「PUFFと怪獣倶楽部の時代」
〜特撮ファンジン風雲録〜
2019年5月発売 中島紳介 編・著 まんだらけ出版部
私が怪獣倶楽部のメンバーでもある池田憲章さんのナマのお話を伺うことができた北島町創世ホール。そこでさまざまな個性的な講演会や演奏会をプロデュースしておられる小西昌幸さんからメールをいただき『怪獣・特撮愛好家の必読必携資料です』とお勧めいただいたのがこの本です。 テレビドラマ化もされた「怪獣倶楽部」は特撮ファンなら名前くらいは聞いたことがあるはずです。今のようなムックやファンジンなどまったく無い時代(それもそのはず、今我々が手にしているさまざまな資料本や雑誌はおおかた彼らの尽力によって生まれたものなのですから)、既に過去のものとなっていた多くのアニメや特撮作品にふたたび命を与えんと、まるで見えない糸に手繰り寄せられるように集まったもののふ達。その主なメンバーひとりひとりに光をあてた1冊です。 それぞれの水源からあふれ出た清水がそれぞれの流れを辿って支流から本流へ、そして海へと繫がる不思議な縁のドキュメンタリーです。それらの支流は一見同じような水流ではあっても、その生態系も違えば水質も違うものばかり。それがひとつの奔流となってゆくさまはまさしく壮大な群像劇そのものです。 ところで、読んでいてずっと頭の中にある疑問が湧き上がっていました。 「自分はどうして怪獣倶楽部の一員にはなれなかったのか?」 ―馬鹿なことを言うな。なんでおまえが? と即座に自分自身がその考えを笑い飛ばすのですが、章が変わるたびにモグラ叩きの忌々しいモグラどものようにまたムクムクと同じ問いが湧き上がってきます。身の程知らずの己が考えを鎮めるためにも少しまとめてみましょう。 1)怪獣倶楽部のメンバーはおおかた1950年代前半までの産まれ。 私は1959年3月生まれ(上皇様がご成婚なさり、少年マガジン、少年サンデーが創刊されました) この数年の差はけっこう大きいのです。 月光仮面を、七色仮面を、リアルタイムで鑑賞し、実写版鉄腕アトムも実写版鉄人28号も記憶し、 この本にも書かれていますが、当時の子供がテレビを観られるのは7時台まで。8時以降は大人の時間なのです。暗黙の了解でした。怪獣倶楽部の皆さんに大きな影響を与えたであろう海外ドラマなども私はその存在さえ知りませんでした。 最年少の原口智生さんは私よりもひとつ年下ですが、あの方のように幼少時から撮影所に出入りできるような特殊な環境にあった方は別格と言ってもいいでしょう。 とにかく辛うじて1950年代に産まれたとはいえ(大きく)一歩出遅れたというのは紛れもない事実です。 2)徳島に住んでいた。 これは都会に住んでいる方には理解できない理由かもしれません。実際に住んでみないと。。。 我がふるさとを貶すのはいかがなものかと思いますが、とにかく徳島は文化的後進県であったことに間違いありません。 書店には読みたい本が並んでいません。(最近はアマゾンを利用していますから不便はありませんが)大阪へ出たときの大きな楽しみの一つが書店訪問です。紀伊国屋書店(徳島にも小さな紀伊国屋書店はありますが)、旭屋書店、ジュンク堂書店などあの奥行きの広い書店に足を踏み入れたら心が躍ります。探している本は十中八九あの「異世界」のどこかで私を待ってくれています。 映画もよほどの話題作しかやって来ません。「全国ロードショウ」の謳い文句にひとりクレームをつけながら、ツイッターの賞賛のつぶやきを見るしかない歯がゆさったらありません。 専用のコンサートホールもびっくりドンキーもありません(。。。) 小学生のころは東京12チャンネル(今のテレビ東京)は受信できず、ハレンチ学園も怪傑ズバットも恐竜大戦争アイゼンボーグも七星闘神ガイファードもハレンチ学園(ええ、2回目ですともw)も何も観られませんでした。超光戦士シャンゼリオンにいたっては大阪、東京出張時の大きな楽しみでした。紀伊水道をはさんだテレビ和歌山がテレ東をネットして少しずつ観られるようになりましたが、不便を感じずに楽しめるようになったのは地デジ放送が開始されテレビ大阪が観られるようになったごく最近のことです。 予断ですが高知県に近い県南のおじいちゃんが住んでいたあたりでは視聴可能なチャンネルは地元放送局とNHKの2つ。アニメは黄金バットただひとつでした。ワハハハハハ!(笑うしかありません) こんな状況で、特撮を語ることなどできませんでした。 3)同好の士がいなかった。 書くことはわりと好きなほうでした。小学校のときも終了してしまったウルトラシリーズを懐かしみ、オリジナルのウルトラQのお話を書いたりしたこともありました。 環境破壊によって本来大人しい巨猿(ゴローみたいな)が暴れ始めて。。。みたいなカビのはえたような短いストーリーなんかを書いていましたが、これらはすべて私の机の引き出しの中で朽ちてゆきました。(一度おふくろが見つけて読んでいましたが。。。) もしもこんな拙いストーリーでも持ち寄って読み比べて批評しあえる仲間に出会えていたら、もしかしたらそんな人の輪の広がりがSFマガジンという雑誌の存在を知らしめてくれていたかもしれません。
しかし、そんな繰り言を並べてみても詮無いことです。 私には、たとえ一人でもこの胸に灯ったちいさなアニメ特撮愛好の火を維持し、育て、大きな熱量とし、誰かに伝えたいという思いを爆発させる器量がなかったのです。 関西から衝撃波Qを発刊した開田裕治さんのような力強さが足りなかったのです。
北島町創世ホールが2003年に竹内博さんの講演会を実施されています。このことを私は後から知りました。 ああ、しまった! 慙愧の念とはこういうことなのでしょう。 しかし有難いことに創世ホールでは2011年に今度は池田憲章さんを招 大伴昌司さん、竹内博さん、富沢雅彦さん、私が気づいたときにはもう皆さん目の前を駆け抜けてしまった後でした。 講演後、池田さんも体調を崩されたとのこと。 過去にジョイントできなかったのであれば、これからでもお話を伺いたいものです。 この本の随所で感じた「ああ、私もそうでした!」という時空を越えた一体感を今からでも味あわせてもらいたいのです。 楽しい1冊を手に取ることが出来ました。これもまた出会いですね。 |