機動戦士ガンダムSEEDデスティニーA

2007年1月7日放送:スペシャルエディションW自由の代償 を見て)


このシリーズに「スペシャルエディション」という編集作品があることは、前作SEEDの頃から知っていました。見始めると目が離せなくなってしまうくせに、その長さとストーリーの細かさゆえ、最後まで見るためにはこちらも相当のエネルギーを費やさねばならないことがわかっているため、なかなか「観よう」と思わないこのシリーズ。総集編としてキモの部分をかいつまんで見せてくれるなら一見の価値アリだな、と漠然と思いながらこの日を迎えました。

地上波で放送してくれるというのですから、このチャンス逃すまじ、とばかりにビデオもセットして気合十分で見たのです。しかも幸か不幸か総集編の第4部、一番盛り上がるパートですし。

で、困ってしまいました。

これは・・・違う作品になっている。もはやOVAだ。

ここまで述べたとおり、ぱごすけはこのスペシャルエディションを「総集編」だとばかり思っていたのです。総集編というものは当然本放送時のものを適当にカットしてつないだもののはず。たまにディレクターズカット(DC版)と称して数分間程度のカットが付加されていたりしますが、基本はあくまでも「本放送分」であるものなのです。ところが、初めて見たこのスペシャルエディションはセリフの端々やカットなどが「変更」されていたのです。

もちろん大筋では「総集編」の体裁をなしているのですが、ひとにぎりの、しかし重要な部分のセリフが微妙に違う。

「重要な」部分が「微妙に」違う…とはどういうことか?

登場人物のわずかな言動を手がかりに、彼らが何を考え、何を望み、何に喜び、何に悲しみ、何に怒っているのかなどを、見る側の私たちが推察しなければならぬこのシリーズ特有の面倒くささ(=醍醐味?)ゆえに、私たちはセリフに用いられている言葉づかいひとつひとつにまで細かく耳を澄まさねばなりませんが、セリフが変わり、用いられる単語が変わることで、セリフの持つニュアンスや方向性までもがたやすく変わってしまうのです。長いシリーズの中で繰り返し繰り返し語られているようで、実はさっぱりわからないもの。例えばアスランが戦闘中にいつも言う「シンが本当に望んでいるもの」とは何か?ある意味デスティニーの最も重要なこのポイントも、わかっているようで一度も明確に説明されてはいません。アスランが勝手に思いこんで、言葉たくみにシンを惑わせているだけなのかもしれません。決して意図的だとは思えませんが、かと言って、シンの心にどろどろと渦巻いているもの(肉親への恋慕、彼らの無残な死に対する怒り、自分ひとり生き残ってしまった幸運に対する安堵と後悔、戦争への憎しみ、家族を守ってくれなかったオーブに対する恨みと郷愁、目の前で死に行く家族を守れなかった自分の弱さに対する苛立ちと、MSのエースパイロットとして力を持った今の自分に対するむなしさ、平和への信念を貫こうとする凛としたカガリに対するまぶしさと、それゆえ一層強くなる、死んでしまった家族がもう戻らぬという不条理に対するやり場の無い悲しみと怒り)をアスランが本当に理解できているかどうか、はなはだ疑問です。少なくともシン自身は、亡き妹の携帯電話を握り締めるだけで、その口からは何も語られていないのです。

さらに、デュランダル議長が提唱するデスティニー計画の内容も、もっぱらアークエンジェルクルーたちによって一方的に語られるだけで、当の議長はその詳細をほとんど語らせてもらっていません。つまり、そういったストーリーの根幹に関わるデリケートな要素を、本放送時とは違ったことばで登場人物に語らせると、辞書の上では同じような意味を持つ言葉であっても、その「含み」が全く違う、もしくは解釈の可能性を異様に広げてしまったり逆に狭めてしまったりする結果になるわけです。

実際、はじめのうちはそんなことに気づかなかったぱごすけは、ずっと妙な「納得感」に苛まれていました。変な表現ですね。つまりSEEDデスティニーは、各場面や各エピソードの展開や結末において、決して「うんうんなるほど」とか「ははぁ、そういうことなのね」というふうに納得できるようなものではなかったはずなのです。必ず何かしら疑問が残るし、次回以降に課題を残しながらお話が進んでいったはずなのです。ましてや戦闘中の会話など、鋭く短いもの。「あんたって人はぁぁぁ!」だけでシンのアスラン像を推察しなければならないのですよ。ひとつひとつのサンプルをあげて詳しく説明するのは省きますが、ぱごすけ的には、スペシャルエディションのセリフは全体的に丁寧というか、やわらかいというか、シンプルだった本放送時よりも語数が増えているような気がします。(あくまでも気がするってことですけど)例えば機関停止したミネルバから離脱する時にグラディス艦長がアーサーに後を託すシーン。本放送時は、戦線離脱を宣言した後、ひとことアーサーに後を任せてとっとと議長の下へはせ参じてしまうグラディス艦長。スペシャルエディションではしきりに「申し訳ない」という気持ちを表そうとしています。ここ、誰かに「グラディスは無責任だ」みたいなこと言われたのでしょうかね?私としては本放送時のほうが「艦長の仕事はここまで、ここからはひとりの女性として行動するわよ」といった彼女らしい切り替えの見事さが表れていて気持ちよく見られましたがね。

なんにしてもジャンケンの後出し的反則スレスレ技でもって視聴者をより「納得させよう」という製作者の思惑がちらほらと見え隠れするのは私の錯覚でしょうか?それも「ある一定の方向」へとたくみに誘導しようとしているように思えるのは・・・?

そしてクライマックスのメサイアにはなぜアスランが登場しなければならなかったのでしょうか?彼の登場意義って一体・・・?アークエンジェルクルーの一員であるアスランは、決してあの場所において中立的立場で事の成り行きを傍観できる存在ではありません。かといって本放送時のように“こちら側”がキラひとりで役不足だったとも思えません。なぜ???まさかアスランファンからの要望に応えるためのサービスであったなどということはありませんよね。う〜ん、解せません。

そしてその後どうしてジャスティス(=アスラン)はシンとルナマリアに手を差し伸べたのか?そもそもなぜ「Final Plus」などというエピソードが付け加えられねばならなかったのか?(どうしてオーブの慰霊碑の前に一同が勢揃いしなければならなかったのか?どうしてシンは差し出されたキラの手を握ることになったのか?などなど)さまざまな推測が可能なのでしょうし、製作者の真意は計り知れませんが、スペシャルエディションにおける改訂は、私には本放送終了時に可能であったいくつかの解釈の選択肢を一点に集約させようとしているとしか思えません。キラやラクスやアスランの立場こそが正義なのだ、この結末で間違いなかったのだ、と念を押そうとしているとしか・・・。

少数派であろうと自覚しつつ申しますが、ぱごすけは、SEEDデスティニーは人類が得るべき未来を手にすることができずに終わった、つまり広義においての「正義」が敗れた非常に珍しい作品だと思っています。(表現を和らげて言えば、得るべき未来を手にすることができなかったとも解釈できる状態のまま終わった、非常に珍しい作品だと思っています。ということです)キラたちが言う「隷属による未来など無意味」「自らの意思による未来を切り開くために戦わねばならない」という言葉、考えに私は正面から反対します。(=議長のデスティニー計画に賛同します)ま、ある種究極の選択ということになりますがね。ラクスをめぐる一連の陰謀や、レクイエムによるアルザッヘル砲撃など、議長は十分悪いのですが、デスティニー計画はやはり戦争終結の究極の一策であったと思います。私の息子が戦場へ行かねばならぬとしたら、何人もの肉親や友人が宇宙の塵となってしまったとしたら、自分たちの未来や野望を棄ててでもそれ以上の悲しい別れを回避したいと思うのはおかしいでしょうか?溢れる才能と未来の可能性が無くとも、貧しく一生を終えようとも、生きてさえいてくれたら!まず自分の目の前で笑っていてくれるなら!それは何よりも、いかなることよりも優先されるべき、人が皆全身全霊で望むことではないでしょうか?メサイアの中で議長に向けられたキラの銃口の前には、デスティニー計画の遂行を求めて、恐らく何十万、何百万という人たちが立ちはだかったはずです。全人類の行く末を左右する壮大な計画を、自分たちだけの意見で武力阻止したアークエンジェルも、結局はデュランダル議長と同様の思い上がり集団であったと言えはしないでしょうか。

戦ってでも(大勢の犠牲をはらってでも)望むべき未来を勝ち取る、というのは所詮武力を持った戦闘集団の考え方であろうと思うのです。もちろん、デスティニー計画導入後、何十年か後にはアークエンジェル的思想を持った一般市民による暴動が勃発しないとも限りません。しかし、今目の前で戦場へかり出されてゆく肉親を引き止めたいと思う気持ちこそ人間本来の心情でしょう?そこでは理屈など何の意味も持ちませんよ。

本放送の終わり方なら、見る者の好み次第でそんな理解もできたのですよ。ところがところが、スペシャルエディションの終わり方は強引にただひとつの結末を見せています。私のような(上述のような印象を持った)見方をした視聴者は、頭をつかまれて無理やりアークエンジェルの方を向かされたって感じはいなめません。両親や妹の魂が眠る慰霊碑前でキラに握手を求められ、彼らの運動に賛同し(まぁ議長亡き後、シンの取る道はそこにしかないのかも・・・)世界はラクスのプラント最高評議会とカガリのオーブ連合首長国の連携のもと、平和で安定したものになってゆきます(ゆくのでしょう)。キラはザフトの軍服を着ていましたね。ラクスの恋人としてずっと傍らで彼女をサポートしてゆくのでしょう。アスランはオーザフト最新鋭艦ミネルバ発進!ブの制服でした。シンもルナマリアも仲良さそうによりそって、皆きちんと納まっちゃってね(メイリンはどういうことになるのでしょうねぇ?)。

「正義はアークエンジェルに在り」製作者たちの思惑どおりの決着がつきました。

しかし、キラは慰霊碑の前でシンにこう言ったのですよ。「何度吹き飛ばされてもまた花を植える」と。それは一見美しい言葉のように思えます。レイが(絶対納得はできませんが)心変わりしたように、キラの言葉はシンの凍てついた心に温かく突き刺さります。だけど彼はこう言ったのです。「また何度でも戦争はおこるんだよ」と!!!

くどいようですが彼はデュランダル議長よりも正しかったのでしょうか?生還する望みの薄い、あの宇宙での戦いに、あなたの家族が出征してゆこうとする時「あの時、議長のデスティニー計画が実行されてさえいれば」とあなたは考えないでしょうか?

そして愛すべき裏切り者“好漢”アスラン・ザラ。彼の言動がいかに観念的で直情的なものか、少々うんざりしたこともありました。MSに乗って出撃したシンに「やめろ」という無責任。(そんなもん、やめられるわけないじゃないですか。ねぇ)自分は脱走した“実績”があるから言えるのかもしれませんが、そのせいで自分は瀕死の重傷を負い、メイリン・ホークを巻き添えにして彼女の人生を大きく狂わせ、シンたちミネルバの仲間に計り知れない精神的ダメージを与えています。そのくせ、平時にシンを(彼が言うところの)改心させ、(彼が言うところの)誤った状況から救出してやろうという行動はまったく起こしていません。戦闘時の切羽詰った状況でしか説得しないというのは、傍目にはどう見たって言葉巧みに動揺させて撃墜させようとしているとしか思えない行動です。

それでも「何が本当の正しい道なのか」をもがきながら模索するアスランの姿に共感しないではありません。達観しているキラだって、前作SEEDではシン以上の精神的地獄の中でのたうちまわったのですから。ただ、もし私があの世界に実在する人間だったとしたら、やはりアークエンジェルには行けません。アスランの行動には賛同できません。それを裏付けるのがイザーク・ジュールの存在です。彼は一貫してれっきとしたザフトの上級将校でありながら、自らの信念に基づいて行動し、戦場においても部下を守りつつ大局を見極めて、命令に盲従することなく、常に何をすべきなのかを見失っていません。メサイアからの攻撃に際し、敵であるはずのエターナルに避難勧告すら出しています。ザフト正規軍にいても、やるべきことはやれるのです。そしてイザークは、あたかもアスランがシンを叱咤するかのようにアスランを叱咤します。「おまえはまたこんな所で何をやっている!?」と。その確たる信念に裏付けられた叫びに、揺れ動くアスランが応えられるはずもありません。ディアッカのとりなしなくして、アスランはイザークの前に顔出しできる筋合いではないのです。ある意味、ことの大局をしっかりと見据えながらも己の信念を貫いたもっとも見事な登場人物はイザーク・ジュールであったのかもしれません。前作SEEDでは直情的なやられキャラだったイザークが、今作ではまたずいぶんと成長したものです。新政権においてラクスが傍らに彼を置くのも十分わかります。

最後に、スペシャルエディションではっきりしたことがもうひとつあります。シン・アスカはやはりキラやラクス、アスランたち前作の主要キャラを立たせるための踏み台であったということです。製作者サイドの逡巡の結果がこれだったのですね。キーワードは「無難な着地」ということなのでしょうか。少し残念です。

ま、ことほど左様に私の中で葛藤を繰り返す作品、名作には違いないです。正直に告白すれば、慰霊碑の前でキラの言葉に初めて心を開きぽろぽろと涙を流すシンの姿は、強く胸を打ちました。どういう形であれ、ねじれすさんだ彼の心が、ようやく真っ直ぐにほぐされたことが嬉しかったですね。

前作SEEDを壮大なる序章として展開した今作は、リアル系スーパーロボットによる戦闘アクションアニメの枠を越えて、一大抒情詩へと昇華してゆきました。ガンダムSEEDデスティニー、お見事でした。

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