コクリコ坂から
2011年7月16日全国公開
1963年、私はこの世にいました。 もしもあのアニメ世界へもぐりこみ、夜行列車に乗って四国の田舎へ行ったならば、そこにはアニメバージョンのぱごすけがあほヅラを惜しげもなくさらしながら保育園へ通っているはずです。 だからこそ世界観を共有できるはずです。いや、むしろ忘れかけていたあの時代のにおいを思い出したくて私は劇場に足を運びました。 (この辺はスタジオジブリさんの時代考証と背景描写の確かさに対する絶対的信頼感のなせる業でしょうか) あの頃、まだほとんどの家に電話などなかったはずです。携帯電話などはSF作家ですら想像もしなかった時代。 電話をひいていたのは何かのお店くらいでしょうか?しかもダイヤルなどついていなくて、受話器を上げると交換手のお姉さんが話しかけてくれるのです。 冷蔵庫は大きな氷の塊で冷やしていましたし、洗濯機にはアナログなローラー式の絞り機がついていました。(劇中でも海ちゃんが使っていたでしょ?) 自動車だって走っているのはほとんどが路線バス(ボンネットバスだよ〜)やタクシー、お店の営業車などの業務用ばかり。 ある日近所の魚屋のおじさんが、漁協へ魚を仕入れに行く軽トラックに同乗させてくれたことがありましたが、ぱごすけは仕事から帰って来たおやじにそのことを自慢したものでした。
何かを手に入れるためにはその場へ、何かを伝えるためには相手の元へ、実際に出向かねばならない時代だったのですよ。 ・・・そんな時代に主人公の海〜メル〜ちゃんは、俊くんと出会ったのです。 海ちゃんはいかにもジブリのヒロインらしい女の子です。 凛々しく健気で、周りの誰からも好かれ頼られているのだけれど、その内面は、若くして亡くなった父親への愛惜や同級生への恋慕の情に激しく揺れています。 好きな俊くんとの仲がどうしようもなく行き詰ってしまっても、取り乱す風もなく日々己の為すべきことを為す海ちゃん。 しかしアメリカ留学中であった母が突然帰って来たその夜、せつない気持ちが小さな胸からどうしようもなくこぼれ落ちて、彼女は大粒の涙をぼろぼろと流します。 母の前ならばこそ。 心の安全地帯にようやくたどりついて本当の姿をさらけ出して泣く海ちゃん。(長澤まさみさんがいい!) しかし、彼ら純朴な若い心の周囲には、それらを温かく見守る大人たちがいてくれます。 その限りなく深い愛はどうだ。 泣きじゃくる海ちゃんをわけも聞かず黙って抱きしめるお母さん。 〜おまえはオレの息子だ〜 家族への深い愛を心に宿す寡黙な船乗り、俊くんのお父さん。 豪放磊落。年齢を重ねてなお子供の心を失わぬ徳丸理事長。 そして、出生のえにしにふりまわされて行き場を失った若い恋心を、最後の最後で晴れやかな青空へと導いてくれる『生き証人』小野寺船長。 「澤村と立花の子供たちと会えて嬉しい」 亡き友人たちに対する変わらぬ友情。人の気持ちとはなんとせつなく美しいものか!その放つきらめきが、まっすぐに見るものの胸を打ち続けます。 さて、ストーリーとは別にジブリアニメの真骨頂とも言うべき演出が今回も随所に見られます。 まずは時代考証。 それはつまり人々の生活描写です。 街のようすやオート三輪は言うに及ばず、ぱごすけが最も驚愕したのは『足音』です。
そこを歩くときの独特の足音。ぱごすけの通う学校もそうでした。 現在のフローリングなどと違って床材はどれも不ぞろいであちこちギシギシと音を立てます。 コツコツでもカッカッでもない。もっとくぐもった、少し湿った、そしてほんの少し温かいあの足音は、学校の廊下でだけ聞こえる・・・いや体感できるものだったはずです。 若い吾朗監督はどうして「あの音」のことを知っていたのでしょう? そして“魔窟”カルチェラタン。 出た!秘密基地だ!! 心地よい建物の混沌。 廊下や階段の踊り場(?)に増築(!)された見るからに居心地の良さそうな汚ったねぇ部室の数々。 いいなあ。いいなあ。いいなあ。 ああ、もっとその一角をよく見せてください。棚にならべてある本を一冊ずつ手にとってみたい。その隅っこに積み重ねてあるものは何ですか? DVDを入手したら思いっきり巻き戻しながらスロー再生で隅から隅まで見てやるからな。 未来永劫、取り壊したら承知しないぞ!(ね、理事長!!!) 手嶌葵さんの澄んだ歌声、エンドロール・・・ 『しまった!』 映画を観終わった余韻の中で、私は後悔しました。 あらかじめ忠告はされていたはずなのです。 〜大切な人と観てください〜 (byKDDIさん)と。 なのに私は・・・迂闊にも一人で観てしまいました。 おかげで観終わった後、無性に家族に会いたくなってしまいました。 恐らくは長いお付き合いになるであろう作品。今日のところは急いで我が家に帰るとしましょう。 |