ウルトラマンコスモス
2001年7月7日 〜 2002年9月28日 MBS 毎週土曜日18:00 〜18:30(全65話+特別総集編2話)
そんな中で映画館に新しいウルトラマンが降臨しました。コスモスです。アグル以来の青いウルトラマンは見るからに穏やかな表情をしていて、まだ幼いムサシ少年とのふれあいを軸に、ハートウォーミングなストーリーを展開してくれました。この映画を伏線としてスタートしたTV新番組ウルトラマンコスモス。その特徴は何といっても「怪獣も地球で共に生きる仲間」という概念でした。むやみに退治しようとせず、できるならば保護してやりたいと、チームEYESは奮戦します。(で、登場する怪獣たちがまたおとなしくてイイやつらばかりで・・・いやはや)この方向性は、根源的破滅招来体を撃破するために地球怪獣が人類とともに戦ったウルトラマンガイアのラストを考慮すれば至極当然のもので、ガイアで感動したウルトラ者たちの心中を察すると、ここでバッタバッタと怪獣を退治するわけにもいかなかったのでしょう。(せめてもうしばらく間を置かなければ・・・と私も思いました) しかし、ならばウルトラマンや防衛チームの敵は一体何なのでしょうか? 現れた怪獣たちを眠らせて一生懸命隔離させるだけのドラマでは、ウルトラマンの出番もありませんものね。そこで、カオスヘッダーという敵が設定されました。つまり「敵」は必要なのです。この作品では、それが怪獣ではなく、カオスヘッダーであっただけのことなのです。ならば逆にその「敵」が<従来の>怪獣であっても別段問題はなかったはずです。そして先にも延べましたが、登場する地球怪獣がおおむねおとなしくて気のいいやつらが多いというのも、結論から導き出した原因のようでちょっと納得しづらかったですね。つまり、リドリアスのようにおとなしい怪獣なら、他のウルトラマン作品でも殺されてはいなかったかもしれません。ウーやピグモンやキングモーラットのように、人類と仲良くなったり、同情されたりしたかもしれないのです。逆にコスモスにゴメスやレッドキングやゴルザなどの好戦的で凶暴な怪獣ばかりが現れたとしたら、それでも怪獣を保護するのでしょうか? (もし保護するなら、よほど広大な土地で1匹ずつ放し飼いにするしかありませんよね。何らかの処置を施して無理やりおとなしくさせるなんていうのは、ある意味一番残酷なやり方ですから) 結局ウルトラマンコスモスと怪獣の格闘を演出するために、カオスヘッダーが乗り移ったという設定までしていますが、なんだかもってまわった感じはぬぐえませんでした。従来の作品では怪獣と戦って人類を守った。コスモスではカオスヘッダーと戦い怪獣を守った。やっていることは同じです。(ちなみに、現実世界における希少動物保護活動の大切さ云々とはまったく次元の違う話をしております) 何故私はコスモスの設定に「?」をつけてしまうのか・・・。 やっぱり私が古い第一次ウルトラシリーズの世代だからでしょうかね。そしてコスモスの設定を現実社会に照らし合わせて「甘い」と感じてしまうのは、もうどっぷりと「大人」になってしまったということなのでしょうね。(ま、実際発酵しそうなオヤジめでございますゆえ)「怪獣というのは、巨大で、狂暴で、一刻も早く退治してしまわないと人類の存亡にかかわる一大事となる存在」この設定からどうしても抜け出せませんでした。(抜け出したくないのかも)怪獣災害から死に しかし一方で、デカくておぞましい怪獣も、おおらかな目でその姿や行動を観察してやれば決して共存できない存在ではないはずだ、という価値観の多様性に則した新たな教育番組(宮内“ビッグワン”洋先生がおっしゃるように、ヒーロー番組とは教育番組ですから)として、ウルトラマンコスモスはどうやら小さなウルトラ者たちから絶大な賛同を勝ち得たようです。なにせ続くわ続くわ全65話ですものね。(一時期の不幸な出来事で、放映されずに終わった作品まであると聞きましたが、本当なのでしょうか?)加えて映画が3本!!ウルトラシリーズ万々歳!ではないですか。私たち“最”年長組の理屈はともかく、真の主役たる小さなお仲間たちは怪獣をやさしく庇うルナモードのコスモスを見て、まるで自分もあのようにやさしくしてもらっているような穏やかな気持ちになったのでしょうか。 チームEYESのヒウラ隊長(サワグチ ヤスエ女史との爽やかな恋愛エピソードもありました)やシノブリーダーなど、魅力的な「大人」の存在が物語に適度な重さを与えてくれていたのが印象的でしたが、微妙にベクトルの違うウルトラマンに戸惑いながら、そしてその大成功に敬意を表しながら、結局私は途中退場させていただきました。ではごめん。 |