渦戦士エディー

桜の国のエリス 

 Ellice’s Battle in CherryTree Land


(序)

桜の国のエリスよ♪忌々しい季節である。

凍てつく北よりの風は鳴りを潜め、低く垂れ込めた雲はいずこかへ消えた。

今は反吐が出そうな青い空のもとを、気色悪いぬるい風がふいている。

「まだ生きながらえておるかや、おぬしゃ」

ぼとりと足元に落ちるような低い声の主は?

ケモノを思わせる奇妙な輪郭のシャレコウベの顔。頬をえぐるような長いキバが下あごから伸び上がっている。何のケモノかと問われてもわからない。おそらくどれほど詳しい動物図鑑を見てもこのような頭骨を持つケモノなど現存しまい。何かを呪い、誰かを恨み、泣いて、怒ってできあがった苦悶の形だ。ハリネズミを思わせる銀色の頭髪を鉢金付きの鉢巻で無造作に束ねてある。

身体にはやはりケモノの毛皮でできた縞模様のマントを羽織っている。胸部は堅固な鎧を着けており、迷彩色のボディースーツと共に暴力的なイメージを醸し出している。

徳島に巣くう悪の秘密結社「ヨーゴス軍団」の首領タレナガース。

あたりをはばかるように俯いているとはいえ、このような明るい時間にふらりと現れることは珍しい。悪人には悪人に相応しいTPOがあるものだが、こやつにはそれらをわきまえる分別すら無いのであろうか。

だが、幸いここは徳島でも人口が少ない山間の農村である。異形の魔人を見咎める者とて今は無い。

<そのセリフ、そのままおまえさんにお返しするとしよう>

どこからか声がした。きちんと教育を受けた立派な紳士を連想させる落ち着いた声だ。この「男」がタレナガースの話し相手か。

「ほほ。言うようになったの」

タレナガースがはじめて顔を上げた。

そやつの前には巨大なピンクの「壁」がそびえ立っていた。

 

(一)

「風向きが変わりました、タレナガース様」

機械につき物の擦れるような金属音が混じった低い声は悪のサイボーグ、ダミーネーターのものだ。

下半身こそ迷彩色のコンバットパンツに編み上げブーツといういでたちだが、上半身はブラウンのタンクトップ一枚きりだ。春とはいえ標高290mの眉山山頂を吹く冷たい風にさらされては長時間の屋外作業は到底こなせそうにない。しかしこの強化人間は朝日が昇る以前よりかれこれ約3時間もの間ここにこうして風の向きをひたすら観測している。頑健なのか、鈍いのか・・・。

「南よりの風です」

「うむ。いよいよじゃダミーネーター。余の新たなる芸術作品ベノム・ロケット改。風向きがふたたび変わる前に打ち上げよ」

「はい、タレナガース様」

指示を受けたダミーネーターは背負っていた金属筒を地面に下ろした。

「以前幸田町で使用したプロトタイプよりも破裂高度、飛散距離、それに毒性の強度。どれをとっても格段の飛躍をさせてある。楽しみじゃのう」

ふぇっふぇっふぇといつもの気味悪い笑い声を背で聞きながら、ダミーネーターは黙々と作業を行っている。

長さ約160cmの銀色の筒を三つ足の土台に固定させ、発射角微調整ネジを回して打ち上げ角度を徳島市街地のほうへ少し傾ける。そしておにぎり大のリモート点火ユニットをカチャリとセットして、すべての準備を終えた。

「タレナガース様。発射準備完了しました」

「よろしい。では・・・」

タレナガースが発射ユニットのトリガーに指をかけようとしたその時。

「ちょっと待ったぁ!」

背後からの鋭い声。

「誰じゃ、告白タイムではないぞえ」

しかしふりむきながらタレナガースも既に気づいていた。

「この無粋な渦巻き男め!」

そうだ。昇ったばかりの朝日を背に、風をまいて駆け寄るは徳島の守護神、渦戦士エディー。

ベノム・ロケットを守らんとダミーネーターが立ちはだかった。

エディーの回し蹴りをダミーネーターの分厚い人造筋肉が受け止める。身体を反対方向へ回転させて裏拳を、そのまま肘撃ち、膝蹴りと間髪いれず攻撃を繰り出すエディー。受けるダミーネーターの息遣いが感じ取れるほどの近接戦だ。今すぐにこの大男を退けなければタレナガースが毒液入りの打ち上げロケットを発射してしまう。

攻めるエディー。受け続けるダミーネーター。

意を決したエディーは近接戦の間合いからステップバックして距離をとると、エディー・ソードを出現させて勢いよくクロスに振った。

ブン!ブゥン!

ふた筋の輝く三日月型の光弾が走り、一方は両腕をクロスさせて防御したダミーネーターをその体勢のまま後方へ数メートル以上も吹き飛ばし、もう片方はタレナガースめがけて襲いかかった。

ふん!

エディーの攻撃を読んでいたか、タレナガースは高速で飛来する光の鎌をひょいとよけ、ふぇっふぇっふぇと笑いながら発射装置のスイッチを押した。

グァン!

ゴオオオオオ!

「ああっ!」

「しまった!」

短い攻防の結果、エディーとタレナガース双方が無念の悲鳴をあげた。

エディーはベノム・ロケットが発射されたことに。そしてタレナガースは・・・?

エディーが放った2撃目の光弾は、タレナガースのすぐ脇を通り過ぎるや、アフターバーナーから今まさに炎を噴き上げんとするロケットの土台に命中していたのだ。

その衝撃で目指す空中から大きくそれて地面とほぼ平行に倒れながら、ベノム・ロケットはあらぬ方向へと勢いよく飛び去った。

「いかん!そっちへ飛んではいかん!」

タレナガースはエディーと同じように、小さくなってゆくベノム・ロケットの炎に向けてむなしく両腕を伸ばしていた。

 

(二)

ワオ〜ン・ワン・ワン!

静かな山間の村に犬の遠吠えがこだました。

「毒液の飛沫発見。ただちに中和液を噴霧しますっ!」

ワオ〜ン・ワン・ワン!

ワオ〜ン・ワン・ワン!

「ま、待ってピピ。そんなにせかされても無理よ」

声の主はエリス。

徳島をヨーゴス軍団の悪だくみから守るべく誕生した渦戦士エディーのサイド・キックだ。戦いは苦手だが、戦闘によって渦パワーを消耗したエディーにエナジー補給を行ったり、ヨーゴス軍団首領タレナガースが好んで用いる猛毒の中和をもっぱらの任務としている。胸のコアから発せられて体の隅々までめぐる渦パワーの影響で、まっすぐにのびる頭髪も透き通るようなクリアブルーだ。

エリスが組み上げた頼もしい相棒のロボ犬ピピが感知する毒性物質を追い、精製した中和剤を噴霧して住民たちを毒の脅威から守っているのだ。

今朝エディーと戦ったヨーゴス軍団がなかば打ち上げに失敗した猛毒内蔵のベノム・ロケットがこの山間の村の上空で破裂し、濃密なタールのごとき毒のエキスが村のあちらこちらに飛散してしまった。

エディーからの緊急連絡を受けたエリスは、かつて幸田町で使用した中和剤をもとに大急ぎで今回の適合中和剤を精製し、先週トイザマスで買った大型ポンプ式ウォーター・ライフルに詰められるだけ詰めてこの村にやってきたのだ。

シュコシュコシュコ。

ポンプに圧縮空気を送り込んではピューッと噴射し、どす黒い毒液を真水に変換させてゆく。

もちろん傍らではバディロボのピピもせっせと中和作業を続けている。

戦闘力は低くとも、エリスのこの作業は徳島の防衛という意味においてははかりしれない貢献度をもつ。

か細い身体で精力的に村を駆け回るエリスに、村人たちも感謝の声をかけた。

「すまんのぅエリス。おかげで作物が助かったわ」

近くの温泉やどの名前を印刷した白いてぬぐいでハチマキをしたおじさんが満面の笑顔でエリスに近づいてきた。

目じりに深いしわが無数に刻まれた好々爺だ。

ハチマキおじさんは村の西側を流れる渓流の方を指差した。

「江戸桜の真上でロケットが爆発して真っ黒なモンが飛び散った時はもうアカンと思うたなあ」

「江戸桜・・・?」

てぬぐいでハチマキをしたおじさんの言葉にエリスが食いついた。

ロケットが破裂した中心地は目視しておく必要がある。エリスはウォーター・ライフルのタンクを新しい満タンのものに交換すると、ハチマキおじさんを促してその江戸桜のもとへと急いだ。

この村は県下でも有数の桜の名所である。渓流の両側には百数十本もの桜の木がきれいに植えられ、遊歩道をゆく人々の視線を頭上へ釘づけにしている。

その桜並木を愛でながら歩く人々が必ず足を止めて見上げるひときわ大きな枝垂れ桜。ためいきと称賛の眼差しを一身に受ける存在こそが江戸桜である。

樹齢約百七十年とも言われ、高さは十メートルもあろうか。江戸時代からここで毎年花を咲かせるこの桜を、村人たちは「江戸桜」と呼んでいる。

「うそ・・・」

エリスはその巨大な枝垂れ桜を見上げて息を呑んだ。

美しさゆえではない。

今が盛りの江戸桜にはベットリと黒いタール状の毒液が降りかかっている。

艶やかなピンクの花弁を無数につけた枝はしなやかに垂れ下がり、まるで幾重にも折り重なる桃色の滝のようだ。

もしも極寒の渓流に桃色の絵の具を大量に溶いたとしたら、夜の寒さで凍りついた桃色の氷の滝が産まれるかもしれぬ。その妄想を具現化したとしたらまさしく眼前のこの桜の木がそれであろう。

しかし、その絢爛なる麗木はいまや漆黒の飛沫を全身に浴びて枯死を待つばかりである。樹木の専門家ならずとも、もはや助かるすべが無いことは一目瞭然。

「ひどい」

立ち尽くすエリスの眼前で、毒に侵食され力尽きた枝が1本ぼとりと地に落ちた。

「ううん、諦めちゃダメ。やれるだけのことはやらなくちゃ!」

自分自身を励ますと、エリスは中和剤が入ったウォーター・ライフルの銃口を枝垂桜に向けた。

<無用だ、エリス>

「へっ?」

<わたしのことは構わなくてよい>

「・・・誰・・・ですか?」

エリスは突然聞こえた声の主を探してキョロキョロとあたりを見回したが、周囲には人影は認められない。

その時、一陣の風がエリスのクリアブルーの髪と眼前の桜の枝を揺らして過ぎた。

突如エリスの視界全体が強烈な光に満ちて、彼女の視力を奪った。

「わっ、何?何が起こったの?うえ〜ん、あばばい(眩しい)よぉ」

フラッシュをたいたような明るさが次第におさまり、ようやく周囲が見え始めたエリスはまたも度肝を抜かれた。

エリスと江戸桜を中心に、世界のすべてが淡いピンク色になっているではないか!

天も地も無い。

東も西も無い。

ただ上品な桜色に染まった世界にエリスはいた。

そしてエリスの前に垂れ下がっている、毒の汚染からまぬがれた一本の枝がふと持ち上がってエリスの額のブルー・ローンバスのエンブレムにやさしく触れた。

その刹那。

シュアアアアアアアア。

今度はエリスの全身を淡い光が包み、彼女の頭頂部から下へ向かってその体色がみるみる桜色に変わっていったではないか!

クリアブルーの頭髪があざやかなピンクに。

額の青いひし形エンブレムが桜の花びらを模したマークに。

胸の青いエディー・コアも桜色に。

黒く精悍なボディスーツが純白に。

そしてわき腹の白いラインとスカートまでが淡い桜色に変色した。

「きゃっ。わ、私いったい?」

エリスは自分の身に起こった変化に驚いた。エディー・コアのエナジーとはまったく異質のパワーが彼女の体内に流れ込み、そのボディ・アーマにも影響を与えたようだ。

<エリス・サクラバージョンとでも言おうか。今そなたの肉体は、私たち桜の木と同質のエナジーで構成されているのだよ>

―――この声・・・まさか、そうなの?

エリスは心の中で恐る恐る声の主に問いかけてみた。半信半疑だったので声に出すのは少し恥ずかしかったせいもある。だが、案に反して答えはもたらされた。

<そうだ。私だ>

それはまぎれもなく江戸桜の「声」であったのだ。

<ここは桜の木の世界。桜の国なのだ。いきなり連れてきて驚かせてしまったが、ここにいるほうが君と話すのに疲れないのでね。許しておくれ>

「うっそ―――!マジですか?桜の国って、わたしマジで江戸桜さんと話しているんですね?」

エリスは巨木の周囲を回りながら誰もいないことを確かめてみた。

「スゴイ!信じられないけど、でも信じます。よぉし。今スグこの中和剤でその毒液を洗い流してあげますね、江戸桜さん」

<いや、よい。その薬は毒を浴びたほかの桜たちのために役立ててもらいたい>

桜の声が、ウォーター・ライフルを構えるエリスをふたたび制止した。穏やかだが、死に瀕している病人の声とは思えない強い意志を感じる。

「どうして?何もしないであきらめるなんておかしいわ。あなたが枯れたら村人が悲しむわ。すべての徳島県民も悲しむわ。私だって悲しい。そしてそれはある悪人ひとりを大喜びさせることにもなるの」

<タレナガースか>

「え、あいつを知っているの?」

<うむ。もう長いつき合いなのだ。長い長い、な。私はその名の通り江戸時代からここで生きておる。充分長生きしたのだよ。だからもういいのさ、エリス>

さぁーっと枝垂れ桜の枝がエリスの眼前で揺れた。それはあたかも、近寄ろうとする彼女を拒まんとするかのような動きにも見えた。

<いけません、江戸桜様>

<そうです。エリスさんの助力をお願いするべきです>

今度はまた違う声が背後からかけられた。

エリスは驚いて振り返ると、そこには若い男女たちが大勢立っていた。10代後半から30代くらいの人たち。百数十人はいるであろうか。服装もまちまちだ。着物を着ている者。Tシャツにジーンズ姿の者。中には裸体に布切れをただ体に巻きつけているだけの者もいる。それらが皆エリスをじっと見ている。エリスはたじろいだ。

「あ、あのぉ・・・あなたがたは・・・えっと・・・いったい・・・?」

<私たちは皆、ここに立ち並ぶ桜の木です>

最前列に立っていた若者が歩み出た。30歳くらいであろうか。白いコットンシャツに紺色のズボン。濃い緑色のスニーカーを履いている。櫛を通していない髪がどこからか吹く風に乱されてはいるが、整った顔立ちとやさしい気配は隠せない。エリスの好きな特撮ヒーローの主人公になんとなく似ている。

<よっしゃ、イケメンだわ>

エリスの目じりがわずかに下がった。

<ありがとさん>

目の前のイケメンがほほ笑んで礼を述べた。

「うえっ!なんでわかったの?」

心を読まれてエリスは思わず口を押さえた。だがもう後の祭りだ。慌てるエリスに、まぁまぁと両手を広げて落ち着くよう促すと、イケメン桜はゆっくりと話し始めた。

<我々は声を持ちません。会話はすべて心の中で、あなたがたにわかりやすくたとえれば、テレパシーで行っているのです。ですから声に出そうと出すまいと、あなたの思念はすべてはこちらに伝わります。あ、警戒しないで下さい。そんなコミュニケーションを長年行っているとすっかり慣れてしまいます。ここは嘘のない世界なのです。また邪な心のない世界でもあります。桜の国に来られるということは、エリスさんが嘘のつけない良い方だということなのですよ>

「え?わたし嘘つくわよ」

エリスはヒロがお取り寄せしてあったバウムクーヘンをちゃっかり食べてしまい、賞味期限が切れていたから捨てたと言ってだましたことを思い出した。数日前のことだ。

<ははは。そんなことはよいのです。さてエリスさん、こうして皆が人の姿になって現われたのは、あなたに江戸桜様をお助けいただきたいと思ってのことなのです。あなたのそのお薬で、どうかわたしたちのあるじたる江戸桜様をお救い下さい>

百数十人の桜の精が一斉に頭をさげた。

<これ、よしなさい>

ふたたび江戸桜の声がエリスの心に届いた。

なにげなく振り返ったエリスは「げっ」と声をあげた。さきほどまで目の前にあったあの桜の巨木はなく、代わりに簡素なベッドに横たわるひとりの老人がいた。左右には若い女性の姿をした桜の木が心配そうに立っている。

「あなたは・・・江戸桜さん?」

<うむ。私が人の姿をすればこういうことになるようだ>

白髪だが彫りが深く鼻筋がきれいに通った男前だ。きりりと結べば凛々しさが際立つであろう薄い唇からは苦しげな息がもれている。

<へえ。江戸桜さんも素敵なおじさまなのね>

<ありがとさん>

またやってしまった。胸のうちが隠せないのも良し悪しだ。

薄い水色のフランネルの寝巻きを着ている。顔の一部や胸元、腕など、寝巻きからのぞいている身体のあちらこちらが毒に侵されて黒く変色しているのが痛々しい。

<わたしはもう170年も生きたのだ。見るべきものは見、知るべき事柄も知った。思い残すことはないのだよ。皆の気持ちにもこうして触れることが出来て嬉しく旅立てるからね。これ以上エリスに無理強いをしてはいけない>

「無理じゃないわ。私の中和剤はこの村のあちこちで効果をあげているのよ」

エリスはちょっとむきになった。

<知っているよ。だけどね、タレナガースのベノム・ロケットには二種類の薬剤が搭載されていてね。ひとつはこの毒。もうひとつはこのネバネバした毒液を薄めて広範囲に飛ばすための希釈剤なのだ。

被害を深刻にするためには原液のまま撒き散らす方が効果的なのだが、被害をより広範囲にまで及ぼそうとすると、敢えてこの猛毒の威力を落とさねばならぬらしい。そこのところのさじ加減が難しいのだと、以前タレナガースが自慢げに語っておったな。ところが今度のベノム・ロケットは発射時になんらかのトラブルがあって、うまく毒と希釈剤が混じり合わなかったようなのだ。それで私の真上で破裂したロケットから大量の猛毒原液が降ってきたというわけだね。つまりエリスの中和剤が効果的なのは、ベノムの効力が幾分緩和されておるからで、今私にふりかかっておるこの原液に対してはさほどの効果は期待できぬというわけなのだよ。気を悪くしないでおくれ>

してみると眉山山頂でエディーが苦し紛れに放ったタイダル・ストームは逆効果であったわけか。エリスは唇をかんだ。

<これこれ、そんなふうに考えてはいけない。お陰さまでこの村のほかのところは大した被害を出さず、そのうえエリスの中和剤で早期に毒を除去できたではないか。有難いことだ>

江戸桜は時折苦しげに言葉を詰まらせながら話している。やはり毒のダメージは少なくないのだろう。

<江戸桜様、もうお話しになられるのはやめてください>

<お疲れは毒のまわりを早めます。もう今日はお休み下さい>

左右に付き添う女性たちが声をかけながら江戸桜の手をやさしく握った。ほかの桜たちも皆、心配そうな面持ちで江戸桜を注視している。

「お願いします、江戸桜さん。とにかく私に毒素の中和をやらせてください。170年生きたからもういいとか、絶対違うと思います。残りの寿命がどのくらいかはしらないけれど、それを最後まで全うしてこその命だわ。あきらめるなんてダメ!だ〜メッ!」

詰め寄るエリスの剣幕に江戸桜は少し驚いたようだった。こんなふうに正面から意見されたことなど、長らくなかったのかもしれない。

<エリスさんのおっしゃるとおりです>

さきほどの桜がエリスの傍らに歩み出てきた。言葉に熱がこもっている。エリスと目と目で頷きあった。やはりイイ男だ。

<ありがとさん>

「もういいって」

コホンとせきばらいすると、エリスは江戸桜のほうへ向きなおった。

その思いに呼応してか、江戸桜はそろそろと上体を起こし始めた。簡単な動作だが、毒の影響が深刻なせいか動きがかなり鈍い。左右の女性たちが手を差し伸べてそれを助けている。

江戸桜はところどころ毒に侵されて病んだ細い手をエリスにむけて差し出した。老木の精はようやく彼女の助力を受け入れる気持ちになってくれたのだ。エリスは「失礼します」と会釈して江戸桜に近づいて老人の細い手を両の手のひらで包むように握った。

<エリスさん、江戸桜様をよろしくお願いします>

背後から桜の精たちに声をかけられたエリスは「まかせて!」と胸を張って振り返った。

皆、心配そうにエリスと江戸桜を見つめている。よく見るとほかの桜の精たちも皆それぞれにとびきりの美男美女ばかりだ。エリスはついニンマリした。

<桜の国ってホントにいいトコロだわぁ>

そして百数十の声が重なった。

<ありがとさん>

 

(三)

それよりすこし前・・・。

 

「おぬしを狙ろうたわけではなかった」

タレナガースの声には慙愧の念が込められていた。この悪鬼にこのような感情が残っていたとは驚きである。

<わかっておる>

タレナガースは黒い毒液を全身に浴びてしまった江戸桜と話していた。その毒液はついさきほど桜の真上で破裂したベノム・ロケット改から降ってきたばかりであった。

「余はおぬしが嫌いじゃ。百数十年にもわたって嫌いであった。じゃが、これは余が望んだことではない」

<だから、わかっておると言っておる>

「ひどいのぅ」

<うむ>

「これでは・・・いよいよ助からぬかもしれぬのぅ」

<うむ>

「詫びたりはせぬ」

<しつこいぞ、タレナガース>

とりとめもない短い会話が無意味に続いた。

「やはりここにおらっしゃったかや、タレ様」

女の声だ。この狐狸妖怪をタレ様と呼ぶのはひとりしかいない。

「クィーンか。何の用じゃ?」

「用というわけではないが、姿が見えぬゆえもしかしたらと思うて来てみたら案の定であったということじゃ」

ヨーゴス軍団の大幹部ヨーゴス・クィーン。上半身をピンクのマントに包み、スラリと伸びた両足は黒い皮のロングブーツで覆っている。

タレナガース同様、徳島を汚濁にまみれた世界に貶めることを何よりの楽しみとする鬼女である。残忍さではタレナガースも一目置いている。

「毎年この季節になるとおまえ様はここに来てこの桜とケンカしておるのう。百何十年も。まったく仲の良いことじゃ」

「仲が良いわけではない」

タレナガースと桜が同時に否定した。

「ふん、嘘をおつきでない。仲が悪ければわざわざここに来たりはすまいよ。桜も内心ではタレ様の訪問を心待ちにしておるのではないかえ?」

タレナガースはしばらく黙っていたが「帰る」と小さくもらすと桜の木に背を向けた。数歩遠ざかり、タレナガースはふと振り返って毒液を浴びた桜の木を見上げた。

「こやつの花は真っ赤であったのじゃ」

「え?」

それはひとりごとであったのか、それとも傍らのクィーンに言ったものであったか。

「あの日、われら狸はここで、この場所でいくさをした。大いくさであった。大勢の同胞がここで死んだ。呻いて、泣いて、血にまみれて死んだ。そしてその修羅場から余が産まれたのじゃ」

<そうだ。私はまだ花をつけ始めたばかりの若木であった。多くの狸の死体が土に帰っていった頃、こやつはポツンとそこに立っておった。だれかひとりの霊というわけではなく、多くの狸の恨みが凝り固まり、練り上げられてこやつを形作ったのであろう>

「そして次の春、この桜は真っ赤な花を咲かせたのじゃ。無数の狸の血を吸って、まるで季節はずれの彼岸花のごとき真っ赤な花であった。余はあの赤い桜が好きじゃった。我らの悲しみを、恨みを、痛みを、この桜だけは忘れずにいてくれるのじゃと思うた」

<事実、そうであった>

「なのに!」

不意にタレナガースが叫んだ。身体をふたたび桜の木に向け、いびつなツメの伸びた指で桜の幹をさしてなじるように大声を出した。

「なのにこやつはもとの桜に戻りおったのじゃ!たかだか十数年経つか経たぬかで、花びらの血の色は次第に薄れてゆき、とうとうふつうのピンクにもどりおった。我らの無念をあっさりと忘れ去りおった!」

<地中の水分を吸って生きるは植物のさが。血の色が薄れたはつまり、この大地から狸どもの血が洗い流されたということじゃ。皆成仏したのじゃ>

「たわけを申すな!そんなはずがあるものか!ならば余はなぜここにおる?なぜ余は消えてなくならぬのじゃ?」

激高したタレナガースは硬く握り締めた拳を桜に突き出して叫んだ。だが、大きな目をさらに広げて驚いているヨーゴス・クィーンの視線を感じるや、決まり悪そうにそろそろと拳を下ろした。

「ふん、貴様もこれまでじゃ」

吐き捨てるように言うと、タレナガースはひとりさっさとその場を後にした。

「まるで子どもじゃ。子どもの意地の張り合いじゃ」

タレナガースの後姿を見送りながらヨーゴス・クィーンは呆れ顔で首を左右に振った。

「そなたもそなたじゃ、桜よ。素直に助けてくれと言えばよいものを。双方とも後悔することはわかりきっておるくせに。」

クィーンは全身のあちらこちらに黒いシミを浮かべた枝垂れ桜の巨木を仰ぎ見た。桜は無言で風に枝を揺らせるばかりだ。

その時、桜並木の遊歩道をひとりの男が歩いてくるのが見えた。野良仕事の帰りであろうか、白いてぬぐいでハチマキをし、古いクワを肩にかついでいる。

<やれやれ、気が進まぬがあのおっさんを操って渦の小娘をここへ連れてくるとするかや。どうせまもなくこの村にやって来るであろうからの。それにしてもまったく世話の焼けることじゃ>

首領の後を追うクィーンの背後で、黒く変色した枝垂れ桜の枝が一本、ぼとりと地に落ちた。

 

(四)

エリスは毒液の中和をはじめた。さすがに人の姿をした江戸桜に対してウォーター・ライフルで薬剤をぶっかけるわけにもゆかず、用意された洗面器にライフルタンクの中和剤を移すとてぬぐいに染ませて丁寧に江戸桜の患部を洗い清めた。

<気持ちがよい>

江戸桜が目を細めた。先ほど彼が言ったとおり、これほど濃度が高い毒液に対して、エリスの中和剤は即効性を現せなかったが、それでもいくぶんかは苦痛を和らげる効果はあるようだ。

<必ず、最後には必ず治して見せるわ>

エリスは根気よく江戸桜の全身を何回も何回も洗った。

<もっと中和剤が欲しいわね。せめてピピを呼べたらいいのに>

うつ伏せになった江戸桜の背中を中和剤で清めながらエリスは考えていた。相手が人の姿なら患部を包帯で巻くことだってできる。救急キットも取りに行きたいところだ。そんなことを考えているうち、エリスの足元になにかの気配がした。見下ろしてみるとそこには?

バウ。

「ピピ!?」

そこにはエリスの相棒ロボ犬ピピがいた。エリスの位置を検索する装置が内蔵されたシッポがピンと立って左右に振られている。

あるじの求めに応じてここまでやって来たのだ。

「でも、どうして?私が呼んでる事がわかったの?しかも中和剤の予備タンクやら救急キットやらいっぱい咥えちゃって」

ピピはエリスが求めていたものをすべて携えているではないか。

<桜の国は濃密な精神世界なのです。あなたがここで思ったことは私たち桜の木々を通してあたかもラジオコントロールの電波のようにあなたの愛犬に届けることができます。このピピは私たち百数十本の桜の木を媒介としてあなたの思念を直接受け取ったのです>

「なるほど・・・」

とは言ってみたものの、わかったようなわからぬような話だ。まあいい。必要な物資の補給が得られたのだから。

<よく来てくれたのう>

エリスに背を清めてもらいながら、江戸桜がそろそろと手を伸ばしてピピの頭にやさしく触れた。

すると!

さきほどと同じような眩い光がピピの身体から発せられ、みるみる人の形へと変貌してゆくではないか。

「きゃっ、ピピ!ピピ?どうなってるの???」

驚くエリスの眼前で、ピピは可愛らしい女の子の姿になった。年のころなら10歳程度か。桜色のまっすぐな髪の毛はエリスと同じだが、いまどき珍しいおかっぱ頭だ。まつげが長くどこか中性的な顔立ちは人形のようでもある。桜のアップリケが左胸についた白い長袖のブラウスに桜色のスカートを穿いている。

<驚くには及びません>

看護の女性桜が微笑んでいる。

<この精神世界ではあなたのロボ犬も忠実な友人として存在できるのです>

<人語も操れますよ、ホラ>

もう一方の桜がピピお穣ちゃんの頭を軽くなでた。すると!

「ワタシも手伝います、マスターエリス」

アニメのヒロインを思わせるかわいらしい声、まぎれもなくピピの声だ。

エリスはもうナニがナニやらわからず、えへえへえへと笑っている。なんだかこの世界がこのうえなく楽しくなってきた。

エリスは中和剤による患部の洗浄をピピに任せて、応急処置が終わったところに包帯を巻いていった。清潔なガーゼをあてて丁寧に包帯を巻く行為はそれだけでも患者にとって苦痛を和らげる効果があるものだ。

江戸桜も今は目を閉じてエリスたちの処置に身を委ねている。

その時!

ギチギチギチ。

刃物を擦り合わせたような気持ちの悪い音が近づいてくる。

「ナニ?」

エリスたちがそちらを見ると、桜色の世界を突き破るように黒く巨大なナニかが来るのが見えた。

ギザギザの刃を持つ一対のハサミのようだ。エリスは何かのアニメで見たアリのキバを連想したが、しかしあの大きさは規格外にもほどがある。

バリーン!

ガラスが割れるような音と共に、穏やかな桜色の空が粉みじんに砕かれ、エリスたちは突然もとの村の景色の中へと放り出された。

そしてベッドに横たわったままの江戸桜やエリスたちが見たものは、不気味な頭部を持ついびつな巨大モンスターだった!

体長約十メートルもあるトカゲを思わせるボディから昆虫特有の6本の足が伸びている。悪趣味な合成獣のようなモンスターだ。しかもその頭部はあのタレナガースそっくりではないか。シャレコウベの顔からは、さきほど見た肉食昆虫を思わせる鋭い一対のキバが伸びている。

「た、タレナガース虫!?」

エリスは気色悪いモンスターの外見に嫌悪感をあらわにして呻いた。

「ピピ、江戸桜さんを避難させて。早く!」

エリスの命を受けたピピは、他の桜たちと協力して江戸桜の横たわるベッドを押して逃げ始めた。

<エリス、気をつけるのだ。ここは現実の村ではない。ここもまた桜の国なのだよ>

ベッドを押すピピたちを制止して江戸桜が声を上げた。

<ここは170年前の村のイメージだ。我々や君の相棒のロボット犬が人の姿に変わったように、そのモンスターは私にふりかかった毒液が変貌した姿なのだ>

「ど、毒がモンスターに?」

エリスは驚いた。生き物である桜や人語を解する頭脳を持つピピなら許せるが、あのドロドロの毒液がこんな風に。。。

<この毒にはタレナガースの強い念が込められておる。醜く歪んだあやつの怨念が凝り固まっておる。それがあのようなバケモノに変貌したのじゃろう>

「そんな、ムチャクチャだわ!」

桜の国は思念によって成り立つ精神世界である。邪悪なるものはこのうえなく邪悪な存在として具現化される。

エリスたちの看病によって毒の効力が薄れ始めたため危機感をおぼえた毒液が、そこに込められた開発者タレナガースの邪念をエネルギーとしてモンスター化したのだ。

<注意せよ。タレナガースの毒は自然界のものではない。あやつが合成した特殊なものゆえ、その毒を具現化させたあのモンスターもまた自然のことわりを超越した姿になっておる>

 

 

そうこうしているうちにもモンスターはこちらへ近づいてくる。エリスはピピたちを促して江戸桜の避難を急がせた。

「とにかく、江戸桜さんを完治させるためにはどうしてもこのバケモノを退治しなければならないってわけね」

やってやろうじゃないの、とエリスは腹をくくった。この実力を伴わない闘志がかつてどれほどエディーを困らせたかしれないが、エリスはまたまたやる気満々だ。

「毒ならこれが効くはずよ。くらえ必殺中和剤!」

中和剤という必殺技名はちょっとしまらないな、と思いながらエリスはウォーター・ライフルのトリガーを引き絞った。

ビビビビビビビ!

だが水鉄砲の小さな銃口から発射されたのは中和剤ではなく桜色に輝くひとすじのビームだった。ピピが人なら、毒液がモンスターなら、ウォーター・ライフルがビーム・ライフルになってもおかしくはないわけだ。

バチッ!

ギエエエエエエ

美しい桜色の破壊光線による思わぬ反撃にあって、モンスターは天を仰いで苦悶した。

「スゴイ!」

いちばん驚いたのは撃ったエリス自身だ。彼女は田んぼのあぜ道を走りながら、定価2500円のウォーター・ライフルを超特価999円で販売してくれたトイザマスに心から感謝していた。

「やっぱりおもちゃ買うならトイザマスよね!いくわよタレ虫!」

ビシュッ!

その時モンスターが口から黒い毒液を吐き出した。間一髪で体をかわしたエリスの傍らを飛んだ毒液は、ふりかかった背後の岩をジュウウウと溶かしていった。白煙をあげながらみるみる蒸発してゆく岩をしばし呆然と見つめていたエリスはいきなりきびすを返して逃げ出した。

「うええええん。こわいよ〜」

ついさっきまでの決意は一瞬で雲散霧消していた。エリスは潅木に身を潜めて縮こまった。こんな時はいつもエディーが来てくれるはずだ。だがここは桜の国だ。桜の木々が構築した異世界なのだ。さすがのエディーも易々と来られるわけは・・・とりあえずエリスは周囲を見渡してみたが・・・やっぱりそんなわけはない。並木の桜たちや徳島県民にこよなく愛される江戸桜を死の淵から救い出すためにはあのモンスターをこの手で駆逐する以外ないのだ。

エリスはもう一度みずからを奮い立たせ、ウォーター、いやサクラビーム・ライフルのグリップを握りなおした。

「負けるなエリス。負けるなエリス」

エリスは潅木に隠れながら渓流に沿って走り、タレ虫の側面へ回り込んでさらにサクラビームを撃ちこんだ。

ビビビビビビビビ!

ギアアアア!

サクラビームは確かに効いている。しかし猛毒が凝り固まって産まれたモンスターもしぶとい。太いトカゲに似たシッポを振り回し、周囲の木々や岩などをビームが飛来する方向へ飛ばしてくる。

軽自動車ほどもある岩がぶぅんとエリスの桜色の長い髪をかすめて飛び去った。直撃すれば一巻の終わりだ。

エリスはキャー!イヤー!と悲鳴をあげながら渓流に沿ってひたすら走った。

ビームを撃たなくてもこれだけ大きな悲鳴を上げれば身を隠している意味はない。モンスターの攻撃は次第に正確さを増してきた。

逃げている最中、何人かの村人に出会った。麦藁帽子をかぶった野良着姿のおじさんや、おばさん。学生服姿の少年もいた。

「逃げて!怪物が来ますから早く逃げてください!」

エリスは両手を振りながら大声で警告したが、みんな余裕の表情で微笑んでいる。エリスに対して会釈をして「ご苦労様」などと気の抜けた挨拶をする者までいる。

<そっか。あの人たちはみんなここら辺に棲む動物や木の精たちなのね>

ならばモンスターが来れば来たで素早く逃げることもできるだろう。だいいちモンスターは彼らには目もくれず真っ直ぐエリスを追撃してくる。どう見てもエリス狙いのようだ。

はぁはぁはぁはぁはぁ―。

エリスは肩で息をし始めていた。木々の間を縫ってジグザグに走ったため、桜色のまっすぐな髪がもつれ乱れて、見るからに消耗した感じを受ける。胸のサクラエナジー・コアも色あせてきたようだ。このままではいずれ走れなくなってモンスターの餌食になってしまう。

エリスは振り向きざまにサクラビームを放った。

ビビビビビビ!

だがキラキラ光る桜色の破壊光線はモンスターのはるか上方をむなしく飛び去っていった。

<当たんないよぉ>

いかに巨大な標的といえども、逃げながら振り向きざまの射撃では当たるものも当たらない。だが今のエリスに足を止めて荒い息を静め、ビーム・ライフルを肩づけにしてしっかりモンスターを狙う余裕など微塵もない。焦りが増すばかりだ。

<まずいでしょ。まずいわよ>

知らぬ間に川の中を走っていた。足首ほどの深さだが、思いのほか速い流れがエリスの足をもつれさせた。

逃げて逃げて、やがてエリスは大きな滝に出た。

「い、いきどまり。。。」

滝つぼの周囲は高い断崖となっており、濡れて苔むした高さ20メートルほどもある岩がそびえ立ってエリスを包囲していた。

ギシャッギシャッギシャッ!

振り返るとモンスターはそこまで追ってきている。シャレコウベの落ち込んだ目の奥が怒りで紅く光っている。

狩る者の本能で獲物を追いつめたことを悟ったモンスターは前足を振り上げて喜びの声をあげた。

上体を大きくそらせるや一気にエリスめがけてとびかかった。

「ひぃぃぃぃ!」

「トゥリィヤアアアアアアアア!」

その時森の中から緑色の光がモンスターめがけて奔った。

ガツン!

ドッポーン。

グエエエエエエ!

緑の閃光はモンスターの側頭部を直撃し、不意を突かれたモンスターは地響きと水しぶきを伴って川の中へ横倒しになった。

 

 

緑の閃光は渓流のほとりにふわりと着地するや、見る間に人の形になったではないか。

「イエエエエエィ!バトルならボクを混ぜろ!」

凶悪な巨大モンスターを一撃でひっくり返した緑色の男は胸を張った。

その時、横倒しになったモンスターの近くの水中から桃色の頭が浮き上がってきた。

「ひいん。ゴホ。いっぱい水飲んじゃった。。。ゲホ」

エリスだ。エリスはモンスターの襲撃から逃れようとして足を滑らせ、ひとりで川の中へ転落していたのだ。濡れた桜色のロングヘアがマスクにはりついている。

緑の男は川から上半身を出して岸へ上がろうともがく女の子を見つけて驚いた。

「あれ?エリスちゃん」

「ス、スダッチャー!?」

エリスも驚いた。横合いからモンスターに不意打ちを喰らわせた緑の男は超人スダッチャーだったのだ。

ふたりは互いを指差して同時に同じセリフをはいた。

「なんでこんなトコロにいるの?」

「だってココは桜の国だよ。ボクがいるすだちの国とはとなりあわせだからね。よく来るのさ」

そう言われてみればスダッチャーもすだちの木から生まれた精霊のような存在だ。桜の木たちとはだいぶ性格が異なるが。

エリスも自分がここに来た経緯をかいつまんで話した。

「なるほどね。だけどせっかくこの国で楽しそうな相手を見つけてすっ飛んできたのに、まさかエリスちゃんがいるとはね。ゴメン、ボクやめとくわ」

今までもスダッチャーはバトルとなるとエリスに叱られている。上半身を45度に曲げて「ゴメンナサイ」とお辞儀をするとその場を立ち去ろうとした。

「待って待って待って待って!待ちなさいっっっ!!!」

エリスは背後からスダッチャーの腕をむんずと掴んだ。

「やっちゃって。バトルしなさい!バトルしてください。スダッチャー様!」

驚くスダッチャーに構わずエリスは両手を合わせて拝むように頼んだ。

「お願い。今日だけはバトルしてもらっていいからあのモンスターをやっつけて。私、追われてるの。大ピンチだったの!」

スダッチャーの戦闘力はエディーに勝るとも劣らない。地獄で仏とはこのことだ。

見ると横倒しになったモンスターは、タレナガースそっくりの巨大な頭を振りながら再び立ち上がってきた。全身から怒りのオーラがメラメラと黒い炎のようにたちのぼっている。

「いいの?バトルしても怒らないんだね?ほんとにいいんだね?」

エリスの顔を覗き込むようにして念を押すスダッチャーがじれったく思えてエリスはつい声を荒げた。

「いいって言ってるんだからいいのよ!」

ヨッシャアアアア。

スダッチャーが嬉しそうにガッツポーズした。いつもはすごい剣幕でバトルを制止するエリスが今日はなんだかものわかりがいい。

ポキポキと指の骨をならしながらモンスターの方へ歩きかけて、スダッチャーはまた慌ててエリスのもとへ戻ってきた。

「桜色のエリスちゃんもすごく可愛いよ」

「いいから行け――――――!!!!!」

まるでヨーゴス・クィーンだわ。と内心思いながらエリスは叫んだ。

「オッケー!」

ヒュン!

スダッチャーは地面を蹴るとふたたび緑の閃光と化してモンスターにむかって跳んだ。

ガィィィン!

「ナニ?」

だが今度のスダッチャーパンチはモンスターの強靭な前足のブロックによって遮られた。愚鈍に見えるモンスターだが、スダッチャーの超スピードに遅れていない。

空中で回転してバランスを整えたスダッチャーは音もなく着地したが、その身体から伺えるものは驚愕。

しかしそれはすぐに愉悦へと変わった。

「これだ。これだよ、ボクがずっと望んでいたのは!」

この超人に躊躇という文字はない。

弾丸のようにダッシュするや、飛来するモンスターの鋭い前足のツメをかいくぐり、その付け根へ向けて渾身の錐揉みキックを撃ちこんだ。

さすがにグラリとモンスターの巨体がバランスを崩すとみるやスダッチャーはそこへパンチを続けさまに叩き込んだ。目で追えぬほどの高速パンチだ。

ベキッ!

モンスターの左前足が付け根からへし折れて飛んだ。

「ヤッター!」

いつもはスダッチャーのバトル嗜好に怒りまくるエリスも今日ばかりはヤンヤの声援を送っている。

むしりとられた前足の傷口からはどす黒い汁が迸り出ており、苦しむモンスターが身をよじるたび周囲の木々を侵食した。

劣勢に立ったモンスターはひるむかと思われたが、やおら残った右前足を己が鋭いキバで咥えると、一気に食いちぎった。

ギィヨオオオオオオ!

苦悶の声があがる。

敢えて両前足を失ったモンスターは後ろ足で立ち上がると天に向かって咆哮した。

すると。

メキ、メキ、メキメキメキ。

骨が軋むような嫌な音と共に、傷口から毒液にまみれて黒く光るナニかが出てきた。

先端が尖った鎌のようなそれは、ニョキニョキと両肩から伸びてきてふたたび前足を形作ったではないか。

さきほどのアリを思わせる前足と違い、今度のはカマキリを思わせる凶悪で巨大な鎌だ。いや、死に魅入られた獲物の首を一瞬で刈り取る死神愛用の鎌かもしれない。

「うそ・・・」

「スゲェ!」

困惑するエリスと歓喜の声を上げるスダッチャー。どちらがこの状況を正確に把握していると言えるのだろう?

唸りを上げて振り下ろされる巨大な鎌の切っ先を間一髪でかわしながら、スダッチャーはモンスターの懐深く侵入し神速の蹴りを喉元へ叩き込んだ。

一発。二発。三発。スダッチャーのつま先がモンスターの喉へ突き刺さる。苦し紛れになぎ払った鎌の前足がスダッチャーのボディを捉えた。ザックリとわき腹を切り裂かれて地面に叩きつけられたスダッチャーを今度は悪魔のキバが襲った。

緑色の体液を撒き散らせてスダッチャーが跳ね飛ばされた。無敗の超人のうめき声とエリスの悲鳴が重なった。

ギエエエエエエイイ!

言葉を持たぬモンスターの、それは明らかに歓喜の声だろう。勝利を確信したモンスターは、まるで米粒を指先でつぶすようなしぐさで釜の切っ先をスダッチャーめがけて振り下ろした。

だが素早く身体を反転させたスダッチャーはありったけの力を拳にこめて黒く光る鎌の刃に打ちつけた。

美しいほどに鋭く強靭な刃が中ほどから砕け散り、驚いたモンスターは鎌を振り上げたまま後じさった。

よろよろと立ち上がったスダッチャーは近くの杉の木に近寄った。

「枝を一本もらうよ」

親しい友人に話しかけるようにつぶやくと、数十センチほどの枝を根元からポキリと手折った。

右手で持ち、左の手のひらを枝に沿ってそっと滑らせる。小さな声でなにやら呪文を唱え始めた。

<トゥーデス・トゥーロイ・ジエネー・ミ・カイ・オーン>

すると枝全体が緑色に輝き出し、やがて一本のソードに変わった。

夏みかんほどもある大きなすだちの実が六つ連なったそれは、ソードというよりは魔法使いの杖のようでもある。

「すだちソード。オレ様のとっておきだぜ」

これを使わねばならぬほどの相手は久しぶりだ。スダッチャーのバトルパワーが刀身に満ちて輝いている。

ギイイ!

態勢を整えたモンスターが砕かれていないほうの鎌を振り下ろすが、スダッチャーは跳躍してその攻撃をかわすや、鎌の刃を足がかりにしてさらに高くジャンプした。

タレナガースの顔を飛び越えて首のつけ根にすだちソードを叩きつける。

グアアアン!

すだちソードの攻撃力は斬るというよりも触れるものすべてを粉砕するものだ。

まばゆい火花とともに爆発がおこり、モンスターの首が不自然に曲がった。キバの間から墨のような猛毒の体液が噴き出す。

スダッチャーは攻撃のターゲットをモンスターの首に集中させている。本能的に相手の弱点を見定めているのかもしれない。

大きなダメージに耐えきれず地面に突っ伏したモンスターの背に乗ったスダッチャーが、二度、三度とすだちソードを首筋に叩きつける。

グアンガアアン!

爆発と共にモンスターの首に容赦ない攻撃が加えられた。必殺のすだちソードによってスダッチャーは一気に優位に立った。

<とどめだ!>

スダッチャーはすだちソードを逆手に持ち直すと、モンスターの背から数メートルもジャンプし、ダメージをうけている首めがけて自らの体重ごと突き刺そうとした。

ぶぅん!

その時何かがスダッチャーの背後から飛来した。

ザクッ!

スダッチャーの身体が空中で静止し、すだちソードを持ったまま緑の超人は四肢をひきつらせた。

「な!?」

スダッチャーは自分の胸から突き出されている奇妙なトゲのようなものを見た。

それはモンスターのシッポの先から突き出されたヤリのような毒針だった。

攻撃に気を取られすぎて、大きく弓なりにしなったしっぽが音も無く背後に飛来していたことにスダッチャーはまったく気づいていなかったのだ。

すだちソードがスダッチャーのとっておきなら、この毒針はまたモンスターの奥の手だったのだ。

背から胸にかけて貫かれたスダッチャーは生まれて初めて敗北を予感した。

モンスターはブンとシッポをふり、スダッチャーの身体を放り投げた。

気まぐれな子どもに放り投げられた人形のように、スダッチャーは地面に投げ出されて呻いた。

だがモンスターも深刻なダメージを受けている。次の一撃が最後の勝負を決めるだろう。

モンスターは己が足で巨大な身体を支えることもできず、腹を地面につけたまま這いずっている。

ようやく振り上げた左右の鎌をスダッチャーめがけて打ちつけようとした、その時!

ビビビビビビ!

桜色のビームがモンスターの額に命中した。

木陰で戦況を見守っていたエリスが放ったサクラビームの援護射撃だ。

グゲッと呻いて動きを止めたモンスターに、最後の力を振り絞ったスダッチャーが仰向けに倒れたまますだちソードを投擲した。

ガァアアアアン!

爆発とともにすだちソードはタレナガース顔の額に突き刺さった。

「いまだ!あのソードを撃て、エリスちゃん!」

言われるままエリスがふたたびサクラビーム・ライフルのトリガーを絞る。まるで避雷針に落雷が吸い込まれるように、サクラビームがソードを伝わってモンスターの脳を内側から破壊した。

もはや声もなくモンスターは完全に横倒しになり、滝つぼの中へと落下した。

モンスターの上半身は完全に水没し、わずかに後ろ足と毒針を露出させたシッポだけが水面に出ている。

「ナイ・・・スだ・・・エ、エリスちゃ・・・」

か細いスダッチャーの声に振り返ると、緑の超人は天を仰いだまま地面に倒れている。

「スダッチャー!」

駈け寄るエリスの眼前で、スダッチャーの身体はまるで大地に吸い込まれる霧のように消滅した。

「うそ。スダッチャーが?」

 

 

エリスは桜の国の森の中で呆然と立ち尽くしていた。

桜色の空も・・・。

スダッチャーの身体が溶けて消えた大地も・・・。

滝つぼからニョッキリはえているモンスターの下半身も・・・。

エリスにとってはなんだか現実味がぽっかりと欠落しているように思えた。

エリスはモンスターを凝視した。

「おーい。死んだ?死にましたか?」

恐る恐る筋違いな質問をしてみるが、モンスターは動かない。

エリスは川の流れに近寄った。冷たい水にくるぶしまで浸したあたりで、突然その声が耳に届いた。

<ダメだエリスちゃん、それ以上近寄るな!そいつはまだ生きている!>

<え?>

今のは間違いなくスダッチャーの声だ。

「スダッチャー?生きているの?無事なら姿を・・・」

エリスはあたりを見渡したが、それらしい姿は認められない。

<水から出ろ!逃げるんだ!!>

ザザーン!

スダッチャーの警告と同時にナニかが水中から飛び出した。轟々と落ちる水の音を打ち消して盛大に水しぶきがあがった。

驚いたエリスはサクラビーム・ライフルを放り出して尻餅をついた。

「タ、タタタタレナガース顔!?」

そうだ。水中から飛び出したものはさきほどのモンスターの頭部だった。全長約3メートルもある巨大なシャレコウベだけが胴体から切り離されて空中を浮遊し、じっとエリスを見下ろしている。

深い闇を思わせる光のない両目だけがさきほどと変わりない。

エリスは急いでサクラビーム・ライフルを構えた。

あ―――――む。

頭モンスターが天を突くようなキバのはえた口を開けると、喉の奥から無数の赤い触手がひゅるひゅると伸びてエリスの持つビーム・ライフルを弾き飛ばした。

グァシャ!

ビーム・ライフルは銃身が折れ曲がり、エネルギータンク接合部が破壊された。コロコロとエネルギータンクが転がってゆく。

「ああん、トイザマスが」

ひゅるるる。

999円の愛銃が破壊されて嘆くエリスの両肩が触手によって絡められ、そのまま彼女は地面に押しつけられた。

「痛い!」

猛毒で構成された身体を持つモンスターの触手は触れただけでエリスのアーマを焼いた。ただれた桜エナジーのアーマから白煙があがる。針で刺すような痛みがエリスを襲った。

だが細い触手はまるで筋肉の束のようで力が強い。頭モンスターはゆっくりとエリスの真上に移動するや、キバを光らせて一気に降下した。

があああああああああ!

「きゃあああああああ!」

エリスはわずかに自由な右手で触れるものすべてを片っ端から憎きタレナガースの顔めがけて投げた。

石。

小枝。

土。

なんか変なもの。

草。

投げる投げる!

「へ・・・?」

ふと見るとエリスの眼前にまで迫っていた頭モンスターが動きを止め、ガハッガハッとなにやらもがいているようだ。見ると喉の奥に何かつっかえている。タンク・・・サクラビーム・ライフルのエネルギータンクだ。

さっき死に物狂いで投げつけたなんか変なものはこれだったのだ。

<そうだわ、あれを!>

エリスは押さえつける触手に逆らい最後の力を振り絞って立ち上がった。

「さぁ来なさいバケモノ!美しい桜の国に巣くうばっちいモンスターは私がやっつけてやる!バァカ!」

エリスは頭モンスターを挑発した。

「食べてみなさいよ、さぁ。この美貌なんだから私はきっと美味しいわよ!」

腰をくねくね振る。

言葉が通じるかどうかはわからぬが、動物や植物までもが擬人化される精神世界なら、言いたい事は伝わるはずだ。

ギョエエエエ!

かかった!

頭モンスターはかぁぁと口を開いたままエリスの上に覆いかぶさってきた。

鋭いキバをかわして、エリスは固めた拳を振り上げた。そして彼女の全身を覆うようにドデカい顔がずしぃぃんと地面に落ちた。

滝の音だけが再びあたりを支配した。

しかし、すぐに異音が割って入った。エリスをその大きな口の中に取り込んだモンスターの呻き声だ。

・・・ぐ・・・ぇお・・・ぐぇぇ、ぐええええああああ!

のけぞるように頭モンスターが地面から大きく後方へ飛び上がった。

その後には拳を天に向けて突き出したエリスの姿があった。

空中をでたらめに浮遊する頭モンスターは口から白い泡を噴きはじめた。

口だけではない。鼻の穴からも、両目からもだ。

まるで嘔吐しているかのようなうめき声をあげ、頭全体を激しく痙攣させている。

「いいざまよ」

エリスがぽつりと呟いた。

エリスは偶然口の中に投げ込まれてひっかかっていたサクラビームのエネルギータンクをパンチで喉の中へ叩き込んだのだ。

内部で破裂したタンクからあふれ出したビームエネルギーが頭モンスターを細胞レベルで破壊しているのだ。

巨大なフルボディのモンスターならいざしらず、スダッチャーの攻撃によって幾重にもダメージを受けていた頭だけのモンスターにはこの攻撃は十分すぎるほど効果的だったようだ。

ガガガキガギギギガガ。

ぶるぶると震え始めて、ついにガクリと力なく数メートル下の地面にまた落下した。

ぐしゃ。

落下の衝撃で頭モンスターは粉々に砕けて白い粉末の山になってしまった。

命がけの一発で腰が抜けたエリスはペタリと大地にお尻を落とした。

<やったね、エリスちゃん>

「スダッチャー、怖かった。で、あなたは無事なの?」

<ああ無事だよ。すごく消耗したから身体を維持できないけど桜の国はとても居心地がいいから回復するまでしばらく精神体のままでいさせてもらうことにしたんだ>

「そう、じゃまた会えるのね。よかった。でも・・・」

<でも?まだなにか心配事でも?>

珍しくスダッチャーがおとなしい。もちろん暴れるにもボディが無いから無理なのだが。

「江戸桜さんの治療中だったのよ。ある程度の効果はあってもなかなか完治させられなくて」

<でも今は特効薬を手に入れたじゃないか>

「え?特効薬?どこに?どんな?」

スダッチャーの意外なひとことにエリスは目を丸くした。

<それさ。モンスターのなれの果ての白い粉>

「え、これ?これがあの毒に効くの?」

中和剤を飲みこんで苦しがったあげく地面に落ちて粉みじんになったタレナガース顔の細かい破片・・・エリスはその傍らにしゃがんで人差し指で白い粉の山を突っついてみた。

<効きまくりさ。エリスちゃんならこの残骸から抗毒剤を精製できるはずだよ。じゃ、がんばってね>

そしてスダッチャーの声はそれきり聞こえなくなった。

 

(五)

桜の木の精たちが見守る中で、江戸桜はゆっくりと立ち上がった。

おおと感嘆の声があがり、周囲の喜びの観念がエリスとピピをやさしく包んだ。

<ありがとうエリス。おかげですっかりよくなった>

頭モンスターの残骸から精製した抗毒剤は予想以上の効果をあらわした。江戸桜の容態はみるみる良くなり、すっかりもとの身体に戻ったのだ。

エリスは傍らで微笑むピピの桜色の髪をやさしくなでてやった。

「今回ばかりはスダッチャーのおかげね、ピピ」

「うん。だけどマスターの役に立ててスダッチャーもきっと喜んでいますよ」

ピピお穣ちゃんがエリスに言った。

「え、あなたそんなことがわかるの?」

驚くエリスに何も答えず、ピピは「さぁ帰りましょう、マスター」とエリスの腕を取って歩き出した。

桜色の空がひときわ明るく輝くほうへ歩き出しながら、エリスは振り返った。

江戸桜はじめ百数十人の桜の木たちがこちらに手を振っている。ベッドの両側で彼の看護をしていた女性たちも、あの若いイケメン男性も、皆それぞれに笑顔で手を振ってくれている。

エリスも「じゃあね。また春になったら会いに来ます」と叫んで大きく手を振った。

その瞬間、目の前に光が充ちた。

「うわぁん、またまたあばばいよぉ」

思わず閉じた目を開いたとき、エリスはもとの村の、見事な枝垂れ桜の老木の前にいた。

満開である。近くに立つとそれはピンク色の大きな壁のようだ。

「来年もまた絶対来ましょうね、ピピ」

エリスの言葉にピピはしっかり「ワン」と応えた。

抜けるように青い空のもと、何もかもがもとどおりになった静かな山間の村を晩春の風が渡る。

エリスのクリアブルーの髪が風に踊った。

 

今日もサンキュー、エリス。

 

(完)