裏の戸は閉めたか
うちの家は表から見ればごくありふれた古い二階建ての日本家屋だ。
玄関は片側二車線の市道に面していてそれなりに人通りも多い。
だけど裏通りは。。。ちょっといけない。
木製の裏戸を開けると、人と自転車が辛うじてすれ違える程度の道幅の狭い道路に出る。
日があるうちはよい。
問題は、夜になるとその道を妙なモノが通ることだ。
人は通らない。
得体の知れない、妖怪や魍魎どもが音もなく通るのだ。
黙ってすれ違ってゆくモノもいれば、じぃっとにらみ合いながら通り過ぎてゆくモノもいる。
中にはキバをむいて周りを威嚇しながら歩いているモノもいる。
裏の道は裏戸を出て右へ向かうと十数メートル先で右へ直角に曲がって表通りへと続いている。
左へ行けば少しずつ上り坂になって、やがて川を見下ろせる山手の閑静な住宅地に続いてゆく。
裏通りはもともと人通りがほとんどない。朝夕には駅から住宅地へ帰る人たちが近道として利用しているが、あとは野良猫が通っているくらいのものだ。
二階へ上がって裏側の窓を開くと、正面に裏隣の家屋が見える。二階には物干し台が設えられていて時々裏の奥さんが洗濯物を干している。
顔を合わせば「いい天気ね」などと笑顔で話しかけてくれる。
日が落ちてからも、なんということのない日常の景色が広がっている。
だが夜に階下の裏戸を通って外へ出ると決まっておかしなことになるんだ。
どうやらうちの一階に問題があるみたいなのだけれど、よくわからない。
僕の家はだいぶ古くてサッシなんかは入っていないから、裏戸や裏窓にはわずかな隙間ができている。家が傾いているせいかもしれない。
裏戸には、これも古いガラスがはめ込まれている。戸の中央より少し上、ちょうど人の顔のあたりにある四角い枠に囲まれたガラスだ。お饅頭の箱くらいの大きさのガラス。そこには向こうを通る異形のモノたちの影が映ることがある。ガラスには細かい模様が彫り込まれているし少し波打っているので、戸の向こうにいるモノがどんな姿かたちなのかはっきりとはわからない。
そんな時(どうしても興味をそそられたのなら)戸の隙間から外を覗いてみる。
するといる、いる。
異形のモノたちのオンパレードだ。
額から角が突き出た鬼のようなモノ。ヌルヌルと体表が光っていて形が不定形のモノ。何かはわからないがケモノの頭を持ったモノなど、いろいろだ。中には何か他の妖怪をムシャムシャ食べながら歩いているモノもいた。そんなモノたちを見た時はいつも背筋がブルルっと震えて慌てて裏戸から離れたものだった。
そんな気味の悪い裏通りだから僕は滅多に足を踏み入れなかったけれど、一度だけ玄関から外へ出て表通りから裏道へ進んでみたことがあった。
理髪店と喫茶店の間から入って進んでゆく。
曲がり角で反対側から来た自転車の女の人と鉢合わせてひどく驚いたが、その人は普通の人間だった。僕がじぃっと見つめたものだからその人は変な顔をして急いで表通りへと自転車をこいでいった。
まだ明るいと思っていたのに、なんだか日がだいぶ傾いている。
今は何時だっけ?おかしいな、日が暮れるまでにはまだだいぶ時間があったはずだけど?
なんだか太陽だけが早回しの映像のように動いているような気がした。
だから歩くスピードを少し速めながら歩き続けて、僕はそのまま自分のうちの裏戸の前までやって来た。
なんだ、結局何も起きなかったじゃないか。
安堵と拍子抜けが入り混じった思いだったけれど、裏戸は鍵がかかっていたので家の中へ入ることができない。
仕方がないのでもう一度表通りへ出て玄関から家へ入ろうと思って踵を返そうとしたとき。
「後ろ向いたらアカン!」
うちの中からばあちゃんの声がした。仏間の少し小さな窓の向こうに人影が見えた。
いつもは穏やかなばあちゃんの珍しくきつい言い方に僕はびくっとして動きを止め、言われた通り後ろを見ないで再び前へ歩き出した。
しばらくゆるやかな上り坂を歩いていると後ろから何やらひそひそと話し声が聞こえてくる。
なんだか僕のことを話しているような気がしてならなかった。
誰か知っている人がいるのかと思い振り返ろうとして、僕はまたばあちゃんの言葉を思い出して何とか思いとどまった。
振り返るなってことは当然後戻りしてもいけないのだろう。とにかくこの道を前へ前へと行くしかない。
すると今度は、背後から誰かが僕の首筋にふっと息を吹きかけた。
とても冷たい息で、ひっと首をすくめた僕は思わず立ち止まってしまった。
その途端後ろからううんと何かに押される感触が伝わってきた。
何だろう?
すごく押してくる。なんだか大勢いるみたいだ。
後ろは一体どうなっているのだろう?
すごく興味がわいたけれど、同時にすごく怖かった。
目だけをおもいきり動かして左右を見られるだけ見た。
何もいないけれど、でも何かいる。
何も見えないけれど、でも絶対何かがいる。
何かが僕の襟元から背中に手を入れてきた!
なんて冷たい手なんだ。
もしかしたら僕は。。。
僕は今。。。
途方もない数の化け物どもにのしかかられているのだろうか?
歩こう。
とにかく歩くしかない。
足だけがまるで機械仕掛けのからくりのように動き続けて僕を前へと進めた。
しばらくはこんな具合に奇妙な圧迫感を背後に感じていたけれど、進むにしたがって少しずつ圧が減っていった。
道は次第に坂になり、やがて小高い山の斜面にできた新しい住宅地に出た。
表通りは少し細くなり、頑丈なガードレールの向こうには甲ノ瀬川が見える。
ここは河口近くで川幅はかなり広い。目を右に転じると水平線に日が沈んでゆくのが見える。
ああ人間の世界に戻ったんだ、と訳もなく実感した。
うちの玄関を開けるとばあちゃんが立って僕を待っていた。
「長いこと出かけとったのう。はよ上がれ」
とほほ笑んで手招きした。
長いこと?
さっき玄関を出て町内をぐるりと回って来ただけなのに?なんだか時間の感覚がおかしくなっているのかな。
でもそう言われてみると確かにすごく疲れている。何キロも歩き続けたみたいに、肩が重くて足もだるい。
僕がクツを脱いで上がるとばあちゃんがスッと背中を撫でてくれた。
その瞬間、疲労感がうそのように消滅し、背筋がしゃんと伸びて下半身もフワリと浮き上がるような軽い感じになった。
「ばあちゃん、今のは。。。?」
「はよ、ごはん食べ」
ばあちゃんはそのまま仏間に入ってふすまを閉めてしまった。
僕はその時裏戸を開けて裏道の様子を見てみたい衝動に駆られたけれど、やめておいた。
今度は無事に家へ戻ってこられないかもしれない。そんな気がしたから。
あの恐ろし気な妖怪どもの世界にひとり取り残されたらと思うと、たまらなく怖くなった。
大嫌いな童話がある。
七匹の子やぎというお話だ。
お母さんやぎが買い物に出かけている間に子やぎを食ってやろうと狼がやってくる。
戸を開けさせようと狼はいろいろと策を巡らせる。
太い声をやさしくしたり、黒い手足を白く塗ったりする。
そしてついに戸を開けてしまった子やぎたちは柱時計に隠れた末っ子以外、全員丸のみにされてしまうのだ。
板戸一枚隔てて対峙する狼と子やぎ。
食う者と食われる者。
想像しただけで背筋が凍るではないか。
うちの裏戸も似たようなものなのかもしれぬ。
古ぼけて隙間も空いている建付けの悪い戸ではあるが、閉まっていれば安心だ。しかし万が一にも化け物が通りかかった時に開いていればどうなるのか?
「裏の戸は閉めたか?」
今日も隣の仏間からばあちゃんの声がした。
「ああ、閉めたよ」
ばあちゃんは1日中仏間に布団を敷いて寝ている。
たまにご飯を作ったり風呂に入ったりする時には部屋から出てくるが、滅多に顔を出さない。
だから買い物なんかはいつも僕が代りに行く。
1日の最後、寝る前には必ず「裏の戸は閉めたか?」と尋ねる。
ばあちゃんも裏通りを人ではない妙な連中が歩いていることを知っているのだろう。
そりゃあ知っているだろうさ。この家に長い長い間住んでいるのだから。
一度「ばあちゃんは怖くないの?」と尋ねたことがある。
「家から出んかったら怖ぁない。裏の戸さえちゃんと閉めとったら怖ぁない」
と笑って言っていた。
まだばあちゃんが僕の手を引いてスーパーへ一緒に買い物に行っていた頃だ。
だけどそれは。。。戸を開けたままにしておいたら恐ろしいことになる、ということだ。
―――どんなことになるのだろう?
それはとても恐ろしくて、だけど大いに興味深いことだった。
考えてみれば、そんなに注意しなければならないのなら端から施錠しておけばよい。何なら釘でも打って締め切ってしまえばいいじゃないか。
だけどばあちゃんはそうはしなかったし、裏戸は毎日朝になると鍵がはずれていた。
寝る前に施錠して、朝起きると鍵が開いている。
誰かが開けているのか?しかしうちには僕のほかにはばあちゃんしかいない。
僕が寝ている間にばあちゃんが仏間から出てきて裏戸の鍵を開けているのか?何のために?
わからない。
わからないけれど、開いているから仕方なく毎日寝る前に鍵をかける。
中学生になって僕は部活を始めた。
小さいころから走ることが好きだった僕は陸上部に入って長距離の選手になったんだ。
呼吸を一定にして胸を張り前を向いてどこまでもいつまでも走り続けるのは心地よかった。
顧問の先生はいつもタイムのことを話題にしていたけれど、僕はそういうことはあまり気にしていなかった。
ただ走っているのが楽しかったから。
それでも基礎体力がつき心肺能力がアップしてくると、僕のタイムはけっこうなレベルになってきたらしい。
先生はまだ1年生の僕を秋の県大会に選手として送り出すことを決めた。
大会に出ることは、まぁそんなに嫌じゃなかったから僕も承知した。
だけどそうなると練習は以前に増して厳しくなるし、すっかり暗くなっても僕はトラックを走り続けなければならなかった。
いくら走ることが好きでも、さすがに帰る頃にはくたくたで、うちに着くまでによく買い食いをするようにもなった。
うちではばあちゃんがご飯を用意してくれていて、手を洗ったらすぐ食卓についた。
ばあちゃんは先に済ませたらしく僕は毎日ひとりで晩ご飯を食べた。
「よう噛んで食え」
ばあちゃんは奥の仏間からそう声をかけた。
そして食べ終わって食器を洗っていると
「裏の戸は閉めたか?」
ときいてきた。
僕はいつものように「閉めたよ」と言いながら裏戸に鍵をおろした。
大会を目前に控えたある日、陸上部の練習はいつもよりも一段と厳しかった。
すっかり暗くなって運動場にライトが点灯してもみんなずっと走ったり跳んだりしていた。
さすがにもうこれ以上は、という時間になって先生が練習の終了を告げ、部員たちに「家族に迎えに来てもらえ」と告げた。
おそらくあらかじめ各保護者には通達してあったのだろう。だけど、うちにはそんな連絡は入っていない。先生もうちの家庭事情は理解している。
僕に声をかけて「お前は俺が送る」と自分の車に乗せてくれた。
学校から僕のうちまで車だと15分くらいだろう。
だけどその日僕はすごく疲れていたせいか、先生の車の後部席に座った途端眠ってしまったんだ。
「裏の戸は閉めたか?」
夢の中でばあちゃんの声が聞こえた気がした。
そうだ、裏の戸を閉めなきゃ。僕は「うん」と返事をした。。。のだろうか?
妙な気配を感じてハッと目を覚ました時はもう遅かった。
大きな妖怪が1体、家の中に立っていた。
鍵の開いていた裏の戸をくぐって入ってきたんだ。
しまった!
昨晩は疲れて裏の戸の鍵を閉めずに寝入ってしまったのだ。ばあちゃんが注意してくれたのに!
後悔したがもう遅い。
蒼白い体色で薄汚れた布をまとっている。まとっているというよりいかつい肩にひっかけて体の前に垂らしているという感じだ。
ざんばらの髪が顔にかかっている。
目と口が異様に大きい。
黒目だけのまん丸の目はまばたきをせず、真っ赤な唇の口は、たぶんそれは女のものだろうけど、あああんと開いている。人のものよりも大きな四角い歯が数本露出している。
僕は咄嗟に逃げなきゃと思った。チラリと表玄関を見る。
皮肉なことに玄関の戸は鍵が閉まっているはずだ。
走っていって開けようか?
こいつは走るのか?速いのか?
いくら僕が陸上部でも玄関にたどり着いて鍵を開けて戸を開けるだけの時間があるだろうか?
追いつかれたら。。。僕は大きく開いたこいつの口を見た。
僕を食らうつもりに違いない。
怖い!
怖い!
鍵を開けずに戸に体当たりして表通りに出ようか?大けがをするかもしれないが食われるよりはましかもしれない。
いや、ダメだ!
僕が逃げたらばあちゃんはどうなる?
奥の仏間に残されたばあちゃんは!
気づかれずに済むだろうか?
もうひとつ気がかりなことがある。
この妖怪が表通りに出てくることで、表通りに異変が生じはしないか?裏道のように、表通りまで妖怪が跋扈する世界になってしまうことはないのか?
そうなれば僕たちに逃げ場は無くなってしまう。
どうしよう。。。進退窮まったぞ。
「二階へあがれ」
仏間からばあちゃんの声がした。
二階へ?ますます追い詰められるじゃないか。。。
妖怪は声がした仏間の方に目をやった。
そこにもいるのか。。。
大きな目が極限まで見開かれてまぶたがピクピク痙攣している。
いけない。ばあちゃんが!
「二階から外へ出ぇ」
僕は咄嗟に階段へ走った。
妖怪はサッと僕に向き直り追ってきた。
案の定、敏捷な動きだ。
タタタタタン。
二階へ上がって窓を勢いよく開け放つ。
背後からは妖怪が後を追って階段を上がって来る。段差に苦戦しているのか、追跡のスピードは少し落ちている。
僕は窓の外へ首を突き出した。
なんとそこはいつもの平常な裏通りだった。
裏のお宅の物干し台には洗濯物が揺れている。
昼間は見慣れた景色だけど、日が落ちてからは見たことがない。
普通の、人間の世界だ。
ここから飛び降りるのか。
妖怪は二階に上がりきってすぐ背後にいる。
少し怖かったけれど、僕は手すりを乗り越えて一気に3メートル近い地面へ飛び降りた。
着地の瞬間足首に痛みを感じたけれど、僕は構わず二階の窓を見上げた。
妖怪は追ってきていない。
飛び降りることを恐れて階段から下へ降りたのか?
だとしたらばあちゃんが危ない。僕はいそいで開いたままの裏戸から家の中へ入った。
妖怪はいない。
おそるおそる階段を見に行ったが姿はない。
まさか仏間へ?
「ばあちゃん!」
「はいよ。ご苦労さん」
いつも通りのばあちゃんの声だ。
「妖怪は?」
家の中を見回しながら僕は尋ねた。
「もう消えた」
ばあちゃんの声は穏やかだ。
「消えた?出て行ったの?」
「いんや、消えたんじゃ。おまえが二階から外へ出て、何にもない日常の世界からこの家の中に入ったことで家の中が日常の世界に戻ったんじゃ。ほじゃけん妖怪も消えた」
そうか。それでばあちゃんは僕をわざわざ二階から裏道へ飛び降りさせたのか。
ということは、あの時僕が妖怪を引き連れて表通りに出ていたら、やはり。。。
「ほっほっほ。よう気がついたわ。危なかったのう」
ばあちゃんはまるで僕が考えていたことがわかっているように笑った。
「でもよかった。あの妖怪もいなくなって」
僕が言うと、ばあちゃんはちょっと怖い声で言った。
「いや。消えはしたがいなくなったわけではないぞえ。あの妖怪はまだここにおる。おまえの真横でお前を恨めしそうに見とる」
僕は背筋がぞくりとした。あの妖怪はまだこの家の中にいるというのか。
もしまた裏戸を開けてあの妖怪の世界が家の中に流れ込んできたら、たちまちあの妖怪はまたここに存在することになる。
そして現れたら最後、ヤツは。。。
「大けな口を開けてお前の頭をかぶりつこうとしとるでなあ。気ぃつけや。ほっほっほ」
ばあちゃんが仏間のふすまを少し開けてこちらを覗いている。
「くわばら、くわばら」
そしてピシャリとふすまを閉じた。
<完>