎる燦鬼といえども、脳に凄まじい衝撃を受けて意識を失った。

 倒れた燦鬼の顔面を踏みつけようと魔怒鬼が右足を持ち上げた時、銀色の光が走った。蒼鬼の小柄である。

カカカッ。

 乾いた音をたてて、魔怒鬼の音撃棒の柄に、飛来した3本の小柄が並んで突き刺さった。意識を回復させた燦鬼が、素早く体を回転させて魔怒鬼から距離を取り、入れ替わりに魂魄を構えた蒼鬼が再び飛び込んでくる。

シュッ!

真横にはらった魂魄の切っ先が、上体を反ってかわした魔怒鬼の胸部プロテクタをスッパリと切り裂いた。思わず後退する魔怒鬼を追ってさらに間合いをつめながら、蒼鬼は間髪を入れず二の太刀、三の太刀を繰り出して魔怒鬼の分厚い鎧のごとき大胸筋に赤い刻印を幾筋も刻みこんだ。

痛みは怒りとなって魔怒鬼の全身を震わせる。

魔怒鬼は左右の音撃棒を蒼鬼の眉間へと振りおろしたが、蒼鬼はそれらを魂魄の刃ではじきとばした。2本の音撃棒は柄の中ほどからスッパリと切断され、2個の鬼石は、まるではねられた人形の首のように地面に転がった。

魂魄によって刻まれた魔怒鬼の胸の赤い十字の印を、後方から烈鬼の渦潮が狙っていた。魔怒鬼の素早い動きにあわせて小刻みに銃口の向きを移動させていた烈鬼が、わずかなチャンスを捉えて引き金を絞った。

ドゥン!

背後の銃声と同時に蒼鬼が地面に体を伏せ、その頭上を必殺の大口径鬼石が空気の渦をひいて飛ぶ。

ぐるおおお!

 驚いたことに、魔怒鬼は飛来する渦潮のスラッグショットを拳で叩き落そうとした。弾速が遅いとはいえ、銃弾を素手で叩くなどという芸当がうまくゆくとは思えなかった。が、魔怒鬼の拳は確かに銃弾を捉えた。だが―――。

ガシイイイン!

魔怒鬼の体がぐらりと揺らいだ。頭部はだらりと後方に傾いで首の上に力なく乗っている。

「角が!」

 その頭頂部で誇らしげにそびえていたドリルのような角が根元からへし折れて無くなっているではないか。

 魔怒鬼が叩いた渦潮の弾丸は、地面へ叩き落されずに斜め上方へ弾かれて角に命中したのだ。着弾の衝撃は魔怒鬼の脳を直撃し、激しく揺らせた。

「烈鬼くん、もう一度撃て!」

 蒼鬼の叫びに応じて、烈鬼が再び引き金を引絞った。

ドゥン!

ぐああああああ!

今度こそ渦潮のスラッグショットは魔怒鬼の胸の傷に命中し、炸裂した。

胸の中央にできた大きな銃創から、白煙がゆらゆらと立ち昇っている。

「やったか!?」

「―――いえ、倒れないわ!」

 花吹鬼の声は悲鳴に似ていた。

 魔怒鬼は両の拳を固く握りしめて全身に力をこめ、足を踏んばってこらえている。むしろ、必殺の思いをこめて狙撃した烈鬼の表情に動揺の色がうかんだ。

 それでも、大口径の銃弾は魔怒鬼の足元をふらつかせていた。後方へ2、3歩よろよろと後退した魔怒鬼の懐に、低い体勢で飛び込んだ花吹鬼が、羅電の銃口を敵の体に押し付けて一気に引き金を絞った。

ドドドドドドドドドドドド!

 小口径とはいえ、ゼロ距離からのフルオート射撃をくらい、ついにさすがの魔怒鬼も後方へ大きく吹き飛んだ。

バチバチバチ!

 肉体のいずこかに異常をきたしたか、大の字に倒れた魔怒鬼の体のあちらこちらから火花が散り、悪魔の魔化魍は手足をひくひくと痙攣させた。

 

「ねえ、やられそうだよ。なんだか前の時より強くなぁい、あの鬼たち?」

 木々の間から戦いのようすを見ていた謎の女が、傍らの男を見上げて言った。「前の時」とは、魔怒鬼と6人の鬼たちが嵐の中で死闘をくりひろげた明治時代のことである。

「うむ、確かに強い。それに得物も良い出来だ。屋島で見た音撃弦といい、さすが猛士のわざも格段に進歩している」

「音撃棍、壊されちゃったものね」

 痛いところを突かれて眉をひそめる男を尻目に、女はけらけらと屈託なく笑っている。

「あれほどのレベルの鬼どもを相手に素手のままでは、あやつもさすがに苦戦するわな」

 男は人差し指の先を数秒眉間にあて、そのまま魔怒鬼の方向へひょいと振った。

「さて、貴様の破壊衝動を満たすためにここまでお膳立てしてやったのだ。戦いに賭ける貴様の執念、われらに余さず見せてみろ」

 腕組みをし、不敵に笑う男の視線の先には、魔怒鬼が仰向けに倒れている。その魔怒鬼の顔の真上に、ぼぅと光の玉が現れた。

 魔怒鬼の震える指先が光の玉に触れるや、その光は瞬時に魔怒鬼の全身を覆い包んだ。

「さぁ。第2ラウンドを観戦しようじゃないか」

 男は不敵な笑みを浮かべて、光の中で変わってゆく魔怒鬼の姿を眺めていた。

石鎚山

(九)蒼鬼コバルト

「やつの体が…?」

突如魔怒鬼の全身を覆った光の出現は、4人の鬼たちを驚愕させた。

まばゆく発光し続ける魔怒鬼はむくりと起き上がり、右の掌を開いて前へ突き出した。すると全身を包んでいる光が今度はその掌に集結し、まるで槍のように上下に長く伸びた。

やがて光が消え去ったあとには、折られた角までもがきれいに復元された魔怒鬼が立っていた。その右手には、やつの身長と同じほどの長い棒が握られている。

「振り出しに戻ったってわけか?しかも武器まで調達しやがった。一体どこから仕入れたんだ、あんなデカイ得物?」

「空間転送だわ。あいつにそんな能力があるなんて」

「いや、やったのはあいつじゃない。恐らく近くに例のふたりがいるんだ」

「あれって、鬼に金棒ってこと?発想が貧困ね」

 燦鬼が言うとおり、魔怒鬼が手にした新たな武器は、直径が10センチほどもある太い金棒である。両端には炎を模った柄頭が鈍い光を放っている。中世ヨーロッパで、重い鎧をブチ破るために用いられたメイスと呼ばれる金棒である。それにしても長さは2メートルほどもある。とてつもない重さであろう。常人では持つことすらままならぬはずのメイスを、魔怒鬼は片手で軽々と回してみせた。驚くべき膂力のなせるわざだ。

「あちらも準備が良さそうね、蒼鬼さん」

「ああ。何を持ってこようが、何度でも倒してやろうじゃないか」

ごおおおお!

 天に向かって魔怒鬼が吠えた。戦闘再開だ!

 左右に展開した烈鬼と花吹鬼が、音撃管から鬼石を同時に撃つ。地面を転がって初弾をかわした魔怒鬼は、体の正面でメイスを回転させはじめた。周囲の空気をまとって風を起こし、唸りを上げて回転するメイスは、まるで1枚の鉄板のように、飛来する鬼石の銃弾をことごとくはじき飛ばした。魔怒鬼の正面で、弾かれた鬼石が無数の火花をあげ、周囲の地面や木々には、跳弾が作った穴が次々に穿たれてゆく。

 射撃では埒があかぬと見た蒼鬼と燦鬼が、左右から近接戦を挑んだ。

 片方が頭部を狙えば、もう片方が下半身を打つ。ふたりの攻撃は見事に息のあったものであったが、魔怒鬼の驚異の身体能力と動体視力は、あたかも超高性能センサーと対空ミサイルによって武装した最新鋭イージス艦のごとく、放たれたパンチやキックのことごとくを補足し、ブロックしてのけた。まさに鉄壁の防御だ。

 それでも鬼たちは攻撃の手を弛めはしなかった。蒼鬼と燦鬼の連打の速度がわずかに衰えたとみるや、すぐさま花吹鬼と烈鬼がふたりに代わって攻撃を繰り出す。分厚いコンクリート壁など易々と貫通させる破壊力の一撃一撃が、目にもとまらぬ高速で繰り出された。

 かたや魔怒鬼も防戦一方でいるわけではない。鬼の攻撃をメイスではじくと同時に、わずかな隙をついて攻勢へと転じる。

 メイスを腰の後ろで水平に固定し、くるりと反転した勢いで周囲に群がる鬼たちを一気になぎ払う。破壊力では4人の鬼たちのそれを凌駕する魔怒鬼の一撃は、連続技で押してくる鬼たちの勢いを瞬時にそぐほどであった。

グァシャ!

 分厚い鉄板をも貫きとおす炎の形の柄頭が、烈鬼の上半身を覆う金管を模したボディアーマを無残に引き裂いた。胸部を痛打された烈鬼は、低く呻いて地面にひざをついた。先刻魔怒鬼のラリアットを受けて痛めた場所を再度攻撃され、息ができなくなってしまったのだ。魔怒鬼はメイスの一端を両手で持ち、烈鬼の頭上を狙って大きく頭上へと振りかぶった。とどめの一撃、食らえばおしまいだ。

「させない!」

 がら空きになった魔怒鬼の鳩尾に、花吹鬼が拳を打ち込んだ。凄まじい速さで立て続けに5発!

半歩よろめいた魔怒鬼の左腕に燦鬼が組みついた。肩と肘を捉えてメイスによる攻撃を封じるためだ。持てるすべての力をこめて、関節を逆方向へとねじあげる。

 だが魔怒鬼は残る右腕一本で燦鬼の喉を掴むと、軽々とその体を頭上に差し上げた。

「ぐうう…ぐ」

 燦鬼の爪先は地面から数十センチも浮き上がっている。頸動脈が押しつぶされ、燦鬼は虚空をつかんでもがいた。

「燦鬼さん!」

 蒼鬼と花吹鬼が攻撃をしかけようと近づくや、魔怒鬼は差し上げた燦鬼の体をふたりめがけて勢いよく放り投げた。

「うわっ!」

「きゃあ!」

 悲鳴が重なり、燦鬼の体を抱きかかえたまま蒼鬼と花吹鬼が仰向けにひっくり返った。

「大丈夫?燦鬼さん」

「…あ…あ」

 蒼鬼の手を借りて起きあがりながら、燦鬼は無理やり声を絞り出した。実のところ、ふたりがクッションがわりになってくれたため、放り投げられた痛みはあまりない。彼女はむしろ喉に深刻なダメージを残していた。

 烈鬼も胸を押さえながら立ち上がっている。4人の鬼たちは、間合いをとって隙を窺った。その中心で、魔怒鬼はメイスを天秤棒のように肩にかつぎ、相手の次なる手を悠々と待っている。

 ぶつかりあう闘気の凄まじさに、石鎚山系のすべてがすくみあがっている。鬼たちの真上にあった太陽はいつの間にか西へ移動し、戦う者たちの影が長く伸びてひとつに絡まりあっていた。

―――燦鬼さん、いけるかい?

 蒼鬼の目配せを、燦鬼は咄嗟に読み取って頷いた。

―――烈鬼くんと花吹鬼さんにはもう一度音撃管で援護射撃をお願いするよ。

―――了解。

 烈鬼と花吹鬼も視線で応じた。蒼鬼は何かしら考えを持って指示を出しているに違いない。どんな作戦かは知らぬが、3人とも、己の役割を果たすことだけを考えて行動に移った。

ドゥルルルルルルル!

 花吹鬼の乱舞が新たなラウンドの始まりを高らかに告げた。

 魔怒鬼はふたたびメイスを高速回転させて鬼石をはじき返す。

ドウン!ドウン!

 そこへ反対側から烈鬼の渦潮がスラッグショットを撃ちこんだ。今度は左右からの時間差攻撃だ。

ガアア!

 大口径の鬼石は魔怒鬼の右肩にヒットした。弾速が遅いとはいえ、巨岩を打ち砕くほどの破壊力を秘めた必殺弾は、あざやかにメイスを旋回させている魔怒鬼の動きに乱れを生じさせた。振りかえって烈鬼の銃弾を防ごうとすれば、今度は花吹鬼のフルオート射撃が襲いかかる。

 魔怒鬼のボディからあがる着弾の火花が次第に多くなってゆく。

そこへ燦鬼が飛び込んだ。

 いかに神速の一撃とはいえ、拳と蹴りだけで倒せる相手ではない。燦鬼は囮であった。飛びかかる燦鬼の背後から、魂魄を構えた蒼鬼が飛び出した。左右からの銃撃によるダメージの中で、眼前でふたつに分離した標的のいずれを追うか、魔怒鬼がわずかに逡巡する隙をついたのだ。

 すでに魔怒鬼の懐に飛び込んでいた燦鬼が、刃を受け止めようとするメイスにしがみついてその動きを封じた。

―――その腕もらった!

蒼鬼の狙いは、魔怒鬼の力の源たる変身鬼弦を巻いた左腕である。

「とりゃああ!」

―――よしっ、決まった!

 4人の鬼たちが皆そう思った瞬間、謎の光によって復活した魔怒鬼の角がビュンと伸び、切りつけた魂魄の刃をガッチリと受けとめたではないか。

パキッ。

 硬い角に行く手を阻まれた魂魄の刀身が中ほどからポキリと折れ、きらめきながら地面に落ちた。

「何!?」

 それは魔怒鬼の奥の手であった。仮に四肢を封じられても、まだやつには自在に操れる伸縮する角があったのだ。それにしても、あらゆる魔化魍を切り裂き、岩をも貫く神刀魂魄が真っ二つに折られるとは!蒼鬼は、いまだかつて見たことがない魂魄の無残な姿を茫然と見つめた。

ごおおらああああああ!

 魔怒鬼は怒りの咆哮とともに、メイスにしがみつく燦鬼を無造作に振り払うや、眼前の蒼鬼を太い腕でがっちりと抱きかかえた。

 その刹那、魔怒鬼の巨躯がカッと発光し、ゴウと音を立てて青白い炎が噴き出した。

 まるで溶鉱炉の口から噴き出したような超高熱の鋭い炎が、組みつかれている蒼鬼の全身を一瞬にして包みこんだ。

「ぐああああ!」

 苦悶の悲鳴をあげて燃える蒼鬼を、魔怒鬼はしばらく楽しそうに抱え込んでいたが、やがて軽々と頭上に持ち上げ、茫然と見つめる3人の鬼たちの前へと放った。

「蒼鬼さん!」

「ああっ。大変だわ!」

 地面に落ちてなお燃え続ける蒼鬼の体を抱きかかえるようにして、燦鬼たちは大慌てで火を消した。

鬼たちは皆、変身する際に消費する膨大なエネルギーを自然界のエレメントに求めている。蒼鬼は水、燦鬼は風、烈鬼と花吹鬼はいかづちの力がその拠り所である。鬼への変身プロセスにおいて、全身の細胞を一気に活性させる猛烈なパワーの発現による各エレメントの力は、体からみなぎってオーラのごとく放射され、対極に位置する魔化魍など反自然の存在どもにダメージを与えることがある。

 魔怒鬼が拠り所とする炎のエネルギーは、蒼鬼に対して至近距離から深刻なダメージを与えたのだ。

「蒼鬼さん。蒼鬼さん」

「返事をしてください!」

 いくら呼びかけても蒼鬼は何も反応しなかった。全身は表面が炭化するほどに焼き尽くされている。その体からはしゅうしゅうと激しい白煙がたちのぼり、体の下に敷かれた雑草が焼け焦げている。体表の火を消そうとした仲間の手の平も火傷を負ったほどの高熱だ。どう見ても、その体に命が宿っているとは思えなかった。

「そんな、まさか…死んじゃった?」

「馬鹿なこと言うとぶっ飛ばすよ!」

 燦鬼が烈鬼の胸ぐらをつかんで怒鳴った。

 その時、ぴくりとも動かぬ蒼鬼の体にとりつている3人を、背後から魔怒鬼が襲った。

があああ!

 敬愛するリーダーを倒されて戦意を喪失している今の鬼たちに攻撃をくわえるのは、赤子の手をねじるよりもた易いことだった。丈の高い草を刈る大鎌のようにメイスでなぎ払うと、屈んでいた3人はそのまま大きく宙に跳ね上げられた。

バババッ!

 ダメージを受けたボディから激しく火花を散らせながら宙を舞う3人へ、魔怒鬼が信じがたいスピードで追い撃ちをかけた。メイスを長槍のように構え、先端部分で次々に突く。3人は猛烈な2段攻撃をくらって雑木林の中へと転がった。

ごおおおああああ!

 先刻まであれだけ大勢いた魔化魍や鬼の中で、今このバトルフィールドに立っているのはひとり魔怒鬼だけであった。腹の底からこみあげる勝利の咆哮が石鎚山系に轟いた。

「くそ…ダメ…なのか」

 雑木林の下草がごそごそと揺れて蚊の鳴くような声がした。烈鬼である。近くの灌木から、燦鬼と花吹鬼も這うように顔を出した。

「でも、諦めるわけにはいかないわ」

「そうね。蒼鬼さんだってきっとまだ生きてるわよ」

 年長の女性陣ふたりはさすがに泣き言を言わぬ。いや、互いに泣き言を聞かせるわけにはゆかぬと思っているのだ。

「だけど、どうやって戦えばいいのですか?」

 烈鬼の指摘ももっともだ。このまま同じ戦いを続けていても勝機は見出せまい。とにかく、自慢の音撃技が通用しない敵なのだ。

 その時、花吹鬼が気づいた。続いて燦鬼が、そして烈鬼が気づいた。

 狂ったように雄たけびをあげていた魔怒鬼も、どうやら既に気づいている。

皆、同じものを見つめている。いや、聞いている。

キィィィィィィィィィィィィ―――

―――何の音だ?

 耳鳴りに近い響きだが、そうではない。微かだが、もっと清冽で力強い音だ。

「燦鬼さん、花吹鬼さん」

 烈鬼に名を呼ばれたふたりは、反射的に彼を見、そして彼が茫然と指さす先へと視線をめぐらせた。

「あっ、あれは…」

「蒼鬼さん?」

 魔怒鬼の炎によって倒れた蒼鬼の体が青い光を宿している。岩をも溶かす超高熱の炎は蒼鬼の全身を黒く炭化させてしまった。まだ生きているとは到底思えぬ惨状である。

その黒く変わり果てた体の奥から、美しい青い光がさしている。しかもその光は、徐々に蒼鬼の全身を覆ってゆき、明るさの度を増していった。

ぐうるるるるる―――。

 清澄な青い光を嫌ってか、魔怒鬼は警戒の唸り声をあげている。

 光がその強さを増すと同時に、先刻の音も次第に大きくなり、今や遠くの山野で息をひそめている動物たちの耳にまではっきりと届いている。

「魂魄だわ」

 花吹鬼は、倒れた蒼鬼が今も握りしめている折れた神刀の刀身を指差した。彼女の言葉どおり、音は確かに魂魄の折れた部分から響いてくる。まるで刃に封じ込められていた膨大なエネルギーが、堰を切ってあふれだしているかのようだ。オーバーフローする音のエネルギーは折れた刀身を震わせ、そこで生まれた細かくも激しい超震動は、手から遡って蒼鬼の体の隅々へと伝播していった。

 その音と振動のエネルギーこそが、蒼鬼の体を芯から青く輝かせている原動力なのであった。

 今や、全身青一色の光をまとった蒼鬼がゆっくりと身を起こした。

「蒼鬼さん!」

「よかった。やっぱり生きていたのね」

 燦鬼たちは、みずからの体の痛みも忘れて歓喜の声をあげた。

 魂を失った人形のようによろよろと立ち上がった蒼鬼の体から、光が次第にひいてゆく。やがてそこには、全身が鮮やかな青に染まった蒼鬼の姿があった。

「蒼鬼さん…全身が青く染まっている」

「なんて奇麗な青…コバルトブルーの体ね」

「青の蒼鬼…蒼鬼コバルト」

 修業を重ねて心身ともにさらなる高みへ昇った鬼が、その至高の技量の証しとして全身の体色を変えることがあるのは知っている。だが、実際に目にするのは初めてだ。

「魂魄の秘密…宗麟先生が言っていたのはこのことだったのね」

 先代蒼鬼、曽我部宗麟は、かつて吉野で神刀魂魄の秘密について花吹鬼に語ったことがあった。滅びたる時にこそその真の力が発現されるのだ、と。

 刀身の中ほどから折れてしまった魂魄は、内包している凄まじいエネルギーを己の主たる蒼鬼に流し込んで、ふたたびの生命を与えるとともに、その身体能力をはるかにレベルアップさせたのだ。

 はるかな南国の澄んだ海のような、あるいは遠い昔の思い出に残っている雲ひとつない晴れた空のような、不思議と心惹かれる青に染まった蒼鬼は、右手に折れた魂魄を握ったまま猛士の宿敵魔怒鬼とふたたび対峙した。

ゴウ!

 魔怒鬼が吠えた。催促しているのだ。早く続きをやろうと。

 自然体で立つ蒼鬼に業を煮やしたか、魔怒鬼はメイスを頭上に振り上げて青の蒼鬼めがけて走った。

ぶぅん!

 渾身の力でメイスが振り下ろされた。

ギィン。

 風を切り裂いて襲いくる重いメイスが、折れた魂魄の華奢な刃で受けとめられた瞬間、鉄の鎧をも紙のようにブチ破る狂気の金棒は、あっけなく弾かれて魔怒鬼のはるか後方へ跳んだ。

 魔怒鬼は、しびれる右手首を押さえて、茫然と背後に横たわる己が得物を見た。魂魄の刃で受けられた部分が曲がっているのがわかる。

「ああ!」

「すごい」

 驚愕は、魔怒鬼のみならず、見守る味方の鬼たちをも巻き込んだ。

 不意に蒼鬼が魔怒鬼の顔面を殴った。右のフックは魔怒鬼の左ほほをえぐり、魔怒鬼はふらふらと数歩後退した。それを追って蒼鬼がさらにパンチを繰り出す。顎を、ボディを、こめかみを、殴る。殴る。殴る。それらのパンチがことごとく魔怒鬼にヒットする。蒼鬼のパンチが速すぎて魔怒鬼のガードが間に合わないのだ。

シュッ!シュッ!シュッ!

 蒼鬼は、魔怒鬼の正面わずか数十センチの間合いからひたすら殴り続けた。魔怒鬼はパンチを防ぐどころか攻撃に転じる隙も与えられず、ただいいように殴られている。魔怒鬼にしてみれば、まるで悪趣味な魔法にでもかけられているかのような出来事であろう。

「いけっ!そこだ!」

「やっちゃえやっちゃえ!」

 燦鬼、烈鬼、花吹鬼は、まるでボクシングの試合を観戦する客のようにはしゃいでいた。先刻までは4人がかりで攻撃しても歯が立たぬ強敵であったものを、今は蒼鬼が一人で優位に立っている。しかも圧倒的にだ。

が…がああ…

 魔怒鬼の両ひざが、がくりと折れて地面についた。

 何十発のパンチが撃ちこまれたのだろう。魔怒鬼は首と両腕をだらりと垂らして、戦意を喪失したようだ。

蒼鬼は、動かなくなった敵の左腕に手を伸ばした。巻かれた変身鬼弦「音呪」をはずすためである。

 その時、突然魔怒鬼が蒼鬼に抱きついた。蒼鬼の猛攻に耐えられずクリンチにもちこんだような格好だ。ファイターとしては不様としか言いようがない。だが、魔怒鬼の本当の狙いはそれではなかった。

「危ない蒼鬼さん!炎が来る!」

 それは花吹鬼の叫びと同時であった。

ゴオオオ!

 先刻蒼鬼を無残な消し炭のように変えた超高熱の火炎攻撃である。

 再び、蒼鬼の全身は溶鉱炉のごとき激しい炎い包みこまれた。

「蒼鬼さん!」

「離れて!早くっ!」

 しかし、仲間の悲鳴は、思いもよらぬ光景によって遮られた。

ブシュー!

 蒼鬼と魔怒鬼の足元から水の柱が噴き出したのだ。

 噴出した水は縦の激流となって炎ごとふたりを包み、10メートルほども垂直に立ち上がった。

「水が…蒼鬼さんの水が魔怒鬼の炎に勝ったぞ」

「コバルトとなった蒼鬼さん自身のみならず、あの人のエレメントまでもがパワーアップした…それも魂魄の?」

 花吹鬼たちは、あまりに凄まじい蒼鬼のパワーにただ感嘆するばかりであった。

 数秒後、あれほどの猛威をふるった魔怒鬼の地獄の業火は完全に消し去られ、ずぶ濡れになったふたりの鬼が向かい合って立っていた。

があああああああああ!

 魔怒鬼はあきらかにうろたえていた。格闘戦においてどんなに劣勢に立たされても、最後に超高熱火炎攻撃で形勢は一気に逆転できるはずであった。だが、蒼鬼のエレメントが勝っていた。超高熱の火炎は水流の勢いによってかき消されてしまったのだ。魔怒鬼は文字通り頭から冷や水を浴びせられた。

 かたく握りしめた拳を、渾身の力で蒼鬼の胸板へ叩きつけた。蒼鬼も応じる。

 互いに手を伸ばせば触れられる距離から、ふたつの拳が真正面からぶつかった。

ガシィィン!

 一方の拳の破壊力がもう片方のそれを明らかに上回っていた。劣っていた方の拳が砕け、それに続く腕の筋肉が裂け、それらを支える肩の骨格が背後へ突き抜けた。魔怒鬼は声にならぬうめき声をあげてのけぞった。

 青い蒼鬼は、今も超振動による膨大なエネルギーフローを続ける魂魄を、天に向けて突き上げた。

 蒼鬼の思念が、蒼鬼自身の体に流れ込んでくる青のエネルギーを遡って魂魄に注がれるや、魂魄のエネルギーはその思念にまとわりつき、やがて「その思い」どおりの形を形成していった。

「ああ!魂魄がもとの形に・・・?」

「いや、もとの魂魄よりも長いわ。あれはまるで・・・太刀」

「蒼鬼さんのイメージと魂魄のエネルギーがひとつになって物質化しているのよ。思念の太刀だわ」

 花吹鬼の言うとおり、それは蒼鬼が脳裏に思い描いたとおりの、青く輝く光の太刀となっていた。鍔からの刃渡りは1メートル近くもある。

 青い蒼鬼は、光の魂魄を八相に構えて間合いを詰めると、刃を魔怒鬼の左腕めがけて一気に振り下ろした。

ビシュッ!

 その腕に巻きつけられて以来約百数十年。その間、ひとときも離れることなく、もはや肉体の一部となっていた変身鬼弦が、中央に設えられた怒れる鬼のレリーフから真っ二つに断ち切られてぼとりと地に落ちた。

 魔怒鬼は何か珍しい物を見るように、変身鬼弦が巻かれていた痕が残っている左の上腕部分をしげしげと眺めていたが、突然、氷の塊を背中に当てられた時のようにぴくりと震えると、続けさまに数回激しく上半身を震わせてドォと地面に突っ伏した。

「やった…のかな?」

烈鬼ら3人の鬼たちが、痛む体を引きずりながら灌木の中から姿を現した。倒れている魔怒鬼を信じられないまなざしで見つめながらも、全身鮮やかなコバルトブルーに変化した蒼鬼を、少し畏れているふうに眺めてもいる。蒼鬼は、外見上は体の色が変化しただけなのだが、それによって神がかり的な強さを敵味方双方に見せつけた。青く発光して自分たちの目が眩んでいた間に、まったく違う存在へ変貌してしまったのかもしれないというかすかな疑問が、仲間の心の片隅に陣取っている。

 青い蒼鬼は、うつ伏せに倒れている魔怒鬼をじっと見つめていた。

その背に花吹鬼たちが声をかけようと近寄った時、不意に魔怒鬼が動いた。

―――!

 咄嗟に身構える仲間を、蒼鬼の腕が制した。しかし、蒼鬼自身も攻撃を加える気配がない。ただ、電池が切れかけたおもちゃのようなぎこちない動きで起き上がろうとする魔怒鬼を見つめている。

 そして、再び立ちあがったその姿を見て、花吹鬼たちは皆、一斉に驚きの声をあげた。

「やつじゃない!」

「姿が変わったわ?」

「いったいこれは!?」

 天に挑むかのごとき太くねじくれた角は消え、かわりに頭頂部と左右のこめかみ部分に、前方へ大きく突き出された3本の角が生えている。古代ローマ時代の彫刻に見られるような美しい筋肉の隆起を誇るボディは、さきほどまでの墨を流したようなまだらのグレーではなく、メタリックな光沢をたたえる薄いイエローである。明るく若々しい体色は、傍らの蒼鬼コバルトと対をなしているかのようにも見える。

 肩が小刻みに震えている。他の鬼たちと同様、歌舞伎の隈取を施したような顔からは、その表情までを読み取ることはできないが、その鬼はあきらかに泣いていた。

「もう、いいんだ」

 蒼鬼がその肩にそっと手を置き、彼だけに聞き取れるほどの小声で、ひとこと、伝えた。

 それを聞いた魔怒鬼が蒼鬼を見、ちいさく頷くと、その体は突如パァンと弾けるようにかき消えた。あとには無数の光の粒がキラキラと舞い、やがてそれも消えた。まるでイリュージョンを見ているようであった。

 石鎚山系のあらゆる生命が、息をのんでこの壮絶な戦いの結末を見ているようであった。それはあまりに静かで、あまりに幻想的なラストシーンであった。

「蒼鬼…さん?」

 いつも強気の燦鬼が恐る恐る声をかけた。

 蒼鬼の頭部が一瞬輝き、光が去った後には首から上だけ変身を解いた蒼鬼の顔があった。

「終わったね」

 見慣れたやさしい笑顔であった。不安げに見守っている3人の肩からも余計な力がふっと抜けた。頭部の変身を解くと、笑顔で蒼鬼を取り囲んだ。

「よかった。僕はてっきり蒼鬼さんが…痛ッ」

 話の途中で、烈鬼のお尻に燦鬼のひざ蹴りが入った。

―――馬鹿。余計なこと言うんじゃないよ!

 燦鬼の目が烈鬼をたしなめている。しかられた後輩は慌てて口を押さえた。

「はははは。このとおり僕は大丈夫だよ。どうやら魂魄が守ってくれたようだ」

 光の太刀となって絶大な威力を発揮した魂魄は、もとの折れた小刀に戻っていた。

「宗麟先生がおっしゃっていた魂魄の秘密、しかと拝見しました」

花吹鬼が折れた魂魄の切っ先を拾ってきた。刃の両面や、折れた断面をしげしげと眺めていたが、何もわからぬといった表情で切っ先を蒼鬼に手渡した。

蒼鬼はその切っ先と柄の両方を恭しく両手でささげて心の中で礼を言うと、腰の鞘に納めた。その途端、蒼鬼の鮮やかな青は体に沁み入るように消えてゆき、もとの薄い青みがかったメタリックシルバーの体色が現れた。

「蒼鬼さん、魔怒鬼は・・・もう・・・?」

「ああ。やっつけたよ、なんとかね」

 蒼鬼は、心配そうな烈鬼の肩に静かに手を置いた。

「やつの力の源だった変身鬼弦を斬ったからね。もう二度と魔怒鬼は現れない。決してね」

 その言葉を聞いて、烈鬼も燦鬼も花吹鬼もようやく安心したのか、互いの手を取り合って辛くも手に入れた勝利を味わった。

 蒼鬼は、真っ二つになって地面に落ちている変身鬼弦を拾い上げた。

「こんなもののために」

 蒼鬼は顔の真ん中からきれいに切り裂かれた金属製の鬼のレリーフを右手でぐちゃりと握りつぶした。

 日はいつの間にか西に傾き、オレンジ色に染まりだしている。戦いの終わりを見極めた山鳥たちが、それぞれの巣へ帰り始めた。

 

「あ〜あ。長い間手間隙かけて育てた挙句がこのざまか」

 謎の女が口を尖らせて傍らの男に毒づいた。

「また新しい素材を探して猛士どもをいたぶってくれるさ」

 男は胸を張ったが、どう見ても虚勢を張っているとしか思えない。女のほうもそのへんを見透かしてか、上目遣いの視線にも針を含んでいる。

「もう飽きちゃったわ。時間かけたわりにあっけなく終わっちゃって。つまんない」

 女はそう言うと後ろも見ずに林の奥へと小走りに消えた。

 ひとり残った男は、勝利を喜ぶ鬼たちをしばらく忌々しげに見ていたが、やがて目を伏せて女の後を追った。

群青

(終章ノ一)吉野からの手紙

「おはよう、蒼鬼さん」

 剣山民俗博物館の駐車場に「月の輪」が滑りこんできた。

 入れ違いに、大型の4WD車が今まさに発進しようとしているところであった。

 燦鬼の専用車「桜花」である。ウィンドウが降りて助手席の燦鬼が会釈した。その向こうでハンドルを握る圭一も「ウス」と小さく頭を下げた。

「おはよう燦鬼さん。これから出発かい?早いね」

 月の輪のシートに跨ったまま、蒼鬼はヘルメットのシールドを上げて笑顔を見せた。

「ええ。五色台に魔化魍ですって。どうやらバケギツネのようよ」

「バケギツネ?でも四国にバケギツネは…」

「ええ。お大師様が追っ払って以来いないはずなんだけど、誰かが狐封石<こふうせき>を壊したみたいよ」

「狐封石は普通の人には見えないはずだから、犯人はおおよそ見当がつくね」

「そういうこと。次から次へといろいろやってくれるわ、まったく」

「良からぬ影響が他の魔化魍に及ばなければいいんだけど」

 四国ではつい先頃バケネコの異常発生によって魔化魍同士が衝突し、エサとなる人間を奪い合うという異常事態が発生したばかりだ。異種の流入は、自然を超越した魔化魍のような存在にとっても「住みにくい」という状況を生み出してしまう。

「必要なら僕もすぐ応援に行くよ。気をつけてね」

「有難う。ところで花吹鬼さんから手紙が届いているわよ」

「え、本当?」

「ええ。下で館長が読んでいるわ」

「そう。じゃあ燦鬼さん、また」

 蒼鬼は月の輪を降りると足早に館内へ入っていった。

「あ〜らあら。蒼鬼さんまではしゃいじゃって。どこがいいのかねぇ、あの女の!」

 言うなり燦鬼は運転席に座る圭一の胸倉をグィとつかんだ。

「グエッ!な、なんスか。燦鬼さん?」

「今思い出した。お前花吹鬼が吉野へ帰る日の朝、あたしに内緒で一緒に写メ撮ってたろ。見せな」

「と、撮ってませ…グェ…す、すみません。つい…」

 燦鬼は差し出された圭一の携帯電話をひったくると、モニターを覗いて眉間に3本しわを寄せた。危険な兆候だ。

「ナニ待ち受け画面にしてやがんだ。デレデレしやがって、それでも昔は族仲間にサイボーグって恐れられた男か?ああ?」

「だって、前に燦鬼さんの写真を待ち受けにしてたら、気色悪いって蹴りいれたじゃないスか」

「だからって何であの女なんだよ!」

 言うなり燦鬼は圭一の待ち受け画面から花吹鬼の写真をあっさり消去してしまった。

「ひ、ひでぇ」

「やかましい!さっさと車出せ。五色台に着いたら真っ先にバケギツネの餌食にしてやっからな」

「ひ、ひでぇ…」

 桜花は何度か不自然な蛇行を繰り返しながら、国道を北上して行った。

 

 地下の事務所には、いつもどおり滝と亜沙子がつめていた。たった今まで、燦鬼たちを交えて対バケギツネ戦の作戦会議をしていたに違いない。

「花吹鬼さんから手紙が来たそうですね」

「やあ蒼鬼くん、おはよう。来てるよ、手紙」

「で、どうでした?」

「うん。どうやら大いに役立ったそうだよ、君の魂魄は」

「そうですか。よかった!」

 蒼鬼の表情が明るくはじけた。

「暗礁に乗り上げていた新しい音撃武器の開発にはずみがついたんですね」

「それどころか、近々完成するそうだよ。まあ読んでみたまえ」

 蒼鬼は手渡された3枚の便せんの内容を食い入るように読みはじめた。

 10日前の石鎚山中での魔怒鬼戦については「お疲れ様でした」としか書かれていなかった。彼女にとっても吉野本部にとっても、あの戦いは「記録しておくべき過去の戦闘データ」のひとつにすぎない。皆、常に先をにらんで活動している証しであった。滝や蒼鬼にしても、一番の関心事は、吉野で行われている新兵器開発に、魂魄の超震動エネルギーが応用できるかどうかということであった。

 蒼鬼の師匠、先代蒼鬼であった曽我部宗麟は、現在吉野本部に招かれて、小暮耕之助とともに新兵器開発の研究に没頭していた。

 打でも管でも弦でもない新しいカテゴリーの音撃武器の開発―――それが宗家から彼らに託された命題であったらしい。

 約2年前から着手したこの秘密プロジェクトは、猛士が誇るふたりの天才によって異例の速さで形になっていったのだが、結実まであと一歩というところでとん挫していた。

驚いたことに、彼らはエネルギーの源を「声」に求めたらしい。声の振動を増幅、精製し、清めの音撃に変換して放つ、というところまでは意見がまとまっていたのだが、問題は武器の形である。どのような形の武器になるかで、声を音撃に昇華させるプロセスが異なるため、ああでもない、こうでもないと、研究はしばらく堂々めぐりを繰り返していたというのだ。

最後の決め手を欠き、目の前の壁を打ち破るための斬新なイメージを求めていた彼らにとって、魔怒鬼との死闘の末に、刀身を折られてなおすさまじい威力を発揮して猛士を勝利に導いた神刀魂魄こそ、まさに天からの託宣であったに違いない。

かつての魂魄の主であった宗麟にしても、その内に何らかの秘密が隠されていることは知識として持ってはいたが、まさか折れた刀身からこのような超震動エネルギーが噴出し、鬼を劇的にパワーアップさせるなどということは想像すらしていなかった。花吹鬼から事前に報告を受けていた宗麟たち開発スタッフは、魂魄が再生修理のために持ちこまれてくるのを手ぐすねひいて待ち構え、文字通りかっさらっていったらしい。

 蒼鬼は、滅多に見られぬ師匠の驚く顔を想像して小さく笑った。

『・・・というわけで、生まれ変わった魂魄が蒼鬼さんのお手元に返るのは、もう少し先のことになりそうです。宗麟先生は“滝館長の太鼓道具でも貸しといてあげなさい”とおっしゃっていました。現場の蒼鬼さんの御苦労お察しいたしますが、新しい音撃武器が今まさに誕生しようという大切な時です。何卒いましばらくお待ちくださるようお願い申し上げます。

 東京では何と都心に魔化魍が出現したとのこと。わたくしたちの戦いには予期せぬことがつきまとうとはいえ、最近の魔化魍の動きには何やら理解しがたいものがございます。四国支部の皆さまもどうかくれぐれもご注意のうえ、お身体ご自愛下さいませ  かしこ

 追伸 鎖冷鬼さんの現場復帰、心よりお祝い申し上げます。師匠も復活なさり、裕作さんの鬼への昇格も近いことと存じます。共に闘う仲間として、心待ちにいたしております。』

「新しい音撃武器が完成したら、蒼鬼さんに届けられるんでしょうか」

 亜沙子が身を乗り出した。吉野渾身の新兵器を間近で見られるかもしれない期待感で目が輝いている。だが、蒼鬼は即座に否定した。

「残念ながらそれはないと思うよ」

「あら、どうしてですか?」

 滝と蒼鬼は目を合わせて苦笑いした。どうやら滝も同じ考えのようだ。

「宗麟先生が弟子である僕に新開発の最新鋭音撃武器を使わせてくれるとは思えないからさ」

「あら、そんなに意地悪な方なんですか、蒼鬼さんの師匠って?」

 亜沙子は口を尖らせた。

「ははは。ま、どちらかと言えば変人かもしれないね。でも意地悪するような人じゃないよ。つまりね、僕がコバルトに変身して魔怒鬼を倒せたのは僕自身の力ではなく、魂魄の秘められた力によるものだということさ。そしてその魂魄は、今でこそ僕が使わせてもらっているけれど、本来は猛士の所有物だよね。つまり、僕が新兵器の使用を主張できる理由はどこにもないんだよ」

 この新兵器の使い手に関して、この時ふたりの脳裏には、自らの鍛練によって肉体強化を極め、燃えるような深紅に変身する関東支部所属の鬼の名が既にあった。

「それにね。吉野がまったく新しいタイプの音撃武器を開発していることはもう全国の支部が知っているし、どこも注目しているさ。開発した宗麟先生の弟子がそいつを授かったとなったら、いろいろ厄介なことになりかねないだろ?」

 滝のことばに亜沙子は「う〜ん」と考え込んだ。

「吉野にいる。ということはそういうことなんだ。四国支部は今度の新兵器を期待しない。いいね」

「まぁ亜沙子さん、そう怒らない、怒らない」

 蒼鬼は笑いながら亜沙子の肩をポンとたたくと、「コーヒーを飲んできます」と言い残して部屋を出て行った。博物館の開館30分前。1階のコーヒーショップではそろそろ聖依子の旨いコーヒーの準備ができている頃だ。

「まったく、みんな欲がないんだから」

 亜沙子はあきらめきれぬ顔つきで、花吹鬼の手紙を読み返した。

「ブッブー。そうじゃないさ。僕たちはただ、お互いに信頼し合っているだけなんだよ」

 そう言うと、滝は「僕もコーヒー」と言ってそそくさと1階へ上がっていった。

 コーヒーショップでは、蒼鬼のほかに烈鬼や鎖冷鬼たち四国支部のメンバーが、いれたてのコーヒーをちゃっかり味わっているではないか。皆、階段を上がってきた滝を認めると、湯気の立つカップを差し上げて「早く早く」と笑顔で手招きした。

 滝も満面の笑顔であった。

猛士

(終章ノ二)ブルーラグーン

楽園とはこういう場所のことなのだろうか―――。

 どこまでが海でどこからが空なのかよくわからない。

 すべてが青に属する色彩で覆われている。

 部分的に見つめれば何種類もの異なる青が混在しているのだが、全体を俯瞰するとそれらがひとつの「青」を創りだしている。

 海も、空も、どこか現実離れした美しさである。

 唯一の例外は、海の真ん中にある丸い島だ。浅瀬がほんの少し盛り上がって海面から顔を出した、そんな可愛らしい島である。

 島の表面は一面真っ白な砂で埋め尽くされ、中央に粗末な小屋がぽつんと建っている。流木を無造作に打ちつけて造ったような小屋である。まるで、島も砂浜も、この小屋のために用意されたように思える。

サク、サク、サク、サク―――。

 白砂を踏みしめて浜辺を歩く人影がある。白いタンクトップと濃紺の半ズボンを身につけている。

浜には舟も見当たらず、乾いてサラサラと風になびく髪は海水で濡れているふうでもない。いったいどこから現れたのであろうか。海か?空からか?それとも・・・時のはざまからでも迷い込んだのか?

 裸足だ。陽光に焼かれて熱い砂の上を平然と歩いている。よく日に焼けた肩は、まだ発育しきっていない少年特有の曲線を描いて腕へと流れている。

 少年は粗末な小屋の入口に立つと、恐る恐る中を覗きこんだ。このうえなく明るい日差しの中から覗きこんだ屋内はあかりも灯っておらず、最初は真っ暗で何も見えなかったが、目を凝らしていると次第にいろいろな物が見えてきた。

 まず少年の目にとまったのは、木組みの台に乗せられた木造船である。全長が4メートルほどの細長い船体の片側に、大きく張り出したフロートを装備している。アウトリガーカヌーと呼ばれる船だ。艇長から察するに二人乗りであろうか。この島の周辺にこぎ出して釣りをするには最適の乗り物かもしれぬ。

 小屋の中には男がひとりいた。年は34、5歳くらいであろうか。真っ白なTシャツから伸びる両腕は、少年と同じ小麦色をしている。小屋の外の少年は、驚きと憧れの色を瞳に浮かべて美しい曲線を描くカヌーを眺めていたが、男に気づくと怯えたように小屋から少し後ずさった。

 男は少年に背を向けて、一心不乱にカヌーの船体を磨いていた。紙やすりを使って、丁寧に注意深く磨いている。男の短く刈った髪の毛は、細かい木の粉がふりかかって白くなっていた。

 気配を察した男が不意に振り返り、ふたつの視線が合った。

 少年の方はあわてて目をそらせて、また1歩後ろへ下がった。

 小屋の中の男は、かつて煉鬼という名で呼ばれていた。男の脳裏には、その頃の遠い記憶が薄絹のベールに包まれたようにぼんやりと残っている。だが男は、小屋の外でモジモジしているあの少年のことは、はっきりと覚えている。

 あの少年が誰で、自分がどうしてここに来たのか。

 男はじっと少年を見ていたが、やがてふたたび相手の視線が戻ってくると、ニコリと笑って彼を手招きした。

 少年は躊躇していた。彼にはわけがあるのだ。躊躇するわけが…。

 男はもう一度手招きして立ち上がった。思いのほかスリムで背が高い。

カヌーを置いてある作業場の奥へ歩いてゆくと、二人掛けの簡素な木のテーブルが置かれていた。男はテーブルの更に奥へと姿を消したが、すぐに白いご飯が盛られた飯椀を両手にひとつずつ持って現れた。双方とも箸が斜めに突き刺してある。

よく見ると、この小屋にある物はすべて二人分である。テーブルも、椅子も、椀も、箸も、船も…。

男はテーブルの奥に腰かけると、少したくさん盛られたほうの椀を自分の反対側に置き、もう一度戸口に立っている少年を手招きした。右手の箸で反対側に置いた椀をひょいひょいと示してみせる。「食え」と言っているのだ。「いっしょに食おう」と。

少年は男の顔を正面から見た。頬がこけ、目が少し落ち込んでいる。やつれてはいるが、笑顔は「相変わらず」とても温かい。

遠慮がちに小屋の中へ入った少年は、カヌーの横を通り抜け、テーブルの前に立って男を見降ろした。ふと、テーブルの隅に置かれた小さなポートレートに目をやった。肩を抱き合って明るく笑っている自分と目の前の男が写った古い写真がはめ込まれてあった。

 少年の表情に悲しげな色が浮かんだが、男はすべて承知しているというふうに小さく頷いて、もう一度飯椀を指差した。

 男と向かい合ってテーブルに座った少年が、白いご飯をそろそろと口に運び始めたのを見て、男は目を細めた。

 静かな青い海のできごとであった。

師弟

(完)

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