仮面ライダー響鬼外伝

鈴の蒼鬼 〜りんのそうき〜


(一)ヌリカベ退治

「大きゅうなった」

ひしめきあうように生い茂る若葉の向こうから、若い男の声がして、ひょっこりと若い女の顔が出た。

「ほんに大きゅうなった」

今度は若い女の声とともに若い男の顔が現われた。

「大きゅうなったなぁ」

並んだふたつの顔は、同じことを言ってにやりと笑った。

屈託の無い無邪気な笑顔である。巨木の中ほどにあるなかなかに太くたくましい枝の上にふたりはいた。地上からは約5メートル。

感慨深げな若い男女が見下ろしているのは、大きなバケモノだった。

巨大な団扇に木の表皮を纏ったような珍妙なる姿、頭部は比較的小さく生白い軟体動物のようだ。

ヌリカベという魔化魍である。

山中で突然旅人の前に立ちはだかって脅かすという迷惑な妖怪だが、さらに困ったことに人が好物なのだ。

体の表面を左右に開いて獲物を捕食する。完全に成長すれば10メートル近くにまでなるであろうが、この大きさならじゅうぶん人を喰らう。

クォォウ!

ヌリカベは、身悶えするようにひとこえ鳴いた。

「どした?」

「腹が減ったんか?」

バケモノを愛しそうに見下ろす怪しの男女が、小首をかしげて話しかけた。むずがる我が子をあやすような猫なで声だ。

「さっきイノシシ喰うたでないか」

クゥオオ!

ヌリカベがもうひとこえ鳴いた。

「そうかそうか。わかったからそう急ぐでない」

「今からゆこう。里へ行って人を喰らおう」

静かに言うと、若い男女は枝からひょいとヌリカベの左右の肩に飛び移った。華奢な体つきである。どこで手に入れたものか、艶やかな柄物の布地を、まるで南国のパレオのように全身に巻きつけている。頭部にはターバンのように、腰には腰蓑のように、また違った色合いの布が巻かれている。女の方は青やら赤やら黄色やらの玉を連ねた首飾りをかけていて、ふたりとも異邦人の如きいでたちだ。ヌリカベの頭部からにょっきりと生えてくねくねと蠢く2本の触覚を左右からくいと掴んで体のバランスを取り、もう一方の掌を目の上に水平にかざして遠くを見た。

「里はあっちじゃわ」

女声の男が指差す方へ、ヌリカベは移動し始めた。数メートルもある巨体の割りに軽々と進むが、重さで地面が掘り下げられて通った後に溝を作ってゆく。進路上の木や草はメリメリと音をたてて潰されていった。まるで妖怪ローラーである。

キィィィィ。

その時、ヌリカベの眼前を何かが走った。赤い…鳥?

山鳥のようだが、羽ばたかず、空中を滑るように飛ぶ姿からは生き物のイメージが全く伝わってこない。全身は真っ赤である。

「むっ」

それまで笑みを絶やさなかったヌリカベの上の男女の表情が急に険しくなった。本性見たり。

「鬼じゃ」

「鬼じゃ」

くぃと触覚を引いてヌリカベの動きを止めると、あたりの気配を探り始めた。

その時、森の中からひとりの男がふらりと現れた。

さきほどの赤い鳥は、男の頭上へ飛来するとくるりと回転し、薄い円盤に変形した。

「ご苦労さん」

円盤は、森の中から現われた男の手の中へとダイレクトに収まった。濃紺のウィンドブレイカーにジーンズ。シンプルな白いスニーカーを履いている。山歩きのガイドでもやれば人気が出そうなやさしい雰囲気をまとっているが、見上げるようなバケモノを前にして平然としていられる胆力は並みの人間のものではあるまい。

男は平然とヌリカベの正面へと進んだ。微笑むと口の端にえくぼができた。

「大きくなったなぁ」

誰かと同じことを言う。が、言葉に込められたものは全く違っている。ヌリカベの肩の上から見下ろす男女は、両のまなこから炎を吹き出さんばかりの剣幕でこの物静かな男を睨みつけている。両者は互いに対極に位置する存在なのだ。

「困ったやつらだ」

男は腰に巻いたパウチから何やら取り出して額にかざした。

鈴である。それも、神道で巫女が舞う折に用いる神楽鈴に似ている。

シャン!

ぶどうの房を逆さにしたようなツリー状の鈴をひとふりすると、澄んだ音が幾重にも重なりあってあたりに鳴り響き、木々の間を何度も何度もこだました。

キュワン!

鈴の音に包まれたヌリカベが苦しげな呻き声をあげ、肩の上の男女が耳を塞いで顔をしかめた。

鈴をかざした男の額が金色に光りを放ち、光の中から牙をむいた憤怒の形相の鬼の顔が浮かびあがった。

突然男の足元から勢いよく水が吹き出し、水の柱となって男の体をすっぽりと覆い隠してしまった。立ち昇った水柱は激流となり渦を巻きはじめたが、「てぃやあああ」という裂ぱくの気合とともにその水は四方へ飛び散り、中から異形の人影が現われた。

「鬼じゃ」

「鬼じゃわ」

男女が指差して騒ぐ。まるで古くからのしきたりを破った罰当たりな者を蔑む年老いた村人たちのように。

彼らの言葉通り、男は鬼に変身していた。額にはさきほど浮かんだ鬼の顔があり、さらに頭部には天を脅かすかのごとき銀色に光る一本の角。全身は薄いブルーで、肩といわず腕といわず腹といわず、隆々と盛り上がった筋肉が見事なラインをかたどっている。胸部には左右よっつずつの、鈴を模した鎧状の防具がつけられている。

「ここまでだ。童子、姫」

鬼は拳を固めると、眼前の魔化魍めがけて猛然とダッシュした。

「シャアア」

「ギョオオ」

童子、姫と呼ばれた異国の衣を纏った若い男女は、見る見るどす黒いミイラの如きバケモノへと姿を変え、ヌリカベの肩から真っ直ぐに鬼めがけて降下した。

「お前はこのまま里へ行くんじゃ」

「行って人を喰らうんじゃ」

背後の「我が子」に言い残し、ふたりは鬼めがけて牙を、爪をつきたてようと飛びかかった。

「しゅ!」

鋭く息を吐いた鬼は、神速で飛来する鋭い乱杭歯を紙一重でかわすと、たたらを踏む童子の背にパンチを叩き込んだ。つづいて刃物のごとき爪をつきだした姫の手首を片手で押さえると、その腕を素早く肩でかついで体を反転させ、一気に放り投げた。

手練の早業を見せる鬼の前に、ふたりのバケモノどもはなすすべなく地面にころがって呻いた。しかし、童子たちの闘争心は並々ならぬものであった。

「可愛いあの子が人里にたどりつくまで、何としてもこの鬼をここで足止めしなければならぬ」

「そうじゃ。1分1秒でも長く」

かぁぁぁぁ!

恐ろしい邪気を口から吐くと、両名はふたたび立ち上がった。

「悪いが、ゆっくり遊んではいられない。決めるぜ」

鬼は、去って行くヌリカベの後ろ姿をちらりと見、今度は彼の方から仕掛けていった。

拳から4本の槍のような鬼ヅメを伸ばすと、容赦なく姫の胸部に突き立てた。胸を貫かれた姫は、よっつの傷口から白い体液を迸らせて声も無く崩れ落ちると、ドォンという破裂音を残して消し飛んだ。

相棒の最期にひるんだか、一瞬動きを止めた童子めがけて、鬼は細長い小柄を投擲した。腕のひと振りで投げられた小柄は2本。それらは見事に同時の左右の腕の付け根に深々と刺さり、腕の自由を完全に奪い去った。

2本の小柄の柄の先端にはそれぞれ小さな鈴がついており、鬼が印を結ぶや、垂れ下がっていた鈴は地面と水平に持ちあがり、細かく揺れ始めた。

りりりりりりりりりりりり。

間断なく響く可愛らしいその音色は、あらゆる悪しき物を祓い清める清浄なる力を伴って童子の体内に流れ込んでいった。

「く・・・くわぁぁぁぁ」

ドォン。

意味を成さぬ断末魔をあげて、童子もまた内部から破裂して果てた。

シャン。

いかなる術力によるものか、吹き飛んだ鈴の小柄は再び鬼の手に返ってきたではないか。鬼は小柄の刃に付着した白い液体を指先で丁寧にぬぐうと、腰のベルトにもどした。

「さて、これからが本番だ」

ヌリカベが逃げ去っていった方角をきっと睨むと、その溝の後を猛然と追っていった。

 

眼下に小さく家並みが見えている。

クヮッキュ!

ヌリカベは喜びの声をあげた。

人が喰えるぅぅぅぅ。

その時、背後から激しい衝撃が襲いかかった。

背を打ち据えたものは、そのまま自分の頭上でトンボをきって、進路を遮るように軽やかに着地した。

「だめだって言ってるだろ」

さきほどの鬼である。

とにもかくにも、腹が減っているのだ。人が喰えないのなら、目の前の鬼を喰らってやる。ヌリカベは体の前を左右に開いて内部の口を開いてみせた。

「いいぜ、喰えるものなら喰ってみな」

鬼の全身から殺気が湯気となって立ち昇った。

鬼は開かれたヌリカベの口よりも高くジャンプすると、地上数メートルのあたりにある頭部へ重い拳を撃ち込んだ。

ギョエリュリュ。

上体をのけぞらせて歩みを止めたヌリカベの足元へ、鬼はさきほど童子を仕留めた鈴付の小柄を打った。右に1本、左に1本。そして今度は頭部の、人で言えば眉間にあたるあたりに1本。いずれの鈴も何かに引かれるように大地と水平に持ちあがり、細かい振動とともに絶え間ない鈴の音を打ち鳴らし始めた。

鬼は短く印を結ぶと、背中に括り付けてある刀をすらりと抜いた。刃渡り30cm。まるで自らが光を発しているかのような神々しい輝きに満ちている。神刀「魂魄」。この刀の柄に、鈴の絵がデザインされたベルトのバックル「絶花」を重ねあわせると、平面のバックルは不思議な光と共に立体的に膨れ、こぶし大の本物の鈴へと変化した。さらにその鈴は紅白のひもで魂魄に繋がり、じゃらんと音を立てて柄の先端からぶら下がった。

「いくぞ。音撃鈴 寿々鳴〜すずなり〜」

柄に絶花を垂らした神刀魂魄を真っ直ぐ前に突き出して構えた鬼は、そのままヌリカベの体の中心めがけて一気に踊り込んだ。

体の3点に打たれた小柄の鈴の音に苦しみながらも、喰らうという本能だけは衰えぬとみえ、ヌリカベは体の前面を開くと、飛び込んで来る鬼を口の中へと導いた。

左右に開かれた口が素早く閉ざされ、鬼はヌリカベに丸呑みにされてしまった。

クォックォ。

大きな餌にありついて満足そうな声をあげたヌリカベの体が一瞬凍りついた。体に打たれた鈴はまだ宙に漂っていて鳴り止もうとしない。それどころか振動は次第に速くなり、鈴の音は次第に大きくなる。

りりりりりりりりりりりりりりりりりり

やがて体に打たれたみっつの小柄を青い光の線が結び、巨大な三角形がヌリカベの体表に浮かび上がった。そしてその中心に青く大きな鈴のマークが現われたではないか。さきほど鬼が呑まれたあたりだ。

キュアッ!

刹那、ヌリカベの体は内側から大きく膨張し、ぐおおおんという爆音とともにあっけなく破裂した。

飛び散った魔化魍の肉片が舞い散る中に、刀を構えた鬼の姿だけが残っていた。

彼の元へ返ってきた3本の小柄をベルトに納め、神刀を背の鞘に収めた鬼はふぅと息を吐くと里を振り返った。

「結構きわどかったな」

眼下に見えるいくつもの茅葺き屋根を眺めて鬼はつぶやいた。

しゅああああ。

鬼の頭部が光に包まれるや、それはふたたび先ほどの男の顔に戻った。男は携帯電話を取り出すと、鋭い爪の先端で器用にボタンを押した。

「あ、館長。蒼鬼です。ヌリカベは片付けました。ええ。人里の手前まで来てしまいましたが、何とか間に合いました」

蒼鬼・・・それがこの鬼の名であった。

ぴぃぃぃぃぃ。

抜けるように青い空を山鳥が弧を描いて飛んでいる。さきほど円盤に変形した赤い鳥とは違って、生命の躍動感に満ち溢れている。

蒼鬼は携帯を耳に当てたまま、眩しそうに空を仰ぎ見た。

「はい。木根さんが?ほぉそれは・・・わかりました。これから行ってみましょう」

パチン、と携帯電話をたたむと蒼鬼はもと来た森の方へ小走りに去っていった。

破裂したヌリカベの肉片は、山を渡る涼風に舞っていずこともなく消え去った。

音撃鈴

(二)木根さんの山

明るい春の日差しが吉野川上流の渓谷美を一層際立たせていた。川面は上質の翡翠を思わせる深く上品な緑色。くわえて両側の崖上に咲くミヤマザクラの白く可憐な姿が、渓谷にこの時期特有の彩りを添えていた。

緑色の川面をすべるように進む遊覧船の中では、2列に座った30名ほどの乗客たちがそそりたつ断崖を見上げて歓声をあげていた。携帯電話を掲げて写真を撮っている若者も何人かいる。

天にそびえる剣山とともに徳島県民の精神的な象徴として敬われてきた吉野川は、いにしえより「四国三郎」と呼ばれ畏れられた暴れ川でもある。けっして枯れることの無い豊かな水量と見事な川幅を誇る下流域と異なり、上流であるこの辺は、両側を結晶片岩の切り立った崖に挟まれた日本有数の渓谷となっている。上流の川幅は狭く、遊覧船コースの鏡のようにおだやかな流れの場所もあれば、すぐ近くには白波をたてる激流が渦を巻き、ラフティングに最適なポイントもあって、観光客をさまざまに楽しませる。

川の片側の崖の上を走る国道をはさんで、平屋作りの木造の建物がある。それが剣山民俗博物館である。

剣山民俗博物館は、剣山を仰ぎ見ながら代々生きてきた人々の生活を今に伝えるため、さまざまな民具や遺跡、伝承などを紹介する施設である。

背後にはこんもりとした里山が迫り、中腹に氏神を奉る神社の鳥居が見える。

「館長」

訪れた数人の来館者を集めて、昔の農耕具について説明していた中年の男が振り返った。

「お話の途中失礼します。あの、少しよろしいでしょうか?」

遠慮しがちに声をかけたのは博物館学芸員の篠目亜沙子であった。亜沙子はグレーのトレーナーにジーンズ、作業用の麻のエプロンをつけている。

彼女の意味ありげな視線に何か察したか、男は来館者に「ちょっと失礼します」と会釈すると亜沙子に近づいた。

「どうかしたか?」

「烈鬼くんのディスクアニマルが帰ってきました」

「ディスクアニマルだけが先行して帰還するとは珍しいな。何か大切な情報を持たせてあるのかもしれん。すぐ解析してみよう」

「はい」

ふたりは足早に地下への階段を降りていった。

剣山民俗博物館はもうひとつの顔を持っている。人知れず魔化魍を退治するための全国的組織「猛士」の四国支部、その秘密基地であった。

その地下には「資料室」と称して、さまざまな魔化魍のデータや、情報分析システム、ディスクアニマルや武器の修理、開発機器などがところ狭しと置かれている。もちろん、部外者立ち入り禁止である。

テーブルの上には2体のディスクアニマル「アサギワシ」と「キアカシシ」が並んで待っていた。

入室した男を認めると、2体のディスクアニマルは嬉しそうに2、3度跳ねると、くるりと円盤形に戻って彼の手の中へと飛び込んだ。

頼りになる鬼の相棒ディスクアニマル。それはメカニックでありながら魂を持ち、敵と味方を識別するどころか、一定の知能を有し喜怒哀楽の感情までも表現できる。かつて陰陽師安倍晴明がよく使ったとされる式神の現代版とでもいったところか。

「館長宛ての親展だったのね」

「うん。俺の顔を見るまでディスクに戻らずじっと待っていたか。ご苦労だったな」

男は目を細めて2枚のディスクを撫でながら静かに語りかけた。まもなく48歳になるこの男、滝多可也は当博物館の館長であり、猛士四国支部の支部長である。薄い茶色のポロシャツにグレーのズボンといういでたちは、ぼさぼさの頭髪やあごにはえた無精ひげと絶妙にマッチして、どこからどう見てもその辺にいる冴えないオヤジなのだが、かつては音撃鼓を使う鬼として一線で活躍した経歴の持ち主でもある。ディスクアニマルの扱いは心得ている。

「烈鬼くんは今、オオウナギを追っているんだったね」

「はい。その途中、偶然入手したデータだそうです」

「なるほど、そいつは興味をそそるね」

「烈鬼くんから電話連絡がありました。調べて欲しいデータはキアカシシが持っているそうです。聞きなれない音だから調べて欲しいって」

「それじゃあ、ワシはシシを乗せてここまで飛んできたってわけか。大変だったなぁ」

滝はポータブルタイプの再生装置をパソコンに接続すると、キアカシシのディスクを装置の中央にセットし、高速で回転させた。

GYOGYOOOOOO〜!

突然耳障りな音がパソコンのスピーカーから流れてきた。

「わっ。何、これ?」

亜沙子が耳を塞ぎながらつぶやいた。魔化魍には違いないが、どの種なのか特定できない。

「こいつは・・・確かに聞き覚えが無いシグナルだな」

さすがの滝も首をかしげた。

「ええ。烈鬼くんはノツゴに似ているって言っていましたが、でもどこか違うって。聖依子さんもなんだか嫌な予感がするそうです」

「よし。すぐ資料を調べてみよう。亜沙子は念のためこの音声データを吉野へ送ってくれ」

「わかりました」

滝はそう言うと、資料室の更に奥にある扉の向こうへと姿を消した。

 

膝あたりまで伸びている雑草の中を、人一人が辛うじて歩ける程度の道が設けられている。道と言っても、ただそこの草を刈り取って足元が見やすくなっているだけのことなのだが。

ブロロロロォ。

その道が消えている所…すこし先にあるブナの林の奥からエンジン音が聞こえ、やがて大きなトレールバイクが1台飛び出してきた。ライダーが被るヘルメットが春の陽光をキラキラと反射させる。

エンジン音ではなく、その反射光でバイクに気づいたか、丸太を組み合わせて建てられた小屋の前で切り株に腰を下ろして茶をすすっていた老人がゆっくりと腰を上げた。首に巻いた手ぬぐいで顔をふき、バイクが来る方へ歩き出す。煤で黒い顔はほころんでいた。

丸太小屋の隣にはトタンで囲った釜があり、煙突からは黒い煙が上がっている。炭を焼いているのだ。

トレールバイクは雑草の中の小道にそってゆっくりと丸太小屋に近づくと、老人の少し手前で停まった。ライダーはヘルメットのシールドを上げて大きな声で挨拶した。

「お久しぶりです。木根さん」

こちらも笑顔である。互いに今日の再会を楽しみにしていたとみえる。

「蒼鬼さん。わざわざ来てもらってすまんねぇ」

「いえいえ。会えるのを楽しみにしていました。今年も春が来ましたねぇ」

「そうじゃのぉ。まぁ、春というても山の中はこの通りまだまだ冷えるけんどな」

木根老人の言う通り、標高1000メートルを越えるこのあたりは、下界よりもかなり気温が低い。5月下旬ではまだまだ冬の冷え込みが続く。

「セツさんもお変わりなく?」

「ええ、ええ。あいつも蒼鬼さんに会いたがっとるわ。もうじき昼の弁当持って来よるじゃろ。蒼鬼さんのぶんも作っとるでよ」

「本当に?やった。バイクを飛ばしてお昼前に来た甲斐がありました」

ふたりはひとしきり世間話などをして旧交を温めた。

20分ほど後、ブナ林の向こうから小さな人影がひとつ現れた。それはまるで絵のようにいつまでも同じ風景のように思われたが、小さな人影はほんの少しずつ、着実に蒼鬼たちの方へ近づいてきていた。

「おう来たわい。これ、もっと早よう歩かんかい。早よう」

木根は腰に片手をあてて雑草の中を歩いてくる老いた妻をずっと微笑みながら見ていた。

木根の家からこの炭焼き小屋まで、彼らの足で片道約30分。70歳近い彼ら老夫婦には決して楽な道のりではない。それでも毎日、ふたりは互いを気遣いながらこの道を行き来しているのだ。

「セツがここまで来られんようになったら炭焼きも終わりじゃ」

木根が独り言のようにぽつりと言った。

「そしたらワシも、一日中あいつと一緒に家におったらなあかんけん」

蒼鬼は木根の横顔を黙って見つめた。それは蒼鬼に聞かせた言葉なのか、それとも自分自身にであったのか。木根はその後セツが到着するまでひとことも口を開かなかった。

山での暮しは生易しいものではない。街から離れている、というだけでも何かと不便なことが多いが、冬の寒さや積雪、野生動物の脅威など、戦わねばならぬものが当たり前のように身近にある。くわえて、木根の家は代々剣山一帯に出没する魔化魍とも戦ってきた家系である。木根老人の父親によると、彼の曾祖父は鬼であったそうだ。だが、その息子は鬼の修行に耐えられず、戦いの一線から退いて鬼をバックアップする「歩」の仕事に就いたのだそうだ。だが、木根夫妻には子供がいないため、その家系もここで絶える。

割烹着姿のセツが小屋の前に着いた。日本手ぬぐいを姉さん被りにし、手には大きな風呂敷き包みを下げている。ずっと前かがみで歩いてきた体を一度ゆっくり反らせると、笑顔で蒼鬼に挨拶した。

「よう来てくださったな、蒼鬼さん」

「セツさん。今晩またお世話になります」

蒼鬼は立ち上がって会釈した。

「そんなひと晩なんて言わんと何日でも泊まってってくれたらええのに。のう月の輪よ」

セツはそう言うと、蒼鬼のトレールバイクのタンクをなでながら肩をゆすって笑った。月の輪とは、このバイクの名である。

「阿呆。ここ何年か魔化魍もようけ出てきよって蒼鬼さんら鬼のお方も忙しいんじゃ。ウチみたいな汚い所に何日も足止めしてどないするんじゃ。しょうもないこと言うとらんと早よう弁当をよこさんかい」

木根の剣幕に「はいはい」と風呂敷包みを手渡したセツは、茶を入れに小屋の中へ姿を消した。

残った木根は「すんませんねぇ」と照れ笑いを浮かべながら、受け取った包みを解いた。中には竹の皮でくるんだ弁当がふたつ。そのうちのひとつを木根は蒼鬼に手渡した。

蒼鬼は宝物のように両手で恭しく弁当をいただくと、竹の皮の包みを開いた。中身は、大きな山菜おにぎりがふたつと山菜のかき揚げ、そしてアメゴの甘露煮がひとつずつ並べられている。他の鬼たちが知ったらくやしがるだろう。セツの料理はどれも絶品である。特に、今日のようなどこまでも広がる青空の下で食べるセツの弁当は、シンプルだがこのうえなく旨い!

「いただきます!」

蒼鬼は山菜おにぎりにかぶりついた。山菜の香りが鼻孔をくすぐり、シャキシャキした歯ざわりが心地よく体内に響く。

「くぅ〜旨い。セツさんの作るお弁当はいつも最高だ」

両頬にえくぼを作って喜ぶ蒼鬼を見ながら、木根も自分のおにぎりを口に運んだ。口には出さぬが、確かにセツが用意する食事は、自分にとっても元気の源に違いないと思っている。

「ごめんなさいねぇ、蒼鬼さん。今回は急に来ていただくことになっちゃったからロクなお弁当が作れんかったわ」

小さな丸い盆に、番茶が入った湯呑みをみっつ乗せてセツが小屋から出てきた。口の中一杯に飯をほおばっていた蒼鬼は「いえいえ」と言えず「ふげふげ」と呻いた。

「ほんまに、いつまでも気が利かんばあさんじゃ」

木根はつぶやいた。セツは微笑んだまま木根のとなりに腰を下ろして同じように番茶をすすり始めた。いつかこの場所で彼らの姿が見られなくなる時が来るのだろう。もしかしたらそれはそう遠い先のことではないのかもしれない。蒼鬼はふたりの横顔と手にある山菜弁当をしばし見つめていたが、再びおにぎりを口に運び、今度はゆっくりと噛みしめて食べた。

 

「ここですわ」

木根が指差す先には立派な杉の木がそびえている。高さは50メートル、幹の太さは12〜3メートルもあろうか。木根が言うには、樹齢1200年以上だそうだ。

「確かに結界にほころびができていますね」

巨木を見上げて蒼鬼がつぶやいた。

鬼たちは定期的に山に結界を張る。魔化魍が人の生活圏に入り込まぬようするためだ。木根夫妻の所有する山には特に念入りに張る。情報収集活動の一環として、敢えて危険な深みへと足を踏み入れる「歩」のメンバー達は、鬼達にとって最も守るべき大切な仲間でもあるからだ。

山には聖なる気を発する場所がある。それが樹木の場合は、人々から「ご神木」として崇められたりする。今ふたりの目の前にそびえたつこの立派な杉の木がそれだ。結界の流儀は鬼の得意とする音撃によってさまざまだが、蒼鬼は鈴を使う。こういった聖なる気を発する場所を巡って鈴を置き、その鈴の音によって周辺に結界を張るのだ。一度張れば通常は1年以上もつはずだ。

それが・・・。

「この前蒼鬼さんが結界を張ってくださったのは去年の11月でしたもんねぇ。まだ半年しか経っとらんのに・・・。何があったんじゃろう?」

「ええ。確かに早すぎますね」

―――それに、こんな破られ方は初めてだ。

目で見てわかることではない。感じるのだ。

蒼鬼は妙な胸騒ぎを覚えた。この結界の破れ方は尋常ではない。なにやらとてつもなく邪悪な気が、結界の清浄なる気の壁を「こそげ取っていった」ような感じなのだ。

「魔化魍の仕業にはちがいありませんね」

「やはりそうですか。しかし蒼鬼さんの結界術をこんなふうに破れる魔化魍とは、何じゃろうか?」

木根老人も首をひねった。彼ほどのベテランともなれば、山の喜怒哀楽を感じ取ることができる。結界によって山全体が浄化された時などは、山がハツラツとしているし、魔化魍が現れた時は恐怖ですくんでいるのがわかる。山の一部の結界が破られて、そこから何やら嫌な気が流れ込んでいるのを、今回木根は野生動物の妙な動きで感じ取った。互いにテリトリーを認め合い、不必要に争いを起こさぬよう棲み分けているはずの動物たちが、山の半分にひしめきあっていた。皆、何かから逃げてきたのだ。山のもう半分のエリアで何か異常が発生したとしか考えられなかったのだ。

「何やら這うように尾根から谷へ移動したようですけんど、はて?」

「ディスクアニマルを放してみましょう。それよりまずは結界の張りなおしです」

蒼鬼は、腰のパウチから神楽鈴を取り出して額にあて、手首のスナップで鈴を鋭く振った。

シャン!

鈴の音が、鍛え上げた蒼鬼の肉体に内包されるエネルギーを増幅させてゆく。鈴をかざした額に金色に輝く鬼の顔が浮かびあがり、足元の大地から激しく水が迸り出た。噴出する水柱は、一瞬蒼鬼の全身を覆い隠すほどになったが、内側から裂ぱくの気合が発せられて水流を弾き飛ばすや、そこには異形の鬼が立っていた。

鬼となった蒼鬼は、月の輪の荷台に据え付けたツールボックスからひと束の鈴を取り出して左手に乗せた。親指の爪ほどの小さな可愛らしい鈴が十数個、和紙で作った細いこよりでひとつに束ねられたものだ。

蒼鬼が右手で印を結ぶと、手のひらの鈴がカァッと光を放ち、見えない何者かに操られるかのようにふわりと宙に浮き上がった。そして、ゆっくりと杉の巨木の中へ吸い込まれるように消えていったではないか。

「おお。山の空気が清められていきます。山が喜びよるわ」

木根が歓声をあげた。長年山を知り、鬼の力を見、魔化魍の恐ろしさを思い知らされている木根だからこそ、この結界術の素晴しさがよくわかるのだ。

「いえ、木根さん。今回はもう少し念入りにやろうと思います」

蒼鬼の言葉に木根は困惑の表情を浮かべた。

「念入りって・・・まさか、蒼鬼さん?」

「はい。凄鈴浄華の陣を張ります」

 

山の深奥部。ちょうど蒼鬼が張り巡らせた結界の中央に位置する地点に滝がある。

滝壷の近くから見上げれば、20メートルほどもある垂直な崖の上から真っ直ぐに水が落ちてくる。恐らく木根夫妻と猛士のメンバー以外、誰もその存在を知らぬであろう滝には、正式な名など無い。ただ、木根老人が「神様のお滝」と呼んでいたので、蒼鬼たちも皆そう呼んでいる。

神様のお滝の前には、注連縄をかけられた瓜のような形をした高さ1メートルほどの石が置かれており、この滝を御神体として奉っていることがわかる。濡れて光る岩肌にロープが1本張られている。よく見れば滝の裏側へと続く細い道が作られている。ロープをつかんで進むように作られているのだろうが、よほど細心の注意をはらわねば一瞬で足を滑らせ、滝壷へ落下してしまうだろう。道の幅は10センチほど。大人がようやく足を置ける程度しかない。

「木根さんはここで待っていてください」

蒼鬼はそう言うと、老人と月の輪をしぶきが届かぬ林に残したまま滝壷めがけて歩き出した。

その背を、木根が呼び止めた。

「本当になさるんか、あれを?わしらのことだったら気にせんでもええんですよ。魔化魍が必ず来るとは限らんし、どうせもうじき引退する年寄りじゃ。蒼鬼さんが力を使い果たしてしまうようなごっつい術を使うてもらうほどのことはない。第一、さっき結界を張り直してもろうたからわしら安心しとりますけん」

「あれ」とは、蒼鬼が使うと言った「凄鈴浄華の陣」のことであろう。木根は、蒼鬼がこの技を自分たちのために使うことにかなり恐縮しているようだ。

「気にしないでください。木根さんご夫婦もそうだけど、僕はこの山が好きなんです。わずかでも魔化魍に侵されるのは我慢がならないんですよ」

そう言うと、蒼鬼は注連縄をかけた石の横を過ぎ、滝の水が流れ込む溜まりの中へ足を踏み入れた。じゃぶじゃぶと音を立て、奥の滝壺へ近づいてゆく。くるぶしが水につかり、すねがつかり、太ももの中ほどまでを冷たい湧き水に浸し、蒼鬼はふぅと息を吐いていったん全身の緊張を解いた。

眼前の滝の水は艶やかに光り、まるで絹織物のようだ。水の勢いで激しく泡立つ滝壺は、5メートルほどの深さがある。へたに巻き込まれたら、息が続くうちに浮上するのは至難の業であろう。

蒼鬼の全身にふたたび強い気が満ち始めた。もし今ここに、人の「気」というものを映像化できる機械があるとしたら、蒼鬼の体内で血流以上に熱く早く全身を駆ける不思議なエネルギーの奔流を探知することができたであろう。駆け巡る「気」の熱量は周囲の水を蒸発させるほどに高まり、蒼鬼の全身から湯気となって立ち上らせ始めた。鬼となった蒼鬼の体はゆらゆらと霞み、まるで神の滝が浮かび上がらせた陽炎のようである。

蒼鬼は両手でいくつかの印を結んだ。

―――オンマリシエイソワカ・・・。

唱えれば敵から身を隠し守られると言われる摩利支天を108回唱えた後、蒼鬼はベルトに挿してあった鈴のついた小柄を1本取り出して、滝の向かって右側の岩面へ投擲した。軽く腕を振って投げたにもかかわらず、小柄は音も無くなめらかに硬い岩の表面に突き立った。そして反対側へも1本。さらに彼の背後の地面へも左右1本ずつ。岩や地面に刺さった4本の小柄につけられた小さな鈴は、滝の振動を受けてチリチリと鳴っている。

蒼鬼は背の神刀「魂魄」をすらりと抜くと、ベルトのバックル「絶花」をはずして刀の柄にそっとあてがった。発光し、たちまちこぶし大の本物の鈴へと変化した「絶花」は、紅白のひもで魂魄の柄の先端に繋がってじゃらんと鳴った。

蒼鬼は呼吸を整えると右手に持った刀の切っ先を水につけ、刀身をひしゃく代わりにして水を前後左右4本の小柄と鈴にぴしゃぴしゃとかけた。

最後に魂魄を片手で上段にふりかぶり、無言の気合と共に胸前へと振り下ろす。もう一度。さらにもう一度。

周囲にはただ滝の水音だけがひびき、鬼の素振りは静かに黙々と繰り返された。背後でただ見守るだけの木根老人は、すさまじい気合が発せられるのを感じ取っていた。と同時に蒼鬼の体力がみるみる失われてゆくのもわかる。老人は濡れた地面の上にひざまづいてこうべを垂れ、両手を合わせて拝み始めた。

その老人の耳にも鈴の音が届いてきた。小柄についた4つの鈴の音・・・ではない。蒼鬼が振る魂魄につけられた絶花の音・・・でもない。山から・・・?

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRR―――

そう、この鈴の音は山全体から響いてくる。蒼鬼が結界を張り巡らせるために各所で埋めた鈴たちが、滝の鈴に共鳴しているのだ。

いよいよ「凄鈴浄華の陣」が山全体を包んでその効果を発揮し始めたのだ。それは、結界を建物に例えるなら、外周に張りめぐらせた柱を強い梁で補強するようなイメージであろうか。

刃渡り約30センチほどの神刀を右手一本で振り続ける蒼鬼の姿を目にする者がいれば、密教の行者が修行していると勘違いするかもしれぬ。

日がだいぶ西に傾いた頃、蒼鬼の「凄鈴浄華の陣」は完成した。山ひとつを自らの音撃の術下に取り込んだ時には、蒼鬼の体力低下は限界を超えていた。

最後の一振りを終えた時、蒼鬼はそのまま冷たい川の水の中で崩れるようにひざをついた。

「蒼鬼さん!」

背後でずっと見ていた木根が、血相を変えて水の中へ駆け込もうとした。それを素早く手で制して蒼鬼は頭部の変身を解き、笑顔を見せた。

「大丈夫です、木根さん。僕は大丈夫。鍛えてますから」

蒼鬼はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。穏やかな笑顔はそのままだが、髪の毛がぐっしょり濡れて顔色は失せている。水の属性を持つ蒼鬼とは言え、この冷たい山の湧き水に何時間も下半身を浸しているだけで、どれだけ体力が奪われたことだろう。

蒼鬼は魂魄を鞘に戻すと水からあがった。

「魔化魍め。これでこの山には近づくこともできないぞ」

木根は、蒼鬼の蒼い顔を見あげた。苛烈な鬼の務めは今まで何度も目にしてきた。だが、慣れない。息子や孫のような若者たちが、命を賭して取り組む鬼の務めの何と壮絶なことか。そしてそれは、世間の誰からも称えられることはないのだ。

蒼鬼の視線が、見上げる木根の心配そうな視線と交わった。蒼鬼は両頬にえくぼを作って「帰りましょう」と言った。木根は気づかれぬようそっと目頭を押さえながら「ええ」と応えた。

そしてふたりを乗せた月の輪は、清浄なる空気に満ちた山の中を、里めがけて下っていった。

魂魄

(三)差し入れ

昇ったばかりの朝日が山の緑を力いっぱい照らしている。

だが山の方ではその鋭い陽光を眩しがっているのか、木々の間にぎっしりと朝霧をはりめぐらせていた。凪いだ冷たい空気に押さえつけられて、朝霧はじっと身をすくめている。

その朝霧が突如動いた。

どうやら神聖なる山の目覚めをひっかきまわす無粋な者が紛れ込んだらしい。

ヒョウウウウウウウウウ

雅楽を奏でるような笛の音が林の木々にこだました。

ヒョオオオオオオオオオ

更にもう一度。

ギョオオオオオオオオオ

かたや、耳を覆いたくなる不気味な呻き声。朝霧を蹴散らして木々の間を巨大な何かが高速で動いた。無粋者はこやつだ。

「逃がさない!」

若い女性の鋭い声とともに黒い影が高い杉の木のてっぺんから跳躍した。朝日の逆光の中を飛ぶ人影の頭部には鋭い角が2本見て取れる。その姿はまぎれもなく鬼である。

高さ20メートルはあろうかという杉の巨木から更に高空へ飛んだ鬼は、眼下に広がる緑の絨毯を凝視した。

「どこだ?」

四肢をまるめて滞空時間をかせぎながら、鬼はうめくように言った。声には少し焦りの色が混じっている。

おおらかな放物線を描きながら木の先端へ着地するや、しなった幹の弾力を利用して再び跳躍する。まるで自分だけ引力の理から逸脱しているかのような身軽さである。

サアアアアアアアアアア

何度目かの跳躍が放物線の頂点に達した時、緑の海の一部が動いた。たちこめていた朝霧がまるで爆発したかのように霧散し、尖った杉の木の先端が「こっちだ」と言わんばかりに標的が移動した方向へ傾いてゆく。

「そこか!」

鬼は手に持った笛のような楽器を口にあてた。ただの笛ではない。長さが違う短い竹がいくつも組みあわさっている。日本古来の伝統的な雅楽器、笙である。

ヒョルルルルルルルルル

17本の竹が織り成すみやびなる和音は、明確な指向性を持って飛び、樹海に潜む標的へ狙いたがわず命中した。

―――手応えアリ!

鬼は、隈取を施した歌舞伎役者のごとき仮面の下でほくそ笑んだ。

その時、緑の海を突き破って、巨大なモノが姿をあらわした。

飛び魚の化け物だ!しかもその体長は優に15メートルはある。燃えるように赤い目と鋭い乱杭歯が並ぶ拷問具のごとき口が、落下し始めた鬼を迎え撃つ。

「たまらず飛び上がったな。ウブメめ!」

ジャキッ!

鬼の爪先から鈍く光る刃が飛び出し、鬼はジャンプした魔化魍の鼻先へ見事なフォームでまわし蹴りを叩き込んだ。

つま先の刃がウブメと呼ばれる魔化魍の目の間を見事に刺し貫いた。

鬼の再三にわたる音撃によって、既にかなりのダメージを受けていたウブメは、鼻先から白濁した体液を噴出しながら仰向けに林の中へ落下していった。

 

ヒョオオオオオオオオオ

―――あれは、燦鬼の音撃笙だ。

大排気量のトレールバイク「月の輪」を駆る蒼鬼の耳に、邪を祓う雅楽の管楽器の音色が届いた。どうやら「決めた」ようだ。笙の音色は射程距離が長い。滅多なことでは討ち洩らしたりはすまい。

蒼鬼は、今朝早く木根の居宅を辞した。

昨日おこなった「凄鈴浄華の陣」で体力をほとんど使い果たした蒼鬼は、木根の家でひと晩厄介になった。暖かい風呂で冷えた体を温め、セツの心づくしの夕餉に舌鼓を打った。そして今朝、体力の回復を自覚した蒼鬼は、名残を惜しむ老夫婦に別れを告げて出発したのだ。張って間もない蒼鬼の結界を無効にしてしまうほどの邪気を孕んだ魔化魍が、この山々のどこかに潜んでいる。一刻も早く退治しなければならなかったからである。

蒼鬼は、ふと近くの山で同僚の燦鬼が「飛ぶ魔化魍」を追っていることを思い出した。博物館へ定時連絡を入れた折、亜沙子から仕入れた情報だった。燦鬼はイッタンモメンかウブメだと言っていたそうだが。

蒼鬼は笙が鳴った方を見定めて月の輪のハンドルを切った。

杉林が切れた所に大きな沼があった。その沼のほとりで燦鬼はキャンプをはっていた。月の輪が到着したとき、燦鬼は既にラフな服装に着替えていた。スリムなデニムのパンツに、ファーフードの付いたダークブラウンのショートジャケットを羽織り、エンジ色の和柄キャップを目深に被っている。

サポーターの本間圭一が入れたコーヒーの芳ばしい香りが水辺を漂っていた。

月の輪は少しゆるい地面をゆっくりと進んで、燦鬼たちのテントの近くで停まった。

「おはよう」

バイクを降りた蒼鬼がヘルメットのシールドをあげて挨拶した。

「おはようございます、蒼鬼さん」

「君の笙の音が聞こえたよ」

「仕留めたわよ。ウブメだったわ。結構大きかった」

燦鬼はコーヒーの入ったマグカップを両手で持ち、熱い液体にそっと口をつけた。

「お疲れ様。さすがだね」

「有り難うございます。でもいつになく逃げ足が速くって苦労したわ。烈鬼の音撃管みたいな破壊力が欲しいわね」

「ははは、彼の必殺技はまさにバズーカ砲だからね。けれど君の音撃笙は射程が広いから討ちもらしが無い」

「まぁね」

燦鬼は得意げにおどけてみせたが、背後の圭一は本気で「うんうん」と頷いている。

「ところで…はい、差し入れだよ。木根さんから」

蒼鬼は、今朝出発する際セツから預かった竹の包みをふたつ、バックパックから取り出した。

「もしかして木根さんのお弁当?わぁ嬉しい!私、セツさんのアメゴの甘露煮大好きなのよ。入ってるかなぁ?」

「ああ、ちゃんとわかってくれているみたいだよ。こっちが君ので、甘露煮二匹入りだってさ。それからこっちは圭一くん。野菜が苦手だからって、おにぎりには山菜のかわりに牛肉のそぼろが入ってるそうだ」

燦鬼は質素な竹の皮の包みを両手で受け取ると頬ずりするしぐさで喜びをあらわした。普段無口な圭一もぺこりと会釈して竹皮の包みを受け取った。

「木根さんにお礼の手紙を書かなくっちゃ。圭一、蒼鬼さんにもコーヒーを」

圭一は「はい」と短く答えると、取っ手が折りたたみ式になっている金属製のカップにポットのコーヒーを注いで蒼鬼に手渡した。

燦鬼は蒼鬼よりも5つ年下の26歳。猛士四国支部所属の鬼の紅一点である。10代の頃は四国全体を牛耳っていた暴走族の女性総長であった。関西へ遠征した際には、芸能プロダクションのスカウトから声をかけられたことがあるほどの端麗な容姿の持ち主である(そのスカウトは、彼女の頭突きの一撃で昏倒させられたらしい)うえに、176センチという長身はカリスマ性じゅうぶんであったため、彼女に心酔して集まった不良少年少女は本州、九州を含めて2万人にのぼったという。

彼女がいかにして猛士の存在を知ったのか、彼女自身も支部長の滝も他人に語ろうとはしないが、彼女が21歳の時、既に現役を退いていた滝を無理やり説き伏せて(力ずく?という説もあるが)鬼の修行を始めた。もとより喧嘩では「鬼のように強い」と言われるほどの腕っ節の持ち主であったため、メキメキ上達したというが、滝は自分が得意としていた太鼓による音撃をあえて伝授せず、当事使い手が絶えていた「笙」による音撃を選んだ。彼女が本来持つ力強さを一度すべて捨て去り、太鼓の「動」ではなく雅楽のもつ「静」にこそ燦鬼のあるべき道を求めたのだった。それによって彼女は、鬼として大成すると同時に、人としても女性としても、周囲から一目置かれる存在になることができたのである。

大切に育て上げた暴走族連合をあっさりと解散し、メンバーの前から忽然と姿を消した燦鬼だったが、彼女自身も驚いたことに、直属の親衛隊長であった本間圭一が彼女の居所を突き止めてきた。当時まだまだ尖がっていた彼女に「うぜぇ」と一喝され、殴られても蹴り倒されても、圭一は頑として彼女の傍を離れようとしなかった。ついには滝のとりなしで、彼女のサポーターに納まってしまったのだ。困ったことにまだまだ親衛隊長時代の癖が抜けきれておらず、実戦に際して、鬼の彼女をさしおいて魔化魍に突っかかってゆこうとする時すらある。

「ところで蒼鬼さん。木根さんの山へ行ったのは、例の・・・?」

「ああ。聞いていたとおり、去年の冬に僕が張った結界の一部が破られていたよ」

燦鬼は圭一と顔を見合わせた。ふたりとも四国支部一番のベテランである蒼鬼の実力はじゅうぶん知っている。音撃鈴は本来攻撃よりも結界術においてその威力を発揮するのだ。

「で、敵の手がかりは?」

「いや、わからなかった。ディスクアニマルをかなり広範囲に放したんだけど、結局何もつかめなかったよ。もしかしたら、いつになくすばしこくて強力なヤツかもしれない」

「そう・・・。だけど、木根さんの山にそんな強い魔化魍だなんて。心配だわ」

「うん。とりあえず凄鈴浄華の陣を布いておいたから当分は大丈夫だと思うけど」

「よかった。それって噂に名高い蒼鬼さんの究極奥義でしょ。だったらもう安心よね、圭一」

「うス」

燦鬼の笑顔に、圭一もつられて表情を緩めた。

「だけど、凄鈴浄華の陣ってかなり体力を消耗するんでしょう?前に師匠から聞いたことがあるわ。大丈夫なの?」

師匠とは滝のことだ。

「そんな大層なものじゃないよ。それに昨日は木根さんの家でいろいろと心づくしをいただいたからね。もうすっかり元気回復さ」

熱いコーヒーを飲み干した蒼鬼は「さて」と立ち上がった。

「僕はもう少し敵の手がかりを追ってみるよ」

「私はセツさんのお弁当をいただいたら博物館へ戻るつもり。ところで蒼鬼さん。今朝のウブメだけど、蒼鬼さんの話を聞いていてひとつ思い出したことがあるの」

「何だい?」

ただやみくもに山中を走り回っている蒼鬼にとって、今はどんな些細な情報でも有り難い。

燦鬼は腕を組んで宙を見つめ、何やら考えていたが、朝日に目を細めながら沼の向こうにそびえる峰を指差した。

「今朝のウブメ、東に見えるあの山の向こうの沼から出てきたんですけど、出るや否やこっちの方角めざしてまっしぐらに飛び始めたの。最寄りの里は沼のさらに東側だから、まるっきり反対方向だし。私の攻撃から逃れるというよりも、何かこう…一刻も早く西へ西へって感じで。変だな、とは感じていたけれど、その時はとにかく倒すことしか頭に無かったものだから…。どう、圭一?」

「うス。燦鬼さんがどう動いても、ウブメのヤローは同じ方向へまっすぐ移動してました。燦鬼さんをシカトしてやがったッス。うス」

「だよね」

燦鬼はキャンプ用テーブルに、地図を広げた。

「ここが木根さんの山。木根さんの山を通った魔化魍は、このあたりの結界を壊した後、ここの谷をめざして移動したんですよね」

燦鬼は地図の上に置いた人差し指を動かしながら話を続けた。

「ああ、結界のほころびから見て、おそらく間違いないと思うよ」

「その方向には…」

燦鬼の人差し指がゆっくりと地図の上を動いてゆく。それが不意に止まった。

「これ!ウブメが潜んでいた沼があるわ。これはどういうこと?」

「謎の魔化魍は人ではなく、他の魔化魍を狙っていたということになるのかな」

「関東支部では最近、ヤマアラシとウブメが合体したという事例が報告されているけど、これもそうなのかしら?」

「いや、その時は双方の魔化魍が引き合うように移動したそうじゃないか。けど、この場合ウブメは明らかに逃げている」

地図を囲んだ3人の間に沈黙が訪れた。

―――魔化魍を襲う魔化魍…?

圭一がゴクリと唾を飲み込む音がした。

燦鬼

(四)そいつの影

「おはようございまぁす」

地下の資料室のドアを勢いよく開けてふたりの若い男性が入室してきた。

「ああ、鎖冷鬼くんと裕作くん。おはよう」

山のように積み上げられた資料の谷間から滝が顔をのぞかせた。

やって来たのは猛士四国支部所属の鎖冷鬼と弟子の由島裕作である。ふたりとも180センチを越える長身で、髪は茶髪のウルフ。ブラックフレームのサングラスといういでたちである。まんまファッション雑誌に載せられそうなふたりであるが、残念ながらここは剣山の麓に近い民俗博物館の地下室である。

「ふたりとも相変わらずおしゃれだね」

「ども。しかしすごい資料ですね、館長。いったい何を調べているんですか?」

「烈鬼くんが送り返してきたディスクアニマルに、聞いたことのない音声シグナルが記録されていたんです」

滝とともに資料の山に埋もれていた亜沙子の声である。

「あ、亜沙子さん。いたの?」

「いますとも。それよりも鎖冷鬼さん、そんなところに突っ立っていないで手伝ってください。何か手がかりを見つけて一刻も早く烈鬼くんたちに報告しなければ」

鎖冷鬼は、こう見えても亜沙子と同じ当博物館の学芸員である。古くからの言い伝えや古文書の類には造詣が深い。

「OK。じゃ、一丁やりますか」

「あ、裕作くんは上を頼むよ」

上とは博物館のことだ。膨大な資料を紐解くのにかかりっきりで、博物館の方がすっかり無人状態になってしまっている。

「了解です。まかしといてください」

モデルのようにくるりとターンして、裕作は今来たドアの向こうへ戻っていった。

「彼、何から何まで君の真似をするね。そんな所まで仕込んでいるのかい?」

裕作の後姿を見送りながら滝は笑い出した。実際、裕作は師匠である鎖冷鬼の鬼としての技のみならず、些細なしぐさまで真似ようと意識している。

「そういうわけじゃありませんがね。第一、似てませんよ。俺、あんなんじゃないもん」

鎖冷鬼はよっこらしょ、と床に座り込むと「江戸時代の伝承」の綴りを取り上げた。筆でびっしりと文字が書き込まれた和紙をめくりながら、ふと顔を上げて天井を見た。

「裕作のやつ、ひとりで大丈夫かなぁ?」

 

ちっちゃな顔が五つ。受付カウンターの上に並んで乗っかっていた。

「ひっ!」

受付に陣取って、ダウンロードした携帯ゲームに熱中していた裕作は驚いて椅子から転げ落ちた。

「な、何だ?」

師匠とおそろいのサングラスがずりおちている。

ふと見ると、入場券を販売するための受付カウンターは、いつの間にかおそろいの園児服を着たちいさな子供たちにびっしりと取り囲まれていた。

つま先立ちして辛うじてカウンターにあごを乗せていた先頭の子供たちは「にぃぃ」と笑って裕作に問うた。

「こなきジジイ?」

「へ?」

「おまえ、こなきジジイか?」

「い・・・いや、あの・・・?」

「ええ?こなきジジイがいるの?」

「見せて、見せて」

顔の向こうから次々と別の顔が受付の前に現れた。皆、裕作を見るや露骨に顔をしかめて文句を言った。

「え〜!これ本当にこなきジジイ?」

女の子がちいちゃい手で裕作を指差した。

「い、いや・・・ちが・・・俺は・・・」

こりゃ!

ものすごい怒鳴り声が轟いて、博物館に駆け込んできた30歳くらいの女性が、徒党を組んで裕作を「襲撃」した子供たちを一撃で蹴散らした。シャツの上から薄い水色のトレーナーを着た30代半ばくらいの女性だ。すごい形相で両脇に男の子を一人ずつ抱えている。どうやら彼女がちびっこギャングたちの引率者のようだ。

ハァハァと荒い息のまま受付カウンターの正面に立つと、ひきつった顔でむりやり笑顔をこしらえた。いや、こしらえようとした。

「おほほ、どうもすみません。騒がしくって」

さっきの怒鳴り声とは完全に違う声である。

「いえ。あのぉ、その子たち…」

裕作は恐る恐る両脇に挟み込まれてもがいている園児を指差した。

「あ!」

すとんと床に降ろされたふたりの園児は、リリースされた魚のようにすぐさま他の園児の塊の中へ紛れ込んでわからなくなった。

「失礼しました。あの子たち急におしっこしたいなんて言うもんだから、ちょっと薮の中に入って。そしたら他の子たち、待ってないでどんどん勝手に入って行っちゃうんですよ、もう。本当はもう一人職員が同行するはずだったんですけど風邪ひいちゃって私ひとり…」

「あの、入場券は何枚…?」

割って入らなければどこまでもしゃべりそうな勢いだ。子供たちに遅れをとったことでかなり動揺しているようだが、早く入館の手続を済ませなければ、園児たちはもう既に博物館じゅうに散りはじめている。

「あ!えっと、みやま幼稚園です。おととい入場予約したみやま幼稚園。大人ひとりと幼児21人です」

 

<業務連絡!みやまよ・・・うぐッ・・・到着です。た・・・助け・・・ ブツッ!>

館内のスピーカーから裕作の声が聞こえた。

「今の・・・何だろう?」

滝が亜沙子の顔を見た。

「なんだか知らないけど、みやまなんとかって」

鎖冷鬼も怪訝な顔をしている。

「あっ!いけない。みやま幼稚園さん!今日来館予約受けてたんだ」

亜沙子が資料の山から飛び上がった。大慌てで床にばらまかれたいくつもの資料をまたぐと、バタバタと階上へ駆けて行った。

そして、展示フロアで亜沙子が見たものは。

「グレムリンだわ」

黄色い帽子を被り、水色の園児服を着たグレムリンどもは、受付の椅子を占拠し、館内放送用のマイクを口にほお張って「あ〜、あ〜」と呻き、売店のキーホルダーをばらまき、配られたパンフレットで作った紙ヒコーキを乱舞させ、噛んでいるガムを指でつまんで限界までびよ〜んと伸ばしながら走っていった。

軽いめまいを覚えつつ、亜沙子は裕作を探した。

そしてその裕作は「伝承コーナー」にいた。

「伝承コーナー」には阿波に古くから伝わるさまざまな伝説と、それにまつわる場所の写真や模型などを展示してあるのだが、その中には「阿波の妖怪」も含まれている。園児たちのお目当ては、はじめからこなき爺であったようだ。

こなき爺は、阿波の妖怪として全国的にメジャーな存在である。テレビアニメなどにもよく登場し、子供たちの間では非常に人気が高いキャラクターだ。地元では観光にもひと役買ってもらおうと、「児啼爺像」なるアニメキャラの石像まで造って観光道路端に置いてあるのだが、実はその折、この博物館もアニメ作者からの許可をいただいて、アニメキャラクターのイラストパネルや模型を何点か展示させてもらっているのだ。

杖を持ち蓑をまとったタレ目のじいさんのイラストパネルの下に置いてある、こなきジジイの記念スタンプを奪い合う数人の園児の輪の中に、裕作はいた。

記念スタンプは、直径10センチほどの丸いもので、他にも吉野川遊覧船や剣山の絵柄のものが館内に用意されている。しかし園児たちの人気は当然のことながらこなきジジイスタンプに集中してしまった。パンフレットの裏面に「来館記念のスタンプを押してね」という空白の部分があり、そこにこのスタンプを押してもらう趣向になっているのだが、「譲る」という行動パターンが脳にインプットされていない園児たちは、我先に目当てのスタンプを奪い合った。

「待って!順番に…」

裕作が必死に彼らを分けようとするのだが、こうなった時の力は幼稚園児といえども侮れない。鬼の修行を積んでいる裕作もたじたじである。

「僕が先だ!」

「僕が捺す!」

「僕のスタンプだっ!」

「い、いや君のじゃないでしょ」

「んんん、放して。僕が捺すの!」

「わ、わ、チェーンが!ち、ちぎれ…」

「やぁだ!僕のスタンプでしょ!」

「いやだから、君のじゃ…」

ブチン!べちゃっ!ぱらぱらぱら・・・。

園児たちがめいめいに引っ張り合った挙句、盗難防止のためにスタンプのグリップとスタンプ台をつないであったボールチェーンがひきちぎられ、一番強く引っ張っていた園児が勢い余って、青いインクをたっぷり吸ったスタンプを裕作の左頬に見事にヒットさせた。

「裕作君、ここにいたの。なぁに、この騒ぎは?」

背後からかけられた亜沙子の声に、放心したように突っ立っていた裕作はふらふらと振り返った。彼の左のほっぺたで、青いタレ目のじいさんが笑っている。

「あ・・・こなきジジイ」

涙目で「ううん」とかぶりを振る裕作の即頭部に、ちょっと前までパンフレットだった紙ヒコーキがコツンと命中し、博物館の奥のほうから、引率の先生の「こりゃ!」という怒鳴り声が聞こえてきた。

その頃、博物館に吉野から一通のメールが届いた。

 

<ツチノコ?>

蒼鬼、燦鬼、烈鬼の3人が無線の向こうで同じ反応を示した。

「そう、ツチノコです。一部ではノヅチとも呼ばれていますね」

みやま幼稚園の嵐が去ってから1時間後。亜沙子は地下資料室の更に奥に設けられた猛士の作戦司令室で、通信マイクに向かっていた。

通信機の傍らには、ツチノコに関する記載のある書物が3冊並べられていた。博物館の膨大な資料の中で、わずか3冊しか該当する書物が無いというのは滝や亜沙子にとっては驚きであった。それだけツチノコの出没例が少ないということなのだろう。

<それって、たかだか1メートル足らずのただの蛇だろう?>

<ジャンプするのよ。4〜5メートルくらい、ぴょ〜んって>

<そうなの?>

<けど、しょぼいですよね。それって魔化魍の部類に入るんですか?>

<そうよね。どっちかって言うとちょっと前までのパンダやマウンテンゴリラみたいな、単なる珍しい動物じゃないの?>

蒼鬼をはじめ、四国山地に散っている3人の鬼たちは、吉野が伝えてきた謎の魔化魍の正体に異を唱えた。そいつは蒼鬼の結界を破ったつわものであるはずだ。しかし、単なる数十センチの珍しい蛇だとは、まさに大山鳴動して鼠一匹である。

「みんな案外勉強不足だね」

滝が横合いからマイクをつかんだ。

<館長。それはどういうことでしょう?>

烈鬼のサポーター、和泉聖依子の声だ。養女ながら、吉野宗家の姫君である。若い烈鬼とともに四国支部で修行中であった。「現場を知る」というのは企業も猛士も同じなのだそうだ。

「世間一般で言われるツチノコというのは、確かに今君たちが言ったような、一風変わったただの蛇なのだけれど、我々がここで言うツチノコという魔化魍は、そんな生易しいものではないのだよ」

その口調が思いのほか重々しかった。鬼たちは皆黙り込んで、滝が次に発する言葉を待った。

「吉野が見つけたのは、室町時代の飛騨山中における出現記録だ。博物館にも、明治初期の剣山での戦闘記録が見つかった。共通しているのは次の2点。まず、体長は約30数メートルであること。そして、人、動物、魔化魍を問わず何でも丸呑みにすることだ。室町、明治の出現の折には、いずれも村がひとつまるごと消滅している」

<村が消滅?全滅したのか、ツチノコに呑まれて・・・>

蒼鬼の声が少しうわずっている。

<それにしても30数メートルって、何かの間違いじゃないの?ほとんど怪獣じゃない>

「あれれ、師匠の言うことが信じられないのかな?君は」

<あ、いえ。すみません>

不良で鳴らした燦鬼も師匠の前ではしおらしい。

「それにしても魔化魍を喰ってくれるのはいいんじゃない?鬼の手間がはぶけてさ」

滝と亜沙子が声の主をじろりとにらんだ。ふたりの背後でツチノコの資料に目を通していた鎖冷鬼が、冷たい視線を感じて「ごほん」と咳払いしながら背をむけてしまった。

「ツチノコは魔化魍だけを滅ぼす存在ではありません。ツチノコが自らの欲望を満たすために、多くの人々が家族や住居を失っています。決して私たちの味方などではないのです」

「亜沙子さんの言うとおりだ。確かに魔化魍を喰らうのはいい。だがその過程で、我々人間が被るとばっちりははかり知れない。ヤツはこうも呼ばれているんだ。『無の使い』」

<無の・・・使い・・・・・>

滝の言葉に、重苦しい沈黙が訪れた。こいつを退治するのは少しばかり骨が折れそうだ。

<とにかく相手がはっきりしただけでもよかった。このうえは一刻も早くツチノコを見つけて退治しよう>

ベテランの蒼鬼が他のメンバーの奮起を促した。

<でも蒼鬼さん。今朝も話したけど、木根さんの山からウブメを狙って西へ進んだ後、ツチノコはどっちへ向かったのかしら?>

<僕が張った「凄鈴浄華の陣」がヤツに有効だったとしたら東へ戻る可能性は少ない。燦鬼さんが遭遇しなかったということは西でもない。北か、南か>

「北へ向かっていたらこちらへ降りてくることになるが・・・」

「烈鬼くんの方だよ」

思案する滝の背後で、静かに和綴じの書物をめくりながら蒼鬼たちの話を聞いていた鎖冷鬼がぼそっと言った。

「え?」

「そいつ、魔化魍を喰うんでしょ?喰いごたえのあるやつ、探してんじゃないんですか?」

驚いて振り返った滝に、鎖冷鬼は「当たり前でしょうが」とでも言いたげな目を向けた。普段ふざけているようで、鎖冷鬼は時々妙に鋭いことを言う。

「そうか・・・烈鬼くんはオオウナギを追って母川の上流にいるのだったね」

<ええ。渓流釣りをしていた人が、この10日ほどで続けて3人行方不明になっています。冬眠明けのツキノワグマのしわざとか言われていますが、違います。どう見たってオオウナギですよ>

「だとしたら・・・」

<そうか。ツチノコがオオウナギを狙って!>

<南ね>

「いや、可能性は高いが確証がないからね。みんながいっせいに南へ向かうのはどうかな」

「こっちへ来たら俺がやってやりますよ」

鎖冷鬼がにやりと笑った。

<私もウブメを倒したので博物館へ帰る途中です>

<では北は鎖冷鬼くんと燦鬼さんに任せるとして、僕は烈鬼くんのサポートにまわりましょう>

「うん、たのむよ。蒼鬼くん」

<じゃあ烈鬼くん、後でね>

<ええ。待っています、蒼鬼さん>

「さて、鬼の布陣はできあがったが・・・」

滝はしきりに無精ひげが伸びたあごをなでている。

「何か心配ですか、館長?」

亜沙子が滝の横顔を覗きこんだ。

「うん?いや・・・ツチノコなんて100年以上も出なかった魔化魍がなぜ今出てきたのかなと思ってね」

「東京の立花さんも、最近は魔化魍の出現数が異様に多いっておっしゃっていましたね。何か関係があるのでしょうか」

亜沙子は先月、博物館の用事で東京へ出張していた。その折に関東支部を陣中見舞いして、支部長の立花勢地郎と話をしてきたのだ。

「魔化魍も多くなりすぎると、ツチノコのようにそれを調節するための魔化魍が現れるのかもしれないね」

「ではツチノコは、自然がバランスを保つために送りこんだ魔化魍だと?」

「どうかなぁ。魔化魍はまだまだわからないことが多いからねぇ」

滝は、開かれた古い書物のページ一面に墨と筆で描かれた、巨大なツチノコのいびつな姿を見つめた。

無の使い

(五)ツチノコ

ピシッ!バキッ!

ワゴン車というよりは小型のトレーラーほどもある大きな4WD車は、路上へ張り出した木々の枝をへし折りながら進んだ。外国では軍隊でも制式採用しているモデルでボディはこのうえなく頑丈だが、枝の鋭い先端や、太いタイヤが跳ね上げた小石などがあちこちに小さな傷を残している。

烈鬼専用4WD車「春雷」である。四国支部では鎖冷鬼や燦鬼も4WD車を移動手段として使っているが、烈鬼の車は他の2台よりふたまわりはデカイ。

烈鬼と聖依子は、釣り人たちが襲われたと思われる母川流域から既に離れ、甚吉森山麓へ入っていた。昨夜は登山ルートから少し離れたところに春雷を停めて野営し、日の出を待って再び活動を始めた。

「一般の登山ルートからはだいぶ離れたわ。そろそろ春雷で入ってゆける限界ね」

ハンドルを持つ聖依子が、フロントガラスに顔を近づけて呟いた。

「そうだな。それにこの辺で一度戦闘態勢を整えたほうがよさそうだ」

「えっ?」

ひとりごとに返答されて驚いたが、助手席で居眠りをしているものとばかり思っていた烈鬼が、鋭い視線を車外に送っているのにも驚いた。

「何か感じるの?」

「びんびんとね」

春雷が揺れるたび、よく手入れされたサラサラの髪が烈鬼の目の上にかかるが、若い鬼は厭いもせずじっと外を見つめている。童顔で、高校生と間違われて補導されかけたこともある彼だが、戦いに臨んでそのような幼い雰囲気は微塵もない。

実際、ついさっきまで烈鬼はうつらうつらと居眠りをしていたのだ。だが、肉体を鍛え精神を鍛え、極限まで人体改造を行った鬼だけが有する超感覚の成せる業であろうか、烈鬼は不意に目を覚ました。天敵の存在を「体」で感じる野生動物の勘そのものである。

「聖依子さん、ここでいい」

そう言うと烈鬼は車から降り、鬼笛を取り出してぴゅるる〜と吹くと、自らの額にかざした。額のチャクラから眩い閃光がほとばしり、一条の突風が烈鬼の全身を取り囲み、次の瞬間、彼の姿は異形の鬼へと変身していた。額からそそり立つ三叉の角は彼の象徴である。陽光を受けて鈍く光る漆黒のボディ。手首から先とブーツは鮮やかな黄色だ。拳には鋭い鬼爪が収納されている。

鬼となった烈鬼は春雷の後部ハッチを開いた。中にはもうひとつのマシンが静かに待機していた。排気量380ccの4輪バギーである。吉野が、鬼として四国へ赴任することになった烈鬼のために特別にあつらえたスーパーバギー、名を「牙神」という。あらゆる地形を走破する太いタイヤとエンジン部を守るロールバーが内包するパワーの凄まじさを連想させる。

「ここからは俺ひとりで行くよ。聖依子さんはさっきの空き地で待機していてくれ」

烈鬼は牙神をラゲッジルームから降ろし、ハンドルバーにある黄色いスターターボタンを押した。

キュルルグウォン!

眠っていた野獣が覚醒した。烈鬼のアクセルワークにあわせてグォンウォンと唸り声をあげる。さぁ、どこへでも連れて行ってやるぞ、とでも言っているようだ。

荷台にディスクアニマルのキャリングケースを載せ、烈鬼の姿は爆音とともにブッシュの中へ消えた。

そう遠くないところから水の音が聞こえる。滝があるのだろう。

―――いるな。

烈鬼は本能的に戦いのにおいを嗅ぎ取っていた。

ブッシュの中の道なき道をでたらめに走行しているようで、烈鬼はひとすじのけもの道に沿って移動していた。高知県との県境に近い甚吉森には野生動物が数多く生息している。魔化魍が潜む山中を戦いの場とすることが多い鬼にとって、こうしたけもの道を認識する術は基本中の基本である。

大きく張り出した大木の根や、潅木や岩の上を、牙神は容赦なく高速で踏み越えてゆく。

水の音はだいぶ大きくなっている。滝はもう、すぐそこなのだろう。

―――俺が感じているってことは、童子や姫も俺の存在を感じているはずだ。

烈鬼は暴れる牙神を腕力で押さえつけながら、全神経をレーダーのように研ぎ澄ましていた。母川流域で鬼の追撃を察知したオオウナギたちは、この甚吉森まで逃げてきたのだろう。ここはエサとなる動物が多い。だが、山奥でシカを喰っておとなしく暮らしてゆけるタマではあるまい。

―――さぁ来い。魔化魍め!

ぎぃぃぃぃぃぃ!

その時、左右のブッシュから黒い影が飛び出してきた。

「ぐわっ!」

牙神もろとも烈鬼はブッシュの中へ横倒しになった。筋肉で盛り上がる胸が何かに引き裂かれて、みるみる朱に染まってゆく。

かぁぁぁぁぁ!

黒い影の正体は童子と姫だ。山中を高速で疾駆する牙神から逃れられぬと悟って反撃に転じたのだろう。

「ふん!」

素早く立ち上がった烈鬼の全身から闘気が湯気となって立ち上り、かさに懸かって攻めようとしていた童子と姫の足を止めた。胸の傷がみるみる塞がってゆく。

圧倒的な烈鬼の迫力に気おされながらも、ふたりの魔物は真っ赤な口をかっと開いて牙をむき出して威嚇のポーズをとっている。炭のごとき黒い全身からはおぞましい瘴気が漂っている。常人ならその気にあてられただけで昏倒するやもしれぬ。

ゆっくりと烈鬼の左右に展開した童子と姫は、阿吽の呼吸で烈鬼に襲いかかった。わずかに早い童子の爪を腕でカバーし、ひざを腹部へ打ち込もうとした時、姫の牙が烈鬼の左肩に食い込んだ。

鈍い痛みをこらえながら、肩に喰らいついた姫をひじ打ちで後方へふっ飛ばした。さらに後ろ蹴りを繰り出そうとしたら、今度は童子が組みついてきてその動きを封じられた。

「おりゃ!」

気合とともに烈鬼の頭突きが、すがりつく童子の眉間にヒットし、童子は陥没した顔面をのけぞらせてひっくり返った。それでもすぐに立ち上がると、ふたりはもう一度烈鬼の前後を取り囲むように移動し始めた。体術では烈鬼に遠く及ばないものの、童子と姫は絶妙のコンビネーションで烈鬼の攻撃を押さえ込むことに今のところ成功している。

―――ほう、今日はやけに息が合っているじゃないか。少しは学習したか?

ならば、と烈鬼は数メートルもジャンプして童子の頭上を飛び越え、横倒しになっている牙神の傍らへ移動すると、身をかがめてそのハンドルを握った。一気にアクセルを開く!

かああああああ!

自分たちに背を向けてかがんでいる烈鬼に隙を見たのか、姫が牙をむいて襲いかかった。3メートルほども飛び上がり、牙と爪をむきだして烈鬼の背中めがけてダイブした。

オォォォン!

その時牙神のエンジンが吼え、太いタイヤが横倒しのままギュルルルルと回転するや、烈鬼はその勢いをかって腕力で300キロ近い重量の牙神を一気に振り回し、空中から襲い来る姫めがけて投げつけた。

グァシャ!

空中で牙神の猛烈なタックルをくらった姫は、鈍い音を残して10メートルほども後方へ跳ね飛ばされ、ブッシュの中へ落下した。

ぎああぁぁ・・・。

ドウゥン。

ブッシュの中で破裂音がした。姫の残した断末魔である。

しゃああああ!

相棒を喪った童子は、がむしゃらに烈鬼に突っかかってきた。遮二無二振り回す鋭い爪がいくつもいくつも、烈鬼の肩や腕や胸や腹に赤い筋を刻んでゆく。少しずつ後方へ押されていた烈鬼は、不意に両足を踏ん張ると、わずかに腰を落として右の拳を童子の左胸に打ち込んだ。胸から背へ突き抜けそうな重くて真直ぐな一撃である。童子は両手を天に伸ばして無様にひっくりかえった。

烈鬼は、仰向けに倒れてもがく童子を冷たく見据えながら、落下した牙神に近寄ると、荷台に皮ベルトでくくられている長い鞘から金色に光る物を引き抜いた。管の音撃武器「渦潮」である。バストロンボーンをベースに考案、作成された対魔化魍用大口径ライフルだ。

今主流となているトランペットタイプよりも型は古く連射はできぬが、破壊力では右に出るものが無い。

「お遊びはここまでだ」

渦潮を肩づけに構えると、よろよろと立ち上がった童子に銃口を向けて烈鬼は躊躇なく引き金を引いた。

ドゥン!

スラッグショット型に加工された鬼石が童子の肩口に着弾し、胸から腕にかけての肉をまるごと吹き飛ばした。とてつもない破壊力である。

童子は声もなく前のめりに倒れたが、地面につく前に姫同様破裂して果てた。

ゆっくりと深呼吸すると、烈鬼は倒れた牙神から携帯電話を取り出すとベースキャンプの聖依子を呼び出した。

 

〜♪

春雷の助手席でポットのコーヒーを飲んでいた聖依子は、ダッシュボードに置いてあった携帯電話をひったくって耳にあてた。

<聖依子さん?たった今童子と姫を倒したよ>

「ご苦労様。怪我はないの?」

<俺?俺は大丈夫だよ>

―――ウソつけ。

聖依子は烈鬼の戦い方を熟知していた。烈鬼は強い。新人ながらその戦闘能力は四国の鬼の中でも群をぬいている。蒼鬼曰く『彼は天性の武闘派だ。あの格闘センスは鍛えて身につくものではない』のだそうだ。しかし、その分ディフェンスが甘い。いやむしろ敵の攻撃を受けることで自らのヴォルテージを上げてゆくタイプなのだ。戦いの後、彼の体はいつも傷だらけである。幸い今まではたいした傷を負っていなかったため、鬼の力ですぐに回復させているのだが、あのファイティングスタイルは今のうちに改めさせなければ、いずれ大変なことになるだろう。

<恐らくオオウナギも近くにいるはずだ。崖のすぐ下に川があるようだからそっちへ降りてみるよ>

「了解。十分注意して。無理しないのよ、わかった?」

<わかってるって>

ガガッ。

烈鬼は荒々しく通信を切った。注意するとすぐ機嫌が悪くなるところはまだまだ修行が足りない、と聖依子は思っている。だが、後方で待機する立場としては注意せざるを得ない。機嫌を損ねてしくじられるのも困るが、何度も何度も注意しておくことで、何かの折に自分の言葉を思い出して自重してもらえるかもしれないと思うと、どうしても言わずにはおれぬ。まったく、サポーターとは因果な役目だ。

抜けるような青い空に、聖依子の「はぁ〜」というため息が吸い込まれていった。

 

滝の全容が見渡せる大きな岩の上で、烈鬼はじっと滝壺を見下ろしていた。白く泡立つ水面に、怪しく黒い影が映っている。

いた。オオウナギである。

全長は約7メートルといったところか。思ったよりも小ぶりである。ここまでやつを守ってきた童子と姫ももういない。もはや袋のネズミだ。

「チェックメイトだ。魔化魍め」

烈鬼は岩の上に片ひざをついて渦潮を構えると、じっと水面下の黒い影に狙いを定めた。童子と姫との戦いで体のあちこちに受けた切り傷は既に跡形も無く消滅している。

烈鬼はトロンボーン型ライフルのグリップをしっかりと握り、トリガーガードに指を入れた。烈鬼の視線が、渦潮の照準をかすめてレーザービームのようにオオウナギの頭部を捉えた。

ヴァオオオオオオ!

烈鬼の左手のブッシュから突然巨大な何かがとびかかってきた。

オオウナギだ!

「ナニ?」

完全に不意をつかれ、烈鬼はオオウナギもろとも10メートル下の渓流へ落下した。

水深が数メートルほどもある激しい流れに飲み込まれた烈鬼は、おびただし泡の中で一瞬どちらが上なのか下なのかわからずただもがいた。川底の砂利に体をしたたか打ちつけたことと水の冷たさで全身がしびれ、感覚が麻痺している。

オオウナギは双子だった。釣り人が被害にあってからの日数などを考えると、オオウナギは最低でも10メートル以上の体長に育っているはずなのだ。滝壷のオオウナギが思ったよりも小さいのを見た時、双子の可能性を考慮するべきであった。

―――くそっ。迂闊だった。

周囲の水が烈鬼の血で赤く染まっている。オオウナギの攻撃によって傷を負っているのだ。囮となって滝壷で泳いでいたもう一匹も合流し、今や烈鬼は2匹のオオウナギに嬲られていた。何とかしなければ、そのうち腕か足を食いちぎられ、完全に動きを封じられた後、2匹によって胴体を食いちぎられる羽目になる。

片方のオオウナギが烈鬼に牙をたてている間、もう片方は距離を取って次の攻撃に備えている。敵ながら見事な連携プレーである。まさに双子ならではの攻撃パターンと言えよう。

乱杭歯を前へ突き出して、1匹のオオウナギがまた襲い来る。

―――ヤバイな。

烈鬼が焦ったその時、オオウナギの体を何やら鈍く光る一団が取り囲んだ。

―――ニビイロヘビ!来てくれたのか。

童子と姫を倒した後、烈鬼がオオウナギ探索のために放ったディスクアニマルが今、援軍としてかけつけてくれたのだ。

小さな音式神たちの攻撃力だけではオオウナギの進撃を食い止められるはずもないが、主を守ろうと捨て身の体当たりを繰り返す10数匹のディスクアニマルに執拗にまとわりつかれ、さしものオオウナギも進行方向を変えた。

ヴォウウウウウ。

なんとかニビイロヘビを振り払おうと、オオウナギは体を何度も回転させながら滝壷のさらに深い所まで潜ってゆく。

攻撃と撤退を交互に繰り返し、烈鬼に態勢のたて直しを許さなかった2匹のオオウナギの連携が乱れた。

―――今だ。

距離をとって次なる攻撃態勢に移ろうとしていたもう片方のオオウナギと、烈鬼は余裕を持って向き合うことが出来た。辛うじて手放さなかった渦潮をしっかりと構え直す。

兄弟が思わぬ攻撃を受けていることを本能的に察知した眼前のオオウナギは、両目を真紅に染め、怒りの唸り声とともに真っ直ぐ突っ込んで来た。遊び半分で烈鬼をいたぶっていた今までの攻撃とはスピードも進入角度も違う。

ドゥン!ドゥン!ドゥン!

激しい渓流を震わせて、烈鬼の渦潮が吼える。発射された3発の鬼石は高速回転しながらジュウウウウウンと泡を巻いて水中を走り、狙いたがわず迫り来るオオウナギの頭部に命中した。

ヴァウォオオオオウ!

苦痛に身を捩り、オオウナギは水面から大きくジャンプした。それを追って烈鬼も川面から頭を出して大きく息を継ぐと、腰のバックルから音撃鳴「雅嵐」を取り外し、渦潮に取りつけた。

ジャンプしたオオウナギが頭から渓流にダイブし、水飛沫が盛大に跳ね上がった。烈鬼はオオウナギを追って再び水中へ潜ると、渦潮のマウスピースを口にあて、常人離れした肺活量で一気に空気を吹き込んだ。

VWOOOOOOOOOOOOOOOOOO。

雅嵐から発せられた清冽なる清めの音は、水の抵抗などものともせず巨大なオオウナギの全身を包み、体内の鬼石と反応しあって一切の邪を瞬時に討ち滅ぼした。

ヴウァ!

ドウウウン!

最期の一声は兄弟に助けを求めたものか、それとも親代わりの童子と姫を呼んだのか。オオウナギは木っ端微塵に爆発して果てた。

「残るは1匹だ」

烈鬼は態勢を立て直すために一度流れから出た。河原に片ひざをついて狙撃態勢でもう一方のオオウナギを迎え撃つ。

ほどなく上品な緑色をたたえる滝壷に不気味な影が浮かび、怒りに燃えるオオウナギが姿を現わした。浮上する勢いがあまって、はるか20メートルも上空から落下する滝の水を押しのけて数メートル以上もジャンプした。

空中から烈鬼を見下ろす目が紅蓮の炎を吹き上げている。

対する烈鬼も全身から闘気のオーラを立ち昇らせながら渦潮を肩づけに構えた。

ドガーン!

その時、滝が爆発した。

空中からオオウナギがまさに烈鬼めがけてダイブしようとした瞬間、滝の裏の崖から、落下する水や岩石や土砂を跳ね飛ばしながら途方もなくデカイ何かが飛び出してきた。

「な、何だ!一体?」

渦潮を構えてオオウナギだけを凝視していた烈鬼にも、目の前で起こったできごとがすぐには理解できなかった。

滝の裏側の岩肌を突き破って現われた「何か」は、空中でオオウナギを咥えている。体長7メートルもの巨大なバケモノが、動きを封じられてあわれにもただ体をクネクネくねらせるしかない。

「蛇…大蛇だ」

頭部だけでダンプカーほどもあるそれは、紛れもなく蛇のものだ。そいつはもがく獲物を一気にばくりと喉の奥へと放り込んだ。

口の中はまるで灼熱地獄のように赤い。上顎からのびる2本のキバはまるでアフリカ象のようだ。

「そうか。こいつがツチノコ?」

体の半分はまだ滝の向こう側に隠れているためその全貌はまだ掴めぬが、これはあまりに桁外れの大きさだ。燦鬼が言った「怪獣」という言葉が思い出された。

―――地中を移動していやがったか。蒼鬼さんが見つけられなかったのも無理ないな。

「リョクオオザル!」

烈鬼の命を受けて、川の両岸の木々に陣取っていたサル型ディスクアニマルたちが、一斉にツチノコの巨体を録画し始めた。

GYOGYOOOOOO〜!

オオウナギを嚥下し、ツチノコはふくれる喉を反り返らせて満足げに鳴いた。

「まちがいない。あの時キアカシシが捉えた音声データはこいつのものだ」

オオウナギを追っていた烈鬼は、ついに幻の巨大魔化魍と遭遇したのだ。

ゴゴゴゴゴ。

美しかった滝を岩肌ごと破壊しながらツチノコがその全身を現した。頭よりもはるかに太く巨大な胴体には、無数の鱗が虹色に光っている。その1枚1枚は、まるでナイフのように光り、尖り、反り返っている。何者といえども、触れるだけで細切れにされてしまうに違いない。

GYOAAAAA!

ツチノコの口からチロチロと出入りしている舌は、銀色に輝くドリルの刃のようだ。幾重にもねじれながら先端が鋭く尖っている。このような造形が自然の摂理の中で生み出されるとは到底思えない。それこそが魔化魍の魔化魍たる所以なのかもしれぬが。

ギュルルルルルル。

その舌の先端が、音を立てて高速で回転し始めた。

ツチノコの口から伸びた脅威の生体ドリルは、突如烈鬼めがけてギューンと伸びた。20メートル以上も伸びた舌は、烈鬼の胴体めがけて飛来した。

ヒュン!

烈鬼は体をかわしてすんでのところでドリルの直撃を避けた。狙いをはずしたドリルの舌は、烈鬼の背後の地面に深々と刺さり、岩が裂けて砕けて数メートルにわたる地割れを作った。

刺さった舌はすぐに引き抜かれ、それ自体が意思を持つ蛇のように空中で鎌首をもたげると、再び烈鬼の位置を特定し飛びかかった。何度も何度も、ツチノコは執拗に烈鬼を狙って攻撃してきた。

「こいつは・・・洒落にならねぇぞ」

宙空から襲い掛かる舌先のドリルをかわして穴だらけの河原を転がりながら、烈鬼は渦潮の銃口をツチノコに向け2発撃った。あれだけ巨大な的ならば、いちいち狙わずとも命中する。

だが鬼石はツチノコの強靭な鱗にはじかれて、1発はついさっきまで烈鬼がいた滝が見下ろせる大きな岩を砕き、もう1発はブッシュをなぎ倒して消えた。

「俺の鬼石がはじかれた?まさか、そんな!」

絶対の自信を持っていた必殺の銃弾が効かない。烈鬼は無力感に打ちのめされた。

それでもツチノコは、獲物の思わぬ反撃に驚いたのか、伸ばしていた舌を口の中へ戻し、巨大な体を反らせて眼前の小さな獲物を改めて見た。この獲物、侮れぬ。とでも思ったのであろうか。

GYOOOAAAAAA!

ならばこちらも全力で戦ってやる、と言わんばかりの大咆哮に、甚吉森全体がすくみあがった。

「うるさいよ!」

烈鬼は渦潮を肩づけにし、今度はツチノコの頭をじっくりと狙って鬼石を放った。

ドウォン!

ガィン!

重い金属同士がぶつかりあう鈍い音がして、必殺のスラッグショットはまたもや後方へはじきとばされた。

烈鬼の必殺弾はツチノコの両目の真ん中、通常は生物の急所と思しき部位に命中したのだが、それでもこのバケモノに大したダメージは与えられなかったようだ。むしろますます闘争心を漲らせているようにも見える。

ブォワッ!

一度喉を反らせて天を仰ぎ、その頭を振り下ろすように勢いをつけるや、ツチノコの口から今度は青白い炎の柱が吹き出された。

ゴオオゥ―――

巨木ほどもある炎の塊が烈鬼の全身を包み込んだ。とばっちりを受けた近くの岩がどろどろと溶けてゆく。

「ぐわっ」

さしもの鬼も、岩をも溶かす超高熱の炎に包まれてはかなわない。烈鬼はたまらず渓流の中に身を投じた。

ツチノコは滝壺の水を両岸へあふれさせながら烈鬼めがけて進撃してきた。蛇の頭を持ち、手足を持たぬ肩幅の広い巨人とでも言えばよいだろうか。全身の鱗1枚1枚がせわしなく巧みにうねり、巨体を驚くほどスムーズに移動させている。

片や烈鬼は、渓流の水でなんとかツチノコの業火を消し去ったものの、その身に受けたダメージは大きく、早い流れの中で満足に立ち上がることさえできずにいた。このままでは、先ほどのオオウナギと同じ運命をたどることになる。烈鬼は川の中で声もなくもがいた。

ツチノコの頭がすぐそこまできた。

―――ここまでか!

その時、烈鬼を喰らおうとしていたツチノコの滑らかな動きが不意に止まった。

GYOGYOGYOEE。

デカイ体を小刻みに震わせて啼いた。それは明らかに呻吟によるものであった。

―――何だ?ヤツは何を嫌がっている?

烈鬼は川底の早い流れに足を取られながら、何とか再び川岸へと這い上がった。ツチノコは先ほどまでの攻撃態勢とは明らかに異なる警戒態勢をとっている。左右の山々に威嚇の声をあげながら、まるで不特定多数の敵から身を守らんとしているようだ。

―――いったい何だ?山の中に何がいるというのだ?

その時、ダメージを受けていた烈鬼にもようやくその「正体」がわかった。渓流の音にまぎれて気がつかなかったその「音」に。

すくんでいた山全体が鳴っている。鈴の音である。可愛らしく清らかで、力強い鈴の音。

そこから、いやそこではない。あそこから、いやあそこではない。いたるところで鳴り、どこでも鳴っていない。空耳のようだが、しっかりと鳴り響いている。不思議な鈴の音が山のいたるところから聞こえてくるではないか。この音に、ツチノコは烈鬼よりも敏感に反応したのだ。

「これは…蒼鬼さん!」

烈鬼は気配を察して川下を振り返った。

烈鬼のいる場所よりも数十メートル下流。流れに覆い被さるように張り出した岩の上に2メートル近い大きな人影あり。額からは天を威嚇するが如き1本の角がそそり立ち、顔には烈鬼に似た歌舞伎の隈取りのような銀のライン。全身は絵に描いたような筋骨隆々で、天の陽光と渓流の流れによって銀色にも薄いシアンにも見えて光り輝いている。リンの音撃戦士、蒼鬼である。

蒼鬼は烈鬼と合流するべく甚吉森の反対側からアプローチしてきたのだ。

蒼鬼は神刀「魂魄」を両手で捧げ持ち一心に念を放っていた。清めの鈴を繋いだ小柄を敵の周囲12方位に投擲し、その音色によって魔化魍を封殺する蒼鬼の得意技「鈴音天唱の陣 〜りんねてんしょうのじん〜」である。

ツチノコは全身を激しく痙攣させていた。蒼鬼のしかけた音撃の陣に絡め取られ、動こうとして動けず、目の前の獲物を喰らおうとして喰らえぬ怒りにうちふるえている。

烈鬼はもつれそうになる足に気を送って活を入れ、蒼鬼のもとへと駆け寄った。

「遅くなってすまない。烈鬼くん、大丈夫かい?」

「はい。少しやられましたけど…」

烈鬼は申し訳なさそうに答えた。

「いやいや。あのバケモノ相手によく一人で戦ったね。さすがだ」

蒼鬼は烈鬼に話しかけながらも、一心に12の鈴を遠隔から鳴らし続けている。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR―――

「今なら鈴の音がツチノコを縛り上げ、その動きを内から封じている。この機に乗じて攻撃を…!」

念を送り続ける蒼鬼に動揺が走った。

バン!

どこかで何かの破裂音がした。燃え盛る火の中で栗のイガがはじけたような音・・・。

「いけない!ヤツが動き出す。烈鬼くん、気をつけて」

「え?」

バン!ババン!

それは、ツチノコを取り囲む蒼鬼の鈴がはじける音であった。ふたつ、みっつと小柄につながれて清めの音色を放っていた鈴が破壊されてゆく。ツチノコの邪気が蒼鬼の「鈴音天唱の陣」を徐々に崩そうとしているのだ。

―――む、駄目か。

ババァーン!

残りの鈴がすべてはじけとび、蒼鬼の術は完全に破られてしまった。

GYOOOOOOOAAAA!

完全に自由を取り戻したツチノコの業火が、再び鬼たちを襲った。

「危ない!」

蒼鬼と烈鬼は左右に散り、地獄の劫火を紙一重でかわした。特に烈鬼はこれ以上のダメージに耐えられないだろう。

「蒼鬼さん。こいつには俺の鬼石も効かないんです。どうすればいいでしょう?」

烈鬼の悲壮な叫びが渓谷にこだました。

「落ち着いて、烈鬼くん。もう一度『鈴音天唱の陣』を張ってみる」

「しかしその技はもう・・・?」

「やっつけるまで何度でもやってやるさ。それに君だってまだ奥義を破られたわけではないのだろう?」

「ええ、それはそうですが…」

「同じ技でも、僕たちが力をあわせれば何とかなるかもしれないよ」

蒼鬼はベルトのパウチからいくつもの小柄を取り出した。両手に6本づつの鈴が連なる小柄を握ると、腰を低くして投擲の構えに入った。

「この技でヤツを押さえられるのは2〜3分。その間に君の鬼石をツチノコに撃ちこむしかない」

「だから撃ちこめないんですよ。額の急所を狙ったのに、ヤツの鱗にはじかれてしまうんです」

烈鬼が放つ鬼石は強力だ。おそらく魔化魍に弾き返されたことなど一度もなかったのだろう。表情が伺えぬ鬼の顔とはいえ、その動揺は隠しきれない。

「ならば腹を狙ってみろ。喉ならどうだ?目は?口はッ?あきらめずに何度でもやるんだ!」

弱気になっている烈鬼に檄をとばしていた蒼鬼に、一瞬の隙が生じた。

バキッ!ガシィィィン!

ギュゥゥゥゥンと唸りながら高速で飛来したツチノコのドリル状の舌が蒼鬼の胸に直撃し、激しい火花が散った。肩から胸にかけてを覆う防護アーマが砕けて飛び散り、蒼鬼自身も衝撃で渓流沿いの岩肌へものすごい勢いで叩きつけられた。

「ぐわあっ!」

「蒼鬼さん!大丈夫ですか?」

反対岸から駆け寄ろうとした烈鬼を手で制し、蒼鬼はゆらりと立ち上がった。激突した背後の岩肌は陥没し、無数のひび割れが蜘蛛の巣状に走っている。凄まじい衝撃であったに違いない。

「いくぞ、烈鬼くん」

蒼鬼はただそう言うと、ふたたび小柄を構えてツチノコに向かった。

―――蒼鬼さん、なんて人だ。

挫けぬ魂。それこそが本物の鬼の証しである。劣勢を極める戦いの中にあって、蒼鬼はそのことを若い烈鬼に身をもってしめしてくれているのだ。

ツチノコは、地獄の入り口を思わせる真っ赤な口を開き、そこにゴウゴウと渦巻く炎の球を作り上げた。その火球を蒼鬼めがけて放とうとした瞬間―――

「させるか!」

烈鬼が渦潮の引き金を引いた。牙をむいて迫る雲をつくような巨大な魔化魍を平然と迎え撃つ蒼鬼の背中が、若い彼を叱咤している。その心意気が、烈鬼に再び引き金を引かせたのだ。

ドウゥン!

ギチィィン!

烈鬼の鬼石は、ツチノコの片方の牙に命中し、付け根から粉砕した。驚いたツチノコは、吐きかけた火球を飲み込んで首をすくめた。

「よし!」

その機を逃さず、蒼鬼は両手の小柄を力いっぱい大空へ投げ上げた。そして胸の前で素早く印を結ぶと、無作為に舞い上がった12本の小柄は、まるで1本1本が意思を与えられたかのように等間隔に広がり、ツチノコを取り囲むように木や岩や地面に刺さり、再び浄化の鈴の音を鳴り響かせた。

GYUAAAAAAGYUOOOOO!

またしても見えない音波の枷が、ツチノコを絡め取った。

蒼鬼はバックルの「絶花」を取り外すと、こぶし大の鈴に変形させて神刀「魂魄」の柄に繋いだ。じゃらんと垂れる鈴のついた魂魄を両手で捧げ藻つと「鈴音天唱の陣」を不動のものにするべく強力な念を送り始めた。

「烈鬼くん、ヤツの口の中へ鬼石を!」

「了解!」

―――こうなりゃ撃ってやるさ。倒すまで!

烈鬼は渦潮を構えなおすと小刻みに震える魔化魍の大きな口を狙った。鬼石の残弾は3発。烈鬼は躊躇なく全弾を放った。

ギュウウウウウウンと回転しながら連なって飛ぶ鬼石はツチノコの口の中へ飛び込んだ。

「よし!」

烈鬼はバックルの音撃鳴「雅嵐」を渦潮にとりつけて音撃奏を放とうと身構えた。だが次の瞬間・・・。

ガリリリリ―――

「何?」

「ま、まさか―――」

蒼鬼と烈鬼はその音に愕然とした。

体内にくい込んで渦潮の音撃奏を待つはずの鬼石は、ツチノコの強靭な歯によってガリガリと音をたてて噛み砕かれていた。信じがたいことだ。

バンババン。

再び、蒼鬼の呪縛の鈴がツチノコの邪気によって破壊されはじめた。さきほどよりも崩壊が早い。

「だ、だめだ。やっぱり・・・」

烈鬼ががくりと膝をついた。

「まだだ。あきらめるな!」

蒼鬼は叫びながらツチノコめがけて駆け出した。ツチノコは次第に自由を取り戻し始めている。懐に飛び込めば間違いなく圧殺されてしまうタイミングだ。無謀としか思えない突進だ。

「蒼鬼さん、無茶だ!戻ってください!」

バチン!

12個目の鈴が砕けてツチノコが捕縛から解放された時、蒼鬼はその鎌首の真下にいた。

ヴゥン。

ツチノコが巨体をうねらせるや、豪快な風切音とともにムチのような尾が蒼鬼を襲った。

トオオオ!

蒼鬼は振り下ろされた尾をかわして垂直にジャンプした。ビルに例えれば5階くらいの高さであろうか、鎌首をもたげたツチノコの鼻先まで飛び上がった蒼鬼は、気合もろとも神刀魂魄を横に払い、残ったもう1本のキバを見事に切り落とした。牙をすべて失ったツチノコは、痛みよりも怒りに燃えて身悶えた。

着地した蒼鬼は止まることなくツチノコの首の真下へ身を躍らせ、右手の魂魄をくるりと逆手に持ち直し、頭上をうねる喉めがけて思い切り投げ上げた。

ヒュン―――

一条の銀光と化した神刀は、ツチノコの堅固な鱗の間を縫ってその生え際へ見事に突き刺さった。

GYAAAAAAAAAAAA!

喉に神刀魂魄を刺したまま、ツチノコは引き裂かれるような激痛に悲鳴をあげた。それを抜こうと首を振れば振るほど柄に繋げられた鈴を大きく鳴らし、清めの音がさらに巨大な魔化魍を苦しめる。

「烈鬼くん。音撃奏だ!」

「承知!」

烈鬼の体躯から闘気がオーラとなってゆらゆらと立ち上った。彼が音撃奏奥義「虎咆雷鳴」を放つ前触れだ。その高まりが最高潮に達したとき、雅嵐と一体化した渦潮から荘厳なるバストロンボーンの音色が牙をむいてツチノコに襲いかかった。

BWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO―――

GYOOOAOOAAOAAOOOAAOO!

鈴と管のダブル攻撃によってツチノコは太い体を縦横にくねらせてもがいた。陸に打ち上げられた魚のようにビチビチとはねまわる30メートルの巨体は、周囲の岩を砕き、巨木をへし折って、美しい渓谷を台無しにしてゆく。降り注いだ瓦礫は渓流を塞き止め、ふたりの鬼にも無数の傷を負わせた。しかし、100年に1度現れるという巨大な魔化魍はまだ倒れない。それでも烈鬼は吹く!吹く!吹く!

「鈴を狙って吹け!」

蒼鬼の指示で、烈鬼は渦潮のスライドを一気に押し出した。トロンボーン型音激管の音は超低音に変わり、同時に音撃の指向性も魂魄に繋がった鈴めがけてグンと絞りこまれた。

片や猛烈な音撃の振動を一身に受けながら、蒼鬼の鈴はさらに盛大に清めの音色を放出していたが、にわかに表面が光を放ち始め、徐々にその光度を増していった。その光はやがてツチノコに刺さった魂魄の刀身をも巻き込み、ついには全身を眩い光の槍へと変化させた。

ドシュッ!

GYOEEEEEEEEEE―――

光の槍は目に見えぬほど細かく激しく振動しながら、凄まじい推進力でツチノコの頑丈な顎から頭頂部を貫き、猛烈な勢いではるか天空へと飛び去った。

ツチノコの体を守っていた刃のごとき堅牢な鱗が砕けとび、魂魄が一直線に刺し貫いた下顎と脳天には見事に丸い穴がぽっかりと開いていた。怒りと苦痛に燃えていた真っ赤な目玉はぐるりと反転して白目になり、半開きの口からはあのドリル状の長い舌がだらりと垂れ下がっている。ゆらり―――とその巨体が傾いた。

ドドーン

ツチノコの巨体はまるでスローモーションのように渓流の中へ倒れかかり、着水する寸前、大音響とともに砕けて散った。

蒼鬼の体が猛烈な爆炎の中へかき消えた。

「蒼鬼さん!」

爆発は蒼鬼のいるあたりが最も激しかった。烈鬼は目を凝らして仲間の安否を確かめようとしたが、もうもうとたちこめる煙と、飛散した無数の肉片がそれを遮ってしまう。

「蒼鬼さぁん。無事ですか?」

両手をかざして声をたよりに蒼鬼の姿を追っていた烈鬼は数十秒後、ようやく近づいてくる人影を認めた。

―――蒼鬼・・・さん?

頭部の変身を解いた蒼鬼は無表情で、頭髪は汗と川の水でぐっしょりと濡れて額や頬にはりついている。一見して冥界から迷い込んだ亡者のようだ。ざぶざぶと川の浅瀬を歩きながら烈鬼のほうへやってきた。

シュン―――

抜けるように青い天空からさきほど飛び去った魂魄が落下してきた。大地を貫いて地層深くまで到達しそうな勢いで、刃を下に向けて一直線に降ってきた刃渡り30センチ強の神刀は、蒼鬼の眼前でぴたりと停止し、主の指示を待つ忠犬のように宙に留まった。

蒼鬼は無言でその柄を握ると、くるりと反転させて背にくくりつけた鞘にパチンと納めた。

ふぅ〜と大きく息を吐いた後、蒼鬼はようやく烈鬼に視線をむけると、両頬にえくぼを作った。

「やったね」

固唾を呑んで蒼鬼を見ていた烈鬼もようやく呼吸を再開し、蒼鬼のもとへ駆け寄った。頭部の変身を解き、鬼の顔から人のそれへと戻した。

「大丈夫ですか?蒼鬼さん」

「まぁね」

ポンと烈鬼の肩に手を置くと、彼を促して渓流の外へ出た。

「力をあわせるってすごいね。あんな怪獣みたいな魔化魍でも僕たちは倒せたんだ」

蒼鬼は川原の岩に腰を下ろした。

「だけど蒼鬼さん。俺の音撃奏を受けた魂魄があんなふうに・・・まるで、光の槍みたいになるっていつから知っていたのですか?」

「知るわけないよ」

「へ?」

烈鬼の目が点になった。互いの技を出しつくしたあの極限状態でツチノコの懐に飛び込んだ蒼鬼は、確実に死地にいた。その中で蒼鬼は烈鬼の「虎砲雷鳴」を魂魄の鈴にぶつけ、音撃鈴と音撃奏を融合させるよう指示したのだ。失敗すれば一瞬でひねりつぶされてしまうことは目に見えていたのに、それがただの思いつきだったとは。豪胆というか、行き当たりばったりというか・・・。

―――信じられないな、この人。ハハハ。

なんだか可笑しくなってしまった。

「今、笑ったろ」

腰を下ろしたまま、蒼鬼は上目遣いに烈鬼を見ている。

「え?い、いや笑ってないですよ」

「笑った。絶対笑った。ま、でもいいけどね」

蒼鬼はよっこらしょと大儀そうに腰を上げた。

「僕はただ鬼の力を信じているだけなのさ」

「鬼の力を…信じるだけ?」

「そう。具体的にどうなるかはわからないけれど、とにかくすごいことができるに違いない。二人のパワーの相乗効果でどんな邪気も打ち祓えるってさ」

そう言うと蒼鬼は月の輪を停めてある下流へ歩き出した。

「蒼鬼さん」

「後で」

振り向かず後姿のまま片手をあげると、その鬼は川の上に大きく張り出した岩の向こうへ姿を消した。

がん細胞のごとき邪悪な存在を除去することができた甚吉森は、再び美しく清浄なる山に戻った。

鬼の証

(六)家族

剣山民俗博物館は午後7時に閉館する。正面入口に施錠し、館内をモップがけした後、今日の入場料や売店の売上の精算など、一日の締めと明日のための準備を行うのが職員たちの日課となっている。今日は最後の来訪者が午後6時すぎに帰ったため、比較的閉館後の後始末は早く済んだ。

午後8時―――。

館内はすべて照明も消され、既に非常灯だけになっているが、裏の方から賑やかな声が聞こえてくる。何やら楽しそうな声だ。

博物館のすぐ背後にある里山に面した20坪ほどの裏庭に、折畳式テーブルや椅子、バ−ベキューコンロなどのキャンプ用品が並べられ、その周囲に亜沙子、鎖冷鬼、裕作そして猛士四国支部長の滝が集合していた。

今日は滝の48回目の誕生日である。閉館後、皆ここで滝のための誕生日パーティを開こうと決めていたのだ。

「は〜い、ケーキの到着でぇす」

亜沙子が博物館の裏口から大きなケーキの箱を大事そうに抱えて出てきた。箱の大きさから察するに、直径が20センチほどもある立派なケーキだ。鎖冷鬼と裕作が歓声と拍手でそれを迎え、うやうやしくテーブルの中央に迎え入れた。

「おいおい、食事の前にもうケーキ持ってきちゃったのかい?」

照れくさいのか、滝はさっきから苦笑いしっぱなしである。

「いいじゃないですか。ケーキが真ん中にあった方が華やかでいいと思いません?」

「亜沙子さんに賛成!」

「鎖冷鬼さんに賛成!」

猛士のメンバーたちは皆家族同然のつきあいをしている。中には亜沙子のように、かつて猛士のメンバーであった両親を魔化魍に殺害され、彼らが本当の家族だと思っている者も少なくない。こうした年中行事は、日々命懸けで魔化魍と戦っている彼らにとって互いの絆をいっそう強く深くする大切なイベントである。したがって皆、子供のようにはしゃぐ。

バーベキューコンロの網に乗せられた肉や野菜がたまらなくいい香りをたて始めた頃、二種類のエンジン音が博物館の駐車場に入ってきた。

「あ、帰ってきた!」

亜沙子が肉をひっくり返す手を止めて、駐車場へ駆けていった。眩いみっつのヘッドライトが消され、大型の4輪駆動車とトレールバイクから降りた3人の人影が裏庭に近づいてくる。

「蒼鬼さんお帰りなさい。烈鬼くんも聖依子さんもお疲れさま」

甚吉森でツチノコと大立ち回りを演じ、見事にこれを退治した鬼たちである。その後、今日のパーティに何とか間に合わせようと、皆愛車を飛ばして帰ってきたのだ。

「間に合ったかい?」

ヘルメットを脱ぎながら蒼鬼が亜沙子に尋ねた。既にいい香りが空腹の彼らの鼻孔をくすぐっている。

「ええ。丁度今お肉が焼けたところよ」

烈鬼が歓声をあげながらバーベキューコンロをのぞきこんだ。

「うわぁ、ここは天国だぁ」

「もう、ほんとに子供なんだから」

後から続く聖依子が肩をすぼめている。戦いを離れれば、ふたつ年上の聖依子にとって烈鬼はまだまだ子供にしか見えないのだろう。

「じゃあみんな揃ったところで乾杯しましょう」

「あれ、燦鬼さんと本間くんは?」

グラスを持つ鎖冷鬼を制して蒼鬼が尋ねた。燦鬼たちは午前中に支部へ向かって山を降りている。とっくにここに着いているはずなのだが。

「ああ、彼女たちはウブメを倒したときの報告用ディスクアニマルを置いてとっくに帰ったよ」

滝が微笑みながら指差したテーブルの隅っこには<Happy Birthday 師匠>と書かれたカードとともに春らしいパステルカラーで統一されたブーケが置かれていた。

「なるほど」

彼女らしい、と蒼鬼は思った。なぜだか知らないが、燦鬼はあまりこの博物館に寄りつこうとしない。師匠である滝との間に何か確執があるのでは、とか大企業の社長令嬢だから生活スタイルが違いすぎる、とかいろいろ憶測が飛び交っているが、彼女は彼女なりに師匠としての滝を敬愛し、この支部や仲間たちを大切に思っている。それはフィールドで共に戦う鬼同志としてはっきりと感じることが出来る。彼女の本心はわからないが、ただ照れくさいだけじゃないかな、と蒼鬼は思っている。

「まあクールな燦鬼さんにバースデーケーキは似合いませんものねぇ」

「あっ、そういうこと言うと圭一くんにヤキ入れられるわよ、裕作くん」

「わっ、わっ。今のナシ!内緒にしといてくださいね、亜沙子さん!」

腰をかがめて手を合わせる裕作の姿に一同は大笑いだ。

「まぁまぁ、今日はみんなお疲れのところ集まってくれて本当に有り難う。蒼鬼くん、烈鬼くん、聖依子さんはツチノコという百年に一度のとんでもない魔化魍を見事に退治してくれたそうで、お疲れさまでした。さぁ、肉も焼けたし今晩はゆっくり楽しもうよ」

聖依子に促され、最年長の鬼である蒼鬼がコホンと咳払いして、声を張り上げた。

「じゃあ、ハッピーバースデー滝館長!カンパイ!」

「カンパーイ!ハッピーバースデー滝館長!」

クーラーボックスから取り出した冷たい缶ビールを掲げて、皆たからかに唱和した。今晩は全員博物館で泊まるつもりで寝袋やら枕やらを持参している。とことん飲んで騒げる態勢は整えてあるのだ。

烈鬼は炭酸飲料の缶を持っている。20才の誕生日までまだあと2ヶ月あるため「あんたはダメよ」と、カンパイ前から聖依子に缶ビールを取り上げられていたのだ。肉をほおばりながら、新しい缶ビールをクーラーボックスから取り出して蒼鬼に手渡した。

「蒼鬼さん、今日はお世話になりました」

「いやいや、久々に君の音撃奏を見せてもらったよ。益々磨きがかかったんじゃないのかい?」

「いえ。音撃の破壊力だけが俺達の武器じゃないこと、今日の戦いではっきりと教えてもらいました」

「なんの。あれはただの思いつきだって言っただろ。たまたまだよ、たまたま」

いいながら蒼鬼は手渡された2本目の缶を空にした。あまり酒が強くない蒼鬼にしてはいつもより少しペースが早めなせいか、目の縁が心なしか赤くなり始めている。

「なんだい蒼鬼くん。もう酔っっちゃったのかい?」

滝が近寄ってきて、蒼鬼の缶ビールに自分の缶をカツンとあてた。笑うとできる目尻の皺が人の良さを強調している。

「蒼鬼くんはどちらかと言えば甘党だものね」

「ええ、まぁ。館長も甘党だと思っていましたが、結構いけるクチなんですね」

「僕は甘辛なんでも来いさ。ビールを飲みながらでもホレ」

言うなり滝が指先でケーキのクリームをちょいとすくって口に入れた。

「あ〜!館長、なにしてるんですか?ケーキは後でしょ?」

「いいじゃない、僕のケーキなんだから…」

「だめ〜!」

「わははははは」

里山の頂上へ向けて吹き上げる風にも春の温かみが感じられる夜である。

猛士たちの笑い声もその風に乗って舞い上がり、はるか満天の星空にまで運ばれてゆくようであった。

家族

<完>

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